ブラック・マンデーの続きっす。
1987年、アメリカのレーガン政権は、
巨額の貿易赤字と財政赤字、
いわゆる双子の赤字を抱え、
加えて、プラザ合意によって、ドル安が進んでいたっす。
政府財政の悪化とドル安は、インフレを誘発し、
インフレは、金融市場に過剰な資金を
流入させていたっす。
この状態はいわゆるバブル経済であり、
さらなるインフレを抑止するために、
アメリカの中央銀行であるFRBは、
一刻も早く政策金利を上げる必要に
迫られていましたが、
過剰な政策金利の引き上げは、
アメリカ経済の失速をさせ、
さらにはバブル経済を崩壊させる
大きなリスクをはらんでいたっす。
こんな時に、FRB議長に就任したのが、
アラン・グリーンスパン議長っす。
(・ω・)/ アラスジ ココマデ
グリーンスパン議長は、
何もしないで放置することは最悪であると
考えていましたが、
3年間の利上げを行っていない中、
利上げを踏み切れば、大きな政策転換となり、
FRBが金融政策の方向を変えると、
金融市場が動揺しかねない状況にあったっす。
金融市場が急上昇している時の引き締め策は、
特にリスクが大きく、投資家が金融市場に対し、
恐怖心を感じれば、不況の引き金となり
実体経済に対しても、深刻な悪影響を及ぼしかねないっす。
ヽ(;´ω`)ノ ナッタノガ リーマン・ショック
また、就任わずか1週間の議長が初参加のFOMCで、
それほどのリスクを伴う決定について、
FOMC委員全員の合意を取れるとも、
考えていなかったっす。
そこでグリーンスパン議長は、
まずは初回のFOMCでは、
FOMC委員の意見を確認することにしたっす。
すると、連銀総裁5名をはじめFRB理事7名全員は、
利上げが必要と考えていたっす。
そして2回目のFOMCでは、
政策金利であるフェデラル・ファンド・レートに連動する
公定歩合を5.5%から6%へ引き上げることが
全会一致で承認されたっす。
余談ですが、FRBが市場に過剰反応させたくない時は、
フェデラル・ファンド・レートを操作する前に、
まずは、実質は機能していないはずの、
公定歩合から段階的に操作することもあるっす。
( ´艸`) マズハ ヨウスミ
政策金利(アメリカではフェデラル・ファンド・レート)と
公定歩合の違いがわからない方は、
こちら をクリック。
このFOMCによる金融政策である
インフレ抑制のための、
公定歩合引き上げに対して、
市場は冷静に受け止め、
その日の株価は、わずかに下がったのみで、
市中銀行も、最優遇貸出金利(本文下部参照)を、
公定歩合と同じ利幅の引き上げたに
留まったっす。
しかし、グリーンスパン議長は、
危機は未だ去っていないと考えていたっす。
ヘ(゚∀゚*)ノ シジョウハ ダレニモ コントロールデキマセン
・・・そして予感は的中。
一旦、景気が減速し、さらなるドル安へと進行すると、
ウォール街の不安は、一気に高まったっす。
なぜなら投機筋(ヘッジファンド、投資銀行など)が、
株式市場などに過剰に投じた資金のうち、
10億ドル単位の資金を回収できなくなる
リスクが発生したからっす。
ちなみに、アメリカ以外の投機筋は、
ドルを買って、株式を保有しているので、
ドル安を株高でカバーしていたのが、
株安、ドル安の二重の含み損となるっす。
こうなると不安で株式も為替も
ポジション(持ち高)を切りたくなるのが人情っす。
そして・・・
1987年の10月初頭、不安は混乱へと発展し、
株式市場は、第1週に66%、第2週にさらに12%下落し、
週末の10月16日の金曜日には、
ダウ工業平均株価を108ドル下げて、相場を終えたっす。
週明けの10月19日月曜日。
前週の大幅な下落を受けて、
金融市場の不安はピークを迎え、
さらに自動売買によるロスカットが多発、
売りが売りを呼ぶ結果となり、
この日一日でニューヨーク株式市場の終値は、
額にして508ドル、率にして22.5%という
市場最大の暴落となったっす。
この暴落がきっかけとなり、
その後の世界同時株安になったため、
1987年10月19日の月曜日の大暴落のことを
ブラック・マンデーと呼ぶようになったっす。
。(´д`lll) シニンモ デタダロウナ・・・
※最優遇貸出金利とは、
最も信用度の高い顧客に適用する
短期事業貸出向けの最優遇金利。
プライムレート。
長くなったので、続きは明日っす。
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最後まで読んで頂きありがとうございました。
皆様のお役に立てれば、幸いです。