≪今日の読み物≫
 
 
本「採水」「吉方位での過ごし方」「祐気の発現」
 
 
「採水」(さいすい)とは、「お水採り」(おみずとり)のことで、祐気方位にある湧き水や井戸水を、日にちと時間を合わせて汲んだものを飲み、開運に用いる手段をいいます。
 
 
お水をいただくには、安全性や汲むことが出来る時間帯を、前もって管理者(御神水なら神社、観光地なら役場など)に確認する必要があります。
 
 
持ち帰った水は密閉して冷蔵庫に保管し、3~4日のうちに使い切りましょう。但し、その方位が尅気にあたる人には触らせないこと。現在は、病気などで外出できない方の為に、かわりに採水をする事が多いようです。
 
 
一般の祐気採りの場合は、この日時に合わせて目的地にとどまることで充分に効果があります。祐気撰用地に温泉地を選べば、その湯に浸かって全身で大地の気を浴びることになります。
 
 
祐気採りに出掛ける時は、自宅で一時間以上過ごしてから出掛けます。目的地に到着するまで、なるべく寄り道はしません。目的の方位から外れてしまうことがあるからです。
 
 
目的地に到着したら深呼吸。天の気、地の気を身体にいっぱい取り入れて下さい。温泉に入って、その土地の産物を召し上がって下さい。何よりも、ゆっくり、のんびり過ごして「祐気採りに来たんだ!」と思えることが一番です。歴史を訪ねたり、文化に触れたり、その土地の神様にもご挨拶できるといいでしょう。
 
 
帰り道は、やはり寄り道はしません。せっかくの祐気を途中に落としてしまうからです。お土産持ってお友達の家に寄って長居してしまったなんて、勿体無いですから真っ直ぐ家に帰りましょう。家に着いたら、1時間程のんびり過ごして祐気を家の中に降ろします。
 
 
その後は、撰用した祐気の現象に合わせた努力をします。たとえば、二黒土気を撰用した場合の象意は「勤労意欲が培われる」「土地不動産に関する朗報あり」などですが、そのように努力することによってのみ、成果が現れるものです。何もせずに幸運は降って来ません。
 
 
撰用した方位は手帳にメモしておきます。これは、後に祐気や尅気の現象を確認する為の資料になります。
 
 
事の吉凶を問わず、結果には必ず原因があります。祐気採りをして正しい方向に努力し、良い原因を作っておくことは、将来の良い結果の発現に繋がる最良の方法だと確信しています。自然の中で生かされていることを知り、将来の過ごし方を計画されてみてはいかがでしょうか。
 
 
ぜひ祐気を取りにお出掛け下さい。自分では気がつかなくても、祐気取りによって確実に運気が上がっていきます。
 
 
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≪今日の読み物≫
 
 
本「富山おわら風の盆」
 
 
「おわら風の盆」(おわらかぜのぼん)は、富山県中南部の岐阜県に接する越中八尾(やつお)の民謡行事で、歴史は古く元禄の頃。庶民の生活の実態を、面白可笑しく表現しながら町を練り歩いたことが始まりと伝わります。
 
 
「おわら」とは「大笑い」のこと。また、豊穣を祝うことから「大藁」(おおわら)が語源とも。五穀豊穣と永世の繁栄を祈り、台風などの風水害を治めるためのお
祭りで、二百十日の初秋の風が吹く頃の毎年9月1~3日にかけて三日三晩踊り続けます。
 
 
おわら風の盆で知られる「聞名寺」(もんみょうじ)は、浄土真宗の古刹。八尾の町は、聞名寺の門前町として栄えました。正応3年(1290)本願寺第三世覚如上人が北陸巡行の際に建立。
 
 
聞名寺「融通念仏縁起」には、中世の八尾地域の念仏信仰が示されています。商家所有の町建ての文書が役人から返還された祝いに、三日間町民が歌い踊りながら町を練り歩いたのが起源とか。これが、盂蘭盆行事となり、さらに「風の盆」に移っていきました。
 
