幼生の主体『差異と反復』(ジル・ドゥルーズ 財津理訳 河出書房新社、1992)原著は ”Difference et repetition” (Gilles Deleuze 1968) (翻訳に24年費やしたことになる)日本語訳の初版を読んでそのまま約10年記憶の底に。ふと思い出したのが「幼生の主体」という概念、細部は違っていたものの、大筋は記憶通りだった。あらゆるストレス、困難な状況に遭遇しても、この「幼生の主体」ならば切り抜けることが出来る、と。例えるならばエアーバックだろう。あるいは学説としてポシャってしまったが「スタップ細胞」と呼ばれていたもの。「幼生」は(自己愛が最高度に許されている)「幼稚」とは違う。自意識が芽生える前の(自他の区別のない無・無我の)状態だ。西洋ではコギト、ナルシシズム的自我に亀裂が入り、崩壊したところに(成体死の直前の)ギリギリの最後に現れる。が、日本人はそうではなく、シートベルトのように常駐しているのではないか。日本の環境、多種多様に多発する自然災害に対処すべく日頃から常備されている(それなくしては生きた心地もしない)「幼生の主体」。その「幼生の主体」を常駐させるしるし(呼び覚ますシグナル)として「妖精の主体」すなわち日本独自のアイドルが存在しているのだと思う。被災地とアイドルの親和性は「幼生の主体」という哲学的概念の裏付けがあるのだ。数多のアイドル論を読んでいても、その特徴や変遷を分析するものばかりで何故存在しているのかの根源的言及は見当たらない。「萌え」とは対象・アイドルに触発されこそすれ、《逆備給》、内なる「幼生の主体」(胚)自体が萌えることなのだろう。