長篠の戦い史跡めぐり 壱 | 〜ある愛知のカープファンの抒情〜

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愛知在住カープファン・eviltailの、その日常。

今日は所用があり新城市の長篠城址に行ってきました。



中は史料館になっているので、もう何度も来ていますが210円を払って見学。


本当の目的は、前から欲しかったこの本を買うためでした。





「新城市の自然史 昆虫・動物編」。


こういう資料は地元で昆虫調査をする上で欠かせませんから(^.^)


この本、ここの他にも鳳来寺山自然科学博物館などで販売されています。3月いっぱいまでは定価3000円のところ2500円で買えるのでお求めの方はお早めに。


それはともかくとして、自分は小学生の頃から歴史好きで、特に戦国時代が大好きです。好きな武将はたくさんいますが、中でも甲斐(山梨県)の武田氏については一時期かなり入れ込み、今も武田氏に関するいろいろな書籍を見つけては読んだりしています。地元の英雄・徳川家康ではなく、ライバルであった武田氏が好きというのも何とも不思議な話ではありますが(笑)。


武田と言えば武田信玄が有名ですが、自分は信玄の跡を継ぎ、織田信長らによって滅ぼされた息子の勝頼(かつより)に関心があります。


その武田勝頼と自分の住む愛知県三河地方には、ひとつ大きな因縁があります。


そう、天正3年(1575年)にこの新城市で起こった、かの有名な「長篠の戦い」です。


甲斐より徳川家康の領地である三河へ進軍した武田勝頼率いる武田軍は、この長篠城を取り囲みます。単独では歯が立たない家康は織田信長に援軍を要請、こうして織田・徳川連合軍と武田軍は、長篠城からほど近い設楽ヶ原において激突します。これを「長篠の戦い」と言います。


よくドラマなどでは信長の3000挺の鉄砲隊が武田の騎馬隊を粉砕した、と簡単に片付けられてしまうのですが、最近の研究では、当時の鉄砲は精度も性能もたいしたことはなく、実際戦いは8時間にも及んでいることから、この誤りを見直す傾向にあります(資料によっては、武田軍の戦死者のうち、鉄砲で討たれたのは1割程度だったとするものもあります)。


この戦いでは武田軍10000人、織田・徳川連合軍6000人の死傷者が出たと言われていますが、織田・徳川軍の死者が主に雑兵だったのに対して、武田軍は信玄以来の名のある武将達が大勢討たれました。この戦いの7年後に武田家は滅亡するのですが、この敗戦が大きな転機になったのは間違いありません。


前置きが長くなりました…(^-^;


そんなわけで、この長篠城跡~設楽ヶ原周辺には、この戦いに関するたくさんの史跡があるのですが、自分の好きな武田の武将が多く眠るこの地は、武田びいきの自分にとっても特別な場所です。


中学時代、ローカル鉄道に乗り、歴史好きの友人と歩いてこの辺りを散策したのは良い思い出です。


そんなわけで、天気も良いし、久しぶりに武田武将たちの墓参りをしてくか!と思い立ち、急きょ散策開始(^.^)


といっても、史跡は長篠城~設楽ヶ原にかけてかなり広範囲にわたって点在しているため、この辺りを歩いて回った20年前の記憶と、文明の利器・スマホを駆使しての散策です。昔は田舎だったこの辺りも、今は住宅が増え、当時とかなり景色が変わって見えます。


まずは長篠城址から歩いて数分のところにある、武田4名臣の一人、馬場信房の墓です。長篠城址にはここ最近も何度か来ていますが、こうして史跡の1つ1つを見て回るのは本当に久しぶりです。


この馬場信房は、勝頼の祖父の代から3代にわたって武田家に仕えた名将でしたが、この戦いで討たれてその生涯を終えました。享年62。







先にも書きましたが、「長篠の戦い」と言っても実際に激戦があったのは少し離れたところにある設楽ヶ原なので、史跡の多くは設楽ヶ原周辺にあります。そんなわけで、次は設楽ヶ原に向かうため、車に乗って移動です。


続きます。