 
また、越中八尾は「生糸繭の名産地」として有名でした。生糸の産地の多くは、強い風が吹く場所です。養蚕には蚕室の環境に風通しが必要です。また、桑の害虫を吹き飛ばすのに都合が良いからとか。風は、稲作農業にとっては困りものであっても、養蚕業にとってはなくてはならないものだったのです。
 
 
養蚕地域では繁忙期がお盆と重なるため、お盆の時期を前後にずらしていました。風の盆は「八朔にずらされた盆」とも。風害を恐れた稲作農民達による「風鎮め」の念仏踊りが踊られた後に、風のおかげで盛んになった生糸産業の町人たちが「おわら」を踊ります。
 
 
八尾は坂が多い町、道幅が狭いのが特色です。細い路地から聞こえてくる「越中おわら節」、三味線や太鼓に哀調を帯びた胡弓の音色が町を包み込みます。民謡に胡弓が入るのはめずらしく、悲しげな響きが独特の味わいをもたらしています。
 
 
揃いの浴衣に白足袋の女舞い、編笠の間からほんの少し顔を覗かせながら町流しをする早乙女の姿は優美です。男性の踊り手は股引に法被姿、これらの衣装は大変に高価な素材で作られるそうで、雨天の場合は中止となります。
 
 
石川さゆり「風の盆恋歌」で歌われるようになってから観光客が増えたのだそう。渡辺淳一「愛の流刑地」の冒頭、男が女に「ひょっとして、おわらを舞うか?」と尋ねるシーンが登場します。
 
 
現在でも格子戸や土塀造りの家々が立ち並ぶ、門前町として栄えた人口約2万人の町は、この3日間で延べ25万人の人出で賑わいます。
 
 
開催地◇富山県富山市八尾町
 
◇JR「富山駅」八尾行きバス40分
◇JR高山本線「越中八尾駅」すぐ
 
 
聞名寺◇富山市八尾町今町
 
◇JR「富山駅」八尾行バス40分
◇JR高山本線「越中八尾駅」バス8分
 

 
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≪今日の読み物≫
 
 
本「二百十日」
 
 
「二百十日」(にひゃくとおか)は、雑節の一つで、立春から数えて210日目のこと。新暦で9月1日頃にあたります。
 
 
この時期は稲の開花の時期にあたり、台風の襲来を警戒すべき日として、暦に記載されました。昔から「八朔」(はっさく)や「二百二十日」(にひゃくはつか)とともに「三大厄日」として恐れられてきました。
 
 
厄日とは、俗にいう「荒れ日」のことで、天候の悪い日の意。台風が襲来すれば、稲は倒れて水に浸かったり、花が吹き飛ばされてしまい米が実らなくなります。農家にとっては凶作に見舞われる厄日とされます。
 
 
徳川幕府の暦編纂係であった渋川春海が、品川の漁師から教わって作ったものだとか。春海は釣り好きで、この日も品川の沖に舟を出そうとしました。
 
 
その時、老漁師が海上の一点を指して「今日は立春から数えて210日目に当たるが、私の50年来の経験によれば、このような日は午後から海は大荒れになるから、釣りに出るのはよした方がいい」と言ったという。果たしてその日は大暴風雨になったそうです。
 
 
春海はこの気象現象を長らく研究し、貞享暦(1684)を編纂したときから記載したと伝わります。
 
奈良の大和神社(おおやまとじんじゃ)で行なわれる「風鎮祭」、富山県八尾市で行なわれる「おわら風の盆」など、各地で「風鎮めの祭り」が行われます。
 
 
:*:--☆--:*:--☆--:*:
 
 
本「防災の日」「関東大震災記念日」
 
 
大正12年(1923)9月1日午前11時58分44秒、伊豆大島付近、相模湾北西部の相模トラフ(北緯35.1度・東経139.5度)を震源とする海溝
型大地震が発生しました。
 
