自分の気持ちを伝えるのが不得意だと
自分の中で勝手に解釈していることは
自分自身の可能性をどこかで否定していて
型にはまった生き方をしているんだとも思った。
それはどこかに諦めのような感覚を持っていたり
面倒だと逃げている生き方になっていたり
どれにしても社会の中に紛れているような
生活に価値観を見出せないような捉え方をして
自分を客観視した結果見下しているようにも思える。
毎日の生活の中にありふれる娯楽の中に
自分は何か希望のようなものを探してしまって
今の自分やこれまでの自分を浄化させたいと
見つめて考えて挑むことに意味を持たせていたけど
本当はそうではなくて
もしも今の世界が本来のあるべき風景だとしたら
見つめて考えて挑むことから逃げているだけの生活と
赤の他人は笑ってバカにするだろう。
固定概念を捨てる。
言いたいことを言えたらいい。
間違っていることに気付けたらいい。
そこのところ、今なんじゃない?
待っていても意味がない。
挑んで見なければ始まらない。
失うものは何もない。
だけど実際のところ、見てもないんじゃない?
あの曲で泣いてしまったのは聴きたかったから?
羨ましかった世界を見てしまったからでしょう?
終わった後の余韻は何だった?
その世界に励まされたりまた頑張ろうって思ったからなんでしょう?
鳥かごの中の鳥は外の世界を羨ましがるけど
本当はもうその中で生きることを受け入れて
毎日羽ばたくことを刻んでいるのかもしれない。
狭い鳥かごに収まりきれないくらいの
大きな大きな自身の存在価値を
周りの誰かに知らせて生きているんだって
ふたつとない想いと存在をアピールすることで刻んでいる。
諦めというよりも
認めて生き様を刻むような行動。
人間よりも残酷で美しい世界。
人間よりも嫌味ったらしいそのかごの中で。
目の前の世界を捨ててまで
今あるその景色に戻ろうと決めたのは
自分に自由が欲しかったわけではない。
言葉に怯えたからでもない。
待っている人がいるからでもなかった。
やり残したことがあるのは勿論だけど
そんなことは明日でもいいと思えるけれど
足はもうそこに向いていた。
捕らえられた鳥のように縛られたのではなく
捕らえられた鳥のように自分の存在価値を見出だしたいと思ったからなのかはわからない。
嫌味は人を黙らせる。
必要以上に響いては必要最低限に伝わる。
嫌味は人を奮い立たせる。
必要以上に怒りに熱を注ぎ必要最低限に冷静に自分を覚ましていく。
感情は豊かに変幻自在になって
大きくとも小さくとも気付くことが出来る。
自分がいちばん、自分になりたいんだ。