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日本語教育を通して考える

日本語教育、第二言語(外国語)習得、中国語学習、日中文化比較等について書こうと当初は思っていました。


自分を傷つけた相手に対して逆に感謝する。
というのは、最も好ましい復讐の方略だろう。

聖書は読んだことがないが、普通なら憎むような相手のために祈るというのは、つまりはそういうことなのだろうと解釈している。


多くの人は日常の中で、既存の価値観やルールに疑問や不満を抱き、時にはそれを変えようとする。

だが、いざそれをやってみようとすると、思いもよらない障害にぶつかったり、目的を達成したと思っても意外なところで弊害や綻びが生じてきたりする。

そのとき初めて、先人により紡ぎ上げられてきた既存のものが、実は優れたものであったのだということに気づかされることも多い。

既存のものを変えようとすることは、偉大な行いにも、傲慢な行いにもなりうる。
無駄な抵抗を止め、とりあえずその流れに身を任せてみるというのも気楽なものだと最近思う。

結局のところ、自己欺瞞を起こしたときに気づけるかどうか、そしてそれを直視することができるかどうか、さらにそれを行動に反映できるかどうか、それが人間の分かれ道なのだろう。

今も昔も、男は女の非論理性をバカにする。

たとえ男の言う「賢さ」をある女に見たとしても、それとはまるで正反対の、女本来の性とでもいうべき部分も彼女に共存していることに早晩気づくことになる。

けれど、人間誰しも欲求から来る感情が原動力になっているわけだから、完全に論理的に生きられる人間というのもいないだろう。

男が比較的論理的な性向をもっているとしても、性自体がそうであることを求めているわけではないように思う。

それに、男の言う「賢さ」をもって、それを常に維持できるような女にはもはや女としての魅力もない。
復讐心というものは誰もが日常的に抱いているし,抱くだけでなく,それを実行に移すことも多い。

ただそれがその集団間で承認されているものかどうかという点で決定的に異なる。

承認されている復讐は多くの場合,復讐とは捉えられないし,実行する本人にもそれとは意識されない。

例えば,家族を殺された人が被告に死刑を求めることや,独裁者に対してデモを起こすことといったレベルから,公共の場での喫煙を注意するといったことや,浮気した恋人に張り手を食らわすといった個人のレベルまでさまざまにある。


反面,承認されていない復讐は周囲から責められ裁かれる。

復讐を実行する本人もほとんどの場合,口では認めなくともそれが悪だという認識はもっている。

復讐心が人間に不可避の感情である以上,それは発散させる必要があるが,それがうまく行えるかどうかで,その集団の中でうまく生きていけるかどうかが決まる。

承認された復讐のみを行える人は精神的に健康でいられるし,また,その社会,成員間で称賛される人間にもなりやすい。

教育は,当人と社会のために,承認された復讐を適切に見極め,実行する能力を身につけさせる場としても機能している。


なお,社会においては通常,上記のようなシステムは覆い隠され,「正しいかどうか」という観点から語られることが多い。