 
マグニチュード7.9、震度6の大地震は関東地方を襲い、地震の発生時刻が昼食の時間帯と重なったことから、東京では150箇所以上から火災が起こりました。
 
 
折りしも能登半島付近に位置していた台風により、関東地方全域では突風が吹き荒れており、火災旋風を引き起こしながら3日間に渡って燃え広がりました。
 
 
水も電気も止まって大混乱の末、23万人もの死傷者が出てしまいました。焼損面積は、東京ドームの約1400倍の広さになるそうです。
 
 
この地震による死者不明者は14万2807名、家屋全半壊25万4千件余、山岳部では山崩れが多数発生し、沿岸部では津波が発生しました。
 
 
地震が直接の原因と思われる死者は2千名ほどで、残りは火災によるもの。津波による被害は、太平洋沿岸の相模湾沿岸部と房総半島沿岸部で高さ10m以上の津波が記録されました。
 
 
山崩れ、崖崩れ、それに伴なう土石流による家屋の流失、埋没の被害は、神奈川県の山間部から西部下流域にかけて発生。列車が駅舎とホームもろとも土石流により海中に転落し、百人以上の死者を出したとも。
 
 
因みに、地震以後も気象観測を続けた東京の中央気象台によれば、1日の21時頃から異常な高温を観測、翌2日未明には最高気温46.4度を観測したそう。
 
 
震災の被害の大きさから、一時は遷都も検討されたそうで、遷都の候補地には姫路や京城などが挙げられていました。
 
 
「防災の日」は、この震災を教訓として防災意識を高めるために、昭和35年(1960)に制定されました。この頃に台風の襲来があることも制定の理由の一つです。制定の前年には、伊勢湾台風が襲来しています。
 
 
この日「関東大震災記念日」として、墨田区本所被服廠跡の震災記念慰霊塔など、各被災地で慰霊祭が行われます。
 
 
いざという時に備え、避難場所の確認や非常持ち出し袋の用意をしておきましょう。両手が使えるリュックサックなどに「飲料水・携帯ラジオ・衣類・履物・食料品・マッチやライター・貴重品・懐中電灯・ロウソク・救急セット・筆記用具・雨具(防寒)・チリ紙など」を入れて、目に付きやすい所に置いておきます。
 
 
災害直後に持ち出しが出来なくても、後々に使用できるように、簡易ガスこんろ・固形燃料・水やインスタント食品のストックがあるといいでしょう。
 
 
火災に備えては、消化器・三角消化バケツ・風呂の汲み置きなど。避難や救出に備えては、斧・ハンマー・スコップ・バール・防水シート・のこぎり等。
 
 
地震の時、家具や電化製品の転倒や落下物による被害は意外と多いもの。この機会に今一度点検されてみてはいかがでしょう。
 
 
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本「庚申」
 
 
「庚申」(かのえさる・こうしん)は、庚申待ち(こうしんまち)、宵庚申(よいごうしん)、庚申祭(こうしんさい)などを総称していう言葉。干支の組み合わせ57番目。八専の9番目で年に6回程あります。
 
 
「庚」(かのえ・こう)は「陽の金」、「申」(さる・しん)も「陽の金」であることから、この日は「金気」が重なって天地に充満して冷ややかになり、人心が冷酷になりやすいとされます。
 
 
昔は「天地万物の気、庚申の日に変革される」と思われていて、最も重要な忌日とされていました。
 
 
また、庚申に続く「辛酉」(かのととり・しんゆう)も金が重なる日で、さらに陰の金が重なるので冷ややかさを一層増すというのです。
 
 
このことから「庚申」「辛酉」の年はおおいに忌まれ、政治的変革が起こることを防ぐために2年続けて改元が行われることもありました。例>万延元年(1860)文久元年(1861)など。
 
 
庚申は、もともと中国の道教の伝説からきた禁忌で、人間の体内には「三尸(さんし)の虫」が、頭と腹と足にいて、いつもその人の悪行を監視しているのだとか…。60日ごとに巡る庚申の夜、人間の睡眠中を伺って体外に抜け出し、天に昇って天帝にその悪事を報告するという。そして、人間の命を短くするのだそう。
 
 
これをさせないために、庚申の晩は神々を祀り、酒盛りなどをして夜を徹しました。村の中心をなす家に集まり、祭祀をしたあとに会食を行いました。
 
 
 
