ほとんどの自治体が発効するにいたった「プレミアム商品券」。事実上、富裕層に与えられた「政府紙幣」となった。
最寄りの役所に1万円の日銀券を持って行くと、1万2千円の「○○市紙幣」と交換してくれる。その自治体内でのみの利用となるが、事実上、お金を1.2倍増にしてくれる魔法の政策である。
もちろんそれには大きなカラクリがあり、まずは、その「1万2千円札」にはお釣りが出ない。よって12,000円以上のまとめ買いができる人、または「ゆとり」のある人にしか意味がない。
次に、当然、その20%の上乗せ分は納税者負担であり、一旦は日本政府の借金となった上、いずれ我々または、我々の次の世代が清算しなくてはならない。
過去に欧米で、政治の二極分化が起こった。それまで複数あった有力な政党が淘汰された結果、改革派と保守派に二極分化した。
改革派またはリベラルは、いわゆるソーシャリスト(日本語の「社会主義」は誤った解釈も含む)な社会を目指す。「健全な格差」を否定するものではないが、弱者を皆で助けようという精神。西ヨーロッパ諸国や、中露を始めとするユーラシア大陸の多くの国々は、このような政策、精神を世紀をまたいで育んできた。
これに真っ向から対立するのが保守派。すなわち親の代や、それ以前の代から継承される富、権力は保護されてしかるべきという理念を持っている。
彼らは、そのスタートラインの差を問うことなく、競争を「自由」と位置づけ、そこで生まれた強者が弱者にほどこしを与えるという国家像を描く。
多くの場合、この「強者」には、その能力や人格が問われることはない。それらは、世代をまたいで固定化された富や権力よって測られるからである。これまでのアメリカや日本は、そうした理念の下、国家が形成が進んだと言える。「自由と平等」の解釈が、大陸のそれとは全く異なる次元にある。
「自由」そのものは誰もが愛するところだが、その自由は当然、フェアさを伴わなくてはならない。出自の差で最終学歴が決まったり、親、親族の後光によって、最初から競争で有利な立場にあっては、自由競争とは呼べない。
貧困化が加速している日本において、富裕層の消費(または浪費)のために、全納税者に負担を強いるような経済対策は、その本質をもっと問われるべきではないか。