第7話 有名人レビュー
『盛田昭夫』
今日は、井深大とともに電気機器メーカーソニーの創業者の1人
『盛田昭夫』をレビューします。
盛田は日本の技術者、実業家です。
名誉大英帝国勲章を受勲しています。
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■盛田を紹介する理由
井深とともにソニーを世界企業に育て上げ
井深の技術的発想を実現するとともに、ソニーの発展を第1として
活動し、技術者出身ながら営業の第一線にあって、トランジスタ
ラジオ、ウォークマンなどを世界に売り込んだ人です。
以下のような理由で、ある時期から非常に気になっていた人です。
□トランジスタラジオ
日本初のトランジスタから発売された。1955年そのころ
真空管ラジオが全盛期で、僕はよく真空管ラジオを作っていました。
また、白黒テレビの出始めのころでよくラジオペンチでブラウン管
を叩いてスパークさせていた事を思い出します。
トランジスタラジオが販売されてからは、配線が小さくなりすぎた
ためラジオ作りとか、修理はやめてしまいました。
□ウォークマン
1979年にウォークマンが出ると。社会人だった僕は早速それを
買って、英会話テープも手に入れて、しょっちゅうそれを
聞いていました。
持ち歩けるのがすごく嬉しかったのを覚えています。
ただ、全然英語は上手くなりませんでしたが…
□VAIO
コンピューター業界に入っていた関係上、2000年頃一時期、
デザインがよく本格的なAV機能を持つ、ソニーのVAIOを
使っていました。
業界初、世界初など初物機能を採用しており、かなり人気商品
となっていました。

■盛田昭夫
盛田昭夫は家業を継がず、リスクを覚悟のうえで電子工学に対する
思い入れを実現する道を選びました。
井深大と始めた「東京通信工業」は電気炊飯器のプロトタイプから
始まる小さな会社だったのですが…
エレクトロニクス機器の巨人、「ソニー」へと大成長を挙げます。
盛田はこの会社にその生涯をささげ、ポータブルのトランジスタ
ラジオからプレイステーションまで革新的な技術や製品を
休みなく世に送り続けました。
音楽を外に持ち歩けるようにした功労者でもあります。
その製品「ウォークマン」は世界中の辞書に載るまでになって
います。
「引退して楽な生活」などとは全く考えず、健康上の理由で地位
を離れるまでソニーの経営者としてその手腕を発揮しました。
□生い立ち
1921年1月26日愛知県名古屋市で生まれました、
盛田家は裕福な中産階級で、盛田は、家業の酒造業を継ぐはず
だったのですが、ほとんど興味を示さなかったそうです。
時間を見つけては電子機器をいじくり回すのが好きだったそうです。
学業そっちのけでラジオやレコードプレーヤーなどの電子機器を
制作していたと言われます。
大学では物理学を専攻し、エレクトロニクスに対する関心をさらに
膨らませています。
第2次世界大戦では海軍に入り中尉にまで昇進しています。
この大戦中「戦時科学技術研究所」で井深大と知り合っています。
戦後1946年に東京に出て、その後生涯のパートナーになる、井深大
と再開します。
2人は19万円の資金を調達して、新しい会社を創設し、
「東京通信工業」と名付けました。
□成功へのステップ
盛田の独自の小型化技術は、エレクトロニクス企業を育て上げる
ためのキーとなりました。
1950年に日本初のテープレコーダを開発します。
これは同社にとって柱となる初めての製品でした。
盛田にとって最大のチャンスはトランジスタラジオの開発です。
トランジスタそのものは日本ではなくアメリカの発明であり…
盛田は1953年にアメリカに渡り、ベル研究所からトランジスタ技術
のライセンスを受けようとしました、が…
世界初のトランジスタラジオは他社によって作られました。
日本初のトランジスタラジオは「TR-55」と言われ1955年の8月に
製造されました。
ただ、その販売は日本国内に制限されていました。
東京通信工業が出荷した、輸出用ラジオは1957年に導入された、
「TR-63」です。
