長篠の戦い史跡めぐり 参 | 〜ある愛知のカープファンの抒情〜

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愛知在住カープファン・eviltailの、その日常。

25年ぶりに山県昌景の墓を訪れてみると、墓石が4体に増えている…。何故?


一番左は、山県昌景の墓。こちらは昔のままです。





武田4名臣の一人で、武田家中でも屈指の戦上手として知られ、現代でも戦国好きの間で人気のある昌景だけに、参る人も多いようです。


彼がこの戦いで亡くなっていなければ、武田の将来も多少違っていたものになっていたのではないでしょうか…。


さて、気になる他の墓を見てみると、同じくこの戦いで戦死した昌景の息子・昌次と、武田4名臣の1人でこの戦いには参加していなかった高坂昌信の一族、高坂助宣の墓でした。



新東名の開通で一部の史跡が移動したようなことは聞いたのですが、もしかしたら他のところにあったものを移設したのかもしれません(でも昔は昌次の墓はなかったと思うので、新たに建立されたものかもしれません)。


残る1つは「山県墓」と書かれているそうです(後で調べました)。



以前はここに昌景の墓しかなく、うら寂しい雰囲気でしたが、息子や仲間と一緒になって、この一部の空間だけ少し明るさが射しているような気がしました。良かったね、昌景さん。


墓に手を合わせて、次は勝頼の本陣跡へ。こちらも道に迷い、スマホで調べて何とかたどり着きました。着いてみれば最初の信玄塚から2、300メートルの場所だったというね…(^-^;  


天王山と呼ばれた少し小高い山頂にそれはありました。



ここで勝頼が戦の指揮を執っていたのか…と思うと気分は戦国時代にタイムスリップしそうになります。


今は辺りに木が生い茂っていますが、昔はここから下の設楽ヶ原が見下ろせたのでしょうね。


すぐ側には武田4名臣の1人、内藤昌豊の墓があります。





ここに昌豊の本陣もあったようです。



…武田4名臣(この括りは後の時代に出来たものですが)のうち、参戦していた馬場、山県、内藤の3人全員が討ち死にしたのですから、いかにこの戦いが激しく、かつ武田家にとって痛い損失であったのかが分かります。


その側には、同じくこの戦いで一族そろって戦死した横田綱松の墓がありました。





今回は時間がなくて回れませんでしたが、思い付くだけでも甘利信康、小幡信貞、土屋昌続、真田信綱・昌輝兄弟(有名な真田幸村の伯父にあたる)らの墓もこの辺りにはあります。少し離れた鳶の巣では信玄の実弟・武田信実も戦死していますし、その他にも名もない兵士……なにしろ両軍合わせて15000人もの人が亡くなったのですから、周辺には様々な史跡があります。


また今度時間のあるときに、もっとたくさんの場所を歩いて見て回り、自分の中での長篠の戦いの理解を深めていきたいと思います。