ブラック・マンデーの続きっす。
1987年8月にFRB議長に就任した
アラン・グリーンスパン議長を長とするFOMC委員は、
過剰なインフレを引き締めるため、
まずは公定歩合の引き上げを断行したっす。
これにより過熱化していたアメリカの景気は減速し、
ドル安は、さらに加速していったっす。
不安を感じた投機筋や金融機関は、
株式をどんどん売っていったことによって、
1987年の10月前半のニューヨーク株式市場は、
下落一辺倒の相場となっていたっす。
そして、1987年10月19日の月曜日。
ニューヨーク株式市場の終値は、
額にして508ドル、率にして22.5%という
史上最悪規模の暴落となったっす。
この世界同時株安のきっかけとなった
ニューヨーク市場での大暴落を
ブラック・マンデーと呼ぶっす。
(。・ε・。) トイウノガ ゼンカイマデノ アラスジ
事を重大に捉えたFRBは、
即日に危機管理本部を設置。
地区連銀の総裁たちは各地域の
金融機関から情報を収集し、
大手の金融機関が資金不足に陥ったとき、
流動性を供給する方法など、
緊急の対応策を練り上げていったっす。
中央銀行は、このような信用不安が発生した時に、
金融が麻痺する役割を担うっす。
企業や金融機関が支払いを止めれば、
実体経済の活動は停止してしまい、
そのような事態を防ぐのが
中央銀行であるFRBの仕事っす。
( ・(ェ)・) キンユウノ リュウドウセイ カクホガ サイユウセン
そして、翌日の午前・・・
株式市場は大荒れとなっていたっす。
ニューヨーク株式市場では、
買い手がつかないために、
主要な銘柄が売買できないという
事態に陥っていたっす。
ニューヨーク証券取引所は
取引を停止するという計画も考慮していましたが、
暴落時に取引を停止すれば、
投資家の恐怖はさらに強まるっす。
取引できる状態なら、
いくら評価損が膨らんでも、
まだわずかな希望が残されますが、
一旦取引を停止すると、
最初の買い注文を入れるハードルが
非常に高くなるため、
取引を再開するのは極端に難しくなり、
そのことによって、金融システムが麻痺し、
被害が実体経済にまで及んでしまうっす。
こうなると、FRBにできることは
ほとんど無いっす。
・・・しかし、幸運にも十分な買い手が現れて、
ニューヨーク証券取引所は、
取引停止の計画を先送りにするという
決定を下したっす。
| 壁 |д・) エラク ツゴウガイイ テンカイダナ
このような予断を許さない状況下で、
FRBが下した判断は、
「市場が機能している間は、
資金投入による直接的な救済策は取らず、
銀行が証券会社などの金融機関を
支えさせてくれることを期待する」というものだったす。
そのような判断を元に、FRBが練った文言は、
(非常事態にはFRBが銀行に対して、
セーフティネットを提供する代わりに、)
緊急事態までは、
銀行が他の(証券会社や投資銀行などの)
金融機関を支えるよう
期待をほのめかしたものだったっす。
「FRBは、アメリカの中央銀行としての
責任の一環として、流動性の供給源としての役割を果たし、
経済金融システムを支える用意があることを
本日確認した。」
そうグリーンスパン議長は声明を出し、
その後の地区連銀総裁を主とした
継続的な金融機関への説得により、
一週間以上すると、
ようやく金融危機は鎮静化され、
実体経済への影響は、
なんとか回避することができたっす。
| 壁 |д・) クチサキカイニュウ ダケデ シノイダッテ コトカ!?
長くなったので、続きは明日っす。
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