「TR-63」は二つの理由で大成功を収めます。
第1に、どこから見ても革新的なデザインであり、贈り物に使える
ような化粧箱を使っていました。
第2の理由は、販売における盛田の頑固なまでの粘り強さです。
自らラジオを流通業者に持って回り、ニューヨークの電気店への
経営者に、その店に置いてくれるように売込みに歩きました。
結果的に盛田は大量の注文を抱えて日本に帰国しました。
1958年盛田は、社名の変更を行います。
グローバル化を熱心に説き「東京通信工業」という名前は海外の
マーケットに進出する場合には障害になる、と…
新しい名前は世界中どこでも認識してもらえるような新しい名前
どんな国の言葉でも発音が同じになる名称と
その答えは「ソニー」に落ち着きました。
これはラテン語の音を意味するsonusと、アメリカ口語の快活な
坊やを意味する-nnyの造語です。(SONY)
ソニーは革新的なエレクトロニクス製品を着実に世に出し
続けています。
1960年にオールトランジスタテレビ
1965年に初の家庭用ビデオテープレコーダを開発しました。
1963年に盛田は、家族とともにアメリカに移住し、ソニーアメリカ
の経営に専念します。
盛田はソニーの製品を、最高の品質を体現したブランドとしての
位置付けを図りながら、アメリカでの売り込みに力を注ぎました。
間もなくソニーの製品はアメリカ全土で販売されるように
なりました。
□転機
若者が音楽を行く先々で聞きたいと願っている事に気づき、
盛田はポータブルのカセットプレーヤーの開発を提案します。
周りの人達は大反対しましたが、盛田はガンとして自説を曲げず
1980年にウォークマンを誕生させます。
盛田は言いました。
「大衆にはどんな事が出来るのか、それが分らない。
我々には分る」
ウォークマンは売れ続け、この名前は世界共通の言葉になりました。
ソニーを1兆円企業に育て上げた盛田は、しかし決して仕事の手を
休めようとはしませんでした。
余暇をスキューバダイビングやスキー、テニスなどで過ごして
いました。
これらのスポーツは50才を超えてから始めたものだといいます。
1993年に健康上の理由から、ソニーの経営から引退し
1999年の10月に世を去りました。
■エピソード
盛田とソニーのエピソードを少し…
□資金調達力
盛田の最大の能力は資金調達力にあります。
松下などに比べ、規模ではるかに劣る当時のソニーが技術開発の
資金を調達するのは並大抵ではなかったのですが…
盛田は見事にそれをやり抜き、トリニトロンの商品を実現しました。
□酒屋の跡取り
盛田は「社交性に富み、非常に親しみやすい」と言われる半面、
十数代続く造り酒屋の跡取りとして、厳格な一家の家長であった
と言われています。
ただ、子供に自分の思考を押し付けたりはせず、進学などを指図
することはなかったといいます。
また、東京通信工業のころの社員の給与は、盛田の実家の酒屋から
出ていたという逸話もあります。
□持論
「日本は福祉国家ではない」が持論で、大きな政府に否定的な立場
であったとされてます。
1989年政治家の石原慎太郎と「NOと言える日本ー新日米係の方策」
を発表し、ミリオンセラーとなっています。
□ソニーについて
アメリカ時代ある調査で「日本製のラジオは使った事があるか」
と尋ねられたアメリカのラジオ店が「ノー」と答えた。
「それではソニーのラジオはどうか」と質問されると「イエス」
と答えたという。
□ウォークマン(Walkman)
初めのころウォークマンという製品名は世界共通ではなかった。
ソニーアメリカはこの名前をお粗末な英語だと考え、アメリカの
マーケット用に「サウンダバウト(Soundabout)」と変えている。
スウェーデンでは「フリースタイル(Freestyle)」、
イギリスでは「ストウアウェイ(Stoeaway)」と…
盛田はこのやり方が気に入らなく、世界中全ての名称を
ウォークマンに統一させた。それが大成功であった。
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