日本に伝わったのは、古く朱雀天皇の天慶2年(939)または文徳天皇のときに、智証大師が持ってきたものと伝わります。「枕草子」にも庚申待ちの話が登場します。江戸時代に入って民間で盛んに行われるようになり現在でも各地に「庚申塔」が残されています。
 
 
仏教では庚申の本尊を「青面金剛」(しょうめんこんごう)および「帝釈天」に、神道では「猿田彦神」(さるたひこのかみ=天狗さま)に結び付けています。
 
 
旧暦の月で選日を行うため、庚申の日は1年に5~7回あることになります。7回あるのを「七庚申」といって非常に喜びました。このことから庚申待ちの夜は七色の菓子を供えたり、七度線香をあげ、七回真言のお題目を唱えたりするようになりました。
 
 
また「申」(さる)と「猿」(さる)が結び付いたことから、猿を庚申様の使いに見立て「見ざる、言わざる、聞かざる」の「三猿信仰」(=山王信仰)にもなっていきました。
 
 
さらに「申」と「去る」が結び付いて、この日は結婚を忌む風習も。この夜に出来た子供は泥棒になるとか言われます。この夜はセックスをしてはいけないなどとも言い伝えられています。
 
 
庚申の日は帝釈天の縁日になっています。
 
 
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≪今日の読み物≫
 
 
本「方位について」
 
 
現在では「方位」のことを知っていようといまいと、日常生活にはさほど不便はありません。知らない土地に出掛ける場合でも、行き先がわかっていれば交通機関が目的地まで連れて行ってくれますし、車にはカーナビゲーションという便利なものがあるのですから、方位の認識など不要ではないかと思われる方もいらっしゃるでしょう。
 
 
「方位」を認識する為には「自分の位置」を認識する必要があります。そして、自分の位置と対象物の間に距離が生まれ、そこに意味が与えられます。
 
 
当然のことながら、太陽は東から昇り、西に沈みます。この自然現象から、東西の方位は早くから認識されていたことがわかります。
 
 
奈良の平城京や京都の平安京の「四神相応」はよく知られていますが、鎌倉や江戸を見ても、古代の都城にみられた思想が後々まで意識されていたことがわかります。「東京」の「東」は、旧来の首都「京都」に対しての「東」です。明治には、京都を「西京」ということが多くありましたが、今では使われません。
 
 
因みに、中仙道の「妻籠宿」(つまごじゅく=長野県)には、明治14年(1881)に建てられた大きな石の道標があり「西京へ五十四里、東京へ七十八里半」とあるそう。
 
 
しかし「どうして地図は北が上なの?」でしょう。地球の球面はもともと上も下も、始めも終わりもなく、地図の向きをどうしようと自由なはずです。
 
 
「江戸図は西が上」に向けて描かれていますが、その理由は、東の東京湾を手前に据え、西方の富士山を上に仰げば、江戸城は前面に位置して図柄が安定するから…とか。
 
 
地図製作の為の測量には、磁石を用いて方位を測る事が基本でしたので、磁石の針が示す「子」(北)が上になったのでしょう。
 
 
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≪今日の読み物≫
 
 「二日灸」
 
「二日灸」(ふつかきゅう)とは、もともと旧暦2月2日に灸をすえる習わしのことです。2月と8月の年2回としているところも多く、旧暦8月2日のこの日「灸」をすえて悪病災難除けをする習慣があります。
 
この行事はもともと節句の一つで、中国の「天灸」を起源としています。子供の額に×や+などの印を書いて「無病息災」の呪いをしました。
 
二日灸は他の日より百倍の効力があり、病気をせず、災難をのがれ、長寿を保つとされました。「ふつかやいと」とも。
 
「灸治するにわが年日、またハ暦の血忌(ちいみ)の日を嫌い、二日八日廿日等を用いる事なれど、何によって成す事にや。湯にいらず、腹立ず、心すがすがと穏やかなる時、もぐさをゑらミ(選び)、火を清くし、闕所を違わぬやうに点じ、すゆるがよし。其日より七日が間、男女とも房事を慎むべし」(「真佐喜のか
つら」より)
 
二日灸は俳句の季語にもなっています。
 
「善男女足投げだして二日灸」(山田月家)
 
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