日本語教育を通して考える

日本語教育を通して考える

日本語教育、第二言語(外国語)習得、中国語学習、日中文化比較等について書こうと当初は思っていました。

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ある大学院生に,留学生のチューターに就いてもらうことになり,両者を対面させたときのこと。その大学院生は外国人との接触経験に乏しいらしく,日本語でどう話したらいいのか戸惑いつつ話しているようだった。後でこっそり私に英語で話したほうがいいだろうかと聞いてくる始末。その留学生は母国で日本語教師をやっており,これまで私は普通に日本語で話していたし,それで一度も困ったことはないのだけど…

 

普通,母語話者は日本語ができると考えられているが,それは誰と,どんなときに,どんな話をするのかにもよるだろう。母語話者同士であっても,非専門家にとって専門家(例えば医者)の日本語はわからない場合があるし,幼児にとって大人の日本語は十分にわからない。だが,そういった場合人は,相手に理解できるよう日本語を調整してコミュニケーションをとっているし,コミュニケーションがつまづいたときは互いに言葉の意味を交渉することもできる。自分の普段通りの日本語が通じなくても,その責任を相手にばかり求めはしないだろう。

 

であれば,相手が非母語話者の場合,相手に合わせた日本語を使えばよいはずだ。だが,外国人と日本語で話すことに慣れていない日本人は,自分の日本語が通じないことを恐れてコミュニケーションを避けようとしがちである。こちらが日本語で話しているのに英語で返された,という外国人の声も聞いたことがある。

 

非母語話者との接触経験に乏しい者は,非母語話者と話すための日本語がうまく使えないのである。日本語教師でなくとも,非母語話者との接触経験の豊富な者は,乏しい者に比べて,巧みにコミュニケーションストラテジーを用いていることがわかっている(柳田, 2010)。非母語話者と話すときの日本語は,一つの能力として身につけることのできるものなのである。

 

野田(2014)は,「やさしい日本語」はひとえに母語話者教育の問題であるとしている。外国人に来てもらわなければ国が立ち行かないという今の日本において,日本語でのコミュニケーションの責任を非母語話者だけに求めるのは公平ではないし,生産的ではない。

 

現在の国語教育では,「対話力」の養成が重要な目標の一つとなっている。この場合の対話を行う相手として想定されるのは母語話者とは限るまい。佐々木(1998)は,日本語教育の立場から国語教育に対する提言として「異なる文化的背景を持つ人々とコミュニケーションを行う時に,相手のコミュニケーション・パターンを見きわめつつ自己のパターンとの調整をはかれるような能力を育てる」べきであるとしている。だが,この提言から20年が経とうとしている現在,国語教育にて,対非母語話者も想定した対話力の養成が行われているとは聞いたことがない。

 

グローバリズムや国際化というとすぐに英語が連想されがちだが,日本に定住する多くの者にとっては,日本語で外国人と接する機会のほうがずっと多くなるはずである。国語教員の考えを聞いてみたいところだ。

 

引用文献

佐々木倫子(1998)「これからの国語教育--日本語教育の立場から」『日本語学』17(2), pp. 37-45.

野田尚史(2014)「「やさしい日本語」から「ユニバーサルな日本語コミュニケーション」へ」 『日本語教育』158, pp. 4-18.

柳田直美(2010)「非母語話者との接触場面において母語話者の情報やり方略に接触経験が及ぼす影響―母語話者への日本語教育支援を目指して」『日本語教育』145, pp. 13-24.

「ある瞬間を見たときに、心を感じるというのは、本当にその中に心があろうがなかろうが関係なく、感じることができる」(『ロボット演劇』平田オリザ・石黒浩の対談より)


心というものは本当にあるかどうかわからないし、誰も実体を確かめたことはないが、我々はそれが確かに自他にあるという前提でコミュニケーションをとっている。

ある人がどのような心をもっているかというのは、その人の言葉や表情、仕草等、視覚や聴覚といった、五感で感じることのできるすべての物理的な情報から総合的に判断される。

ある人について「思いやりがある」と考えるとき、それはその人がそうであると解釈されるような言動をとっていたからであって、その人にそのような心があるかどうかは実際のところ関係がない。心があろうがなかろうが、他者にそのように解釈されたならば、それは「思いやりがある」人ということになる。

心を解釈されるためのパターンというものは国や文化によって異なる。
ある国では良い印象を与えられるパターンでも、別の国では悪い印象を与えることになるかもしれない。

日本語学習者を例にとると、日本人なら親しくなっても丁寧体を使う関係の相手に対し、学習者の場合、親しみを表すために完全な普通体使用に切り替える、ということはよくある。
だが日本人にはそれが通常失礼な行為であると解釈される。日本人には丁寧体使用が基本となっている相手の場合、特定の発話に限って文体を一時的に普通体へ切り替えることや、あるいは文体以外の部分で表現することが親しみを表すパターンとなっているためだ。

第二言語の学習者に限らず、母国に住む母語話者であっても、他者と円滑なコミュニケーションを図るためには、その文化のさまざまな文脈におけるコミュニケーションのパターンを学ぶ必要がある。
どのような心をもっているかどうかは関係なく(極端な言い方をすれば心はあってもなくても関係ない)、その表現のパターンを見につけている者だけが望むような「心」をもつことができる。


自分で十分自覚しているはずのこと、申し訳なく思っているはずのことでも、他人から責められると腹が立つということはよくある。

自分はこんなに悩んでいる、こんなに自分を責めているのだからもう十分だろう、その傷の上に塩を塗るとは何事か、ということだろう。
自己嫌悪は同時に自己救済という自分を守るための巧妙なストラテジーでもある。

逆ギレというのは、自尊心が限界まで追い詰められ、もはや自己救済も追いつかない人間がとる、自分を守るための最後の手段であろう。
責められたときでも逆ギレしないまっとうな人間は、真摯に反省しているというよりは、そこまで自分を追い込まない習慣が身についているだけのように見える。

そう考えると、人間に本当の「反省」というのは可能なのだろうかと思えてくる。

たまたま自分を助けてくれる者がいたら全力ですがりつく。

期待通り対応してくれなかったら責める。

そのうち自分を満たすための手段としてしか見ていないことに気づかれ離れられる。

後に残るのは恨みだけ。

そして恨んだ分だけ自分の魂も削られる。

生きる気力もなくしていく。

10年後、30年後、もし当人が健在であれば、上記の文章をどう解釈するのだろう。


良く生きることを目指しているとしても、どのような考えや行動をもって「良い」と捉えているのかは人によってけっこう違う。

多くの人から好かれるような人でも、その行為が、ある人から見ればどうして平気でそんなことができるんだと感じられることもある。

何のことはない。
人によってどういった要因を重視するかが違うだけの話だ。
ある人にとっては重視されるべきことでも、人によっては要因とすら捉えられていないこともある。

「自信をもつことは醜い」
という言葉は、自分が気づいていない要因があるかもしれないとは考えず自己肯定に走るときに当てはまる。