今までの経過を知っている友達が
体調を気遣ってくれたので、素直に答えた。

ADDの薬が奏功し始めたのか、
 ・生活音などのノイズが気にならなくなったこと。
 ・小さな刺激(精神的な)で、凹みづらくなったこと。

逆に、
 ・「閃き(inspiration)」を感じなくなったこと。
 ・得意だった、さまざまなものを組み合わせること(洋服・食器・献立・
  ガーデニングなどのコーディネート)が、うまくできなくなってしまったこと。


「静けさ」を手にした代わりに、「sense」を手放さねばならないことが、怖い。
大した「感覚」ではなかったけれど、「感じる」ことが、何よりも自分の中で大切で、
だからこそ、音楽や文学、ドライブなどが好きだったのに、今はそういうものにも
あまり興味が湧かない。

「私」が「私」でなくなる気がして、それがとても怖いのだけれど、
きっとそんな感覚も、いずれ消えてしまうのだろう。
まるで、痴呆だ。

今はまだ、「まだら呆け」の段階なのだろう。

「感じられない」ことを意識できなくなってしまえば、楽なのかもしれないけれど、
それじゃ、もう、「わたし」じゃないもの… 笑。


話が重かったのかな?
メンヘラと交流するのは、嫌なのかも。
気持ち悪いし、めんどくさいよね。きっと。
そう思うのは当然の反応だとも思うし、
今までのような付き合いを強要することも、できない。

わたしだって、こんな自分が嫌だけれど、
私は私でしかないし、どうにもできない。


仕方のないことだとは思うけれど、今まで
信頼していただけに、ちょっと空しい、かな。
でも、薬のおかげで、以前のように
クレバスに落ち込むことも少なくなったから…

怪我の功名なのかも…。



10年以上ぶりに、ブラスバンドの曲を聴く。
中学時代に自分の演奏した曲をたて続けに・・・。

どの曲を聴いても、冒頭の2小節で滝のような涙。


1月と少し前から飲み始めた薬の影響か、調子が良くないのか
楽しいはずのことも、しんどいはずのことも、他人事のように情報として
「きっと今、楽しいはず」 「ああ、これって、ちょっとしんどいんだよな・・・」と
頭で整理しているだけで、現実的な感覚がない日々を送っていた。

感動も悲しみも薄い生活は、日常生活のクオリティに顕著に影響して、
仕事も、料理も、ピアノも、今までよりさらに精度が落ちていた。


気付かぬうちに体中を泥で塗りこめられて、
「私」という生き物が
草の生えぬ干からびた土地のようになりつつある感じがしていた。


そこに、思いもかけぬ 慈雨。


20年以上前の、小さく固い殻の内側で、わけも判らずにもがいていた、
息苦しくて、言い知れぬ不安に包まれていて、でも、一日一日の輪郭のはっきりしていた
きらきらしていた時間がよみがえる。


まだ、泣けてよかった・・・。
まだ私、ちゃんと「感じられる」のだよね。


この感覚を、どう持ち続ければよいのかな・・・。


ここところ、仕事上のミスの収拾や何やかやでばたばたとしている。
今日も、午後から夏期講習会の研修とミーティング。

ちょっとお疲れモードで、正直、心も晴れないのだけれど、
もう、支度を始めないと間に合わないので
横で寝ている飼い猫のダヤン君に抱きつき、充電する。

寝ぼけながら、私のおでこに自分のおでこをグリグリと押し付け
肉球を覆う長い毛のはみ出た両腕で、私の頭を抱っこしてくれる。

うずめたダヤン君の胸からは、冬のにおい。


一日一日、勤務と生きることをこなすことが精一杯だった
この前の冬も、こうやって彼に癒してもらっていたよなぁ… と思い出す。

何の疑いもなく、いっぱい「大好き」と伝えてくれて、どんなときも
その、もふもふとした被毛とココロで受け止め、癒してくれる
ダヤン君のエールを受けて、

さあ、出勤の支度をしよう。

謙虚に、地道に、そして気高く。
がんばってこよう!