≪今日の読み物≫
 
 「初荷」
 
「初荷」とは、新年の商い始めの荷のこと。昔は正月2日に問屋や商店から、馬・車・船などに商品を積み、紅白の布で飾り、旗をひるがえして売り先に送り届けました。
 
 
提灯や幟で飾り立てた大八車や荷馬車は、道行く人の目を引きました。商店では2日に店を開け、初売りを始めました。
 
 
現在では4~5日頃、トラックで初荷を送るところが多くなっています。
 
 
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 「初夢」
 
「初夢」とは、新年になって見る夢のこと。古くは節分の夜に見る夢ともいわれていました。
 
 
元来、大晦日は寝ずに過ごすものでしたから、元日の夜の夢をいうようになりました。夢は神仏の示しであると信じられ、夢によって吉凶を占います。
 
 
良い初夢を見る為に、宝船の絵を枕の下に入れて寝るというしきたりもありました。様々な宝物や七福神などを乗せた船の絵には「長き世のとおのねむりの皆めさめ、波のり舟の音のよきかな」という回文(上から読んでも下から読んでも同じ)が書かれていました。
 
 
この宝船は、初めは節分または年の暮れに貧乏神を乗せて流す呪いとして使われていましたが、後に初夢を見る物に変化したらしい。
 
 
目出度い夢として「一富士・二鷹・三茄子」といわれます。「富士」は曽我兄弟富士裾野の仇討ち、「鷹」は赤穂浅野家の紋所で赤穂浪士の仇討ち、「茄子」は伊賀上野の荒木又右衛門の仇討ちの意との説ですが、ともかく、宝船・富士・春駒の初夢は縁起がよいとされます。
 
 
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 「書初め」
 
「書初め」とは、年が明けて初めて書や絵をかく行事で、多くは1月2日に行われます。「吉書」(きっしょ)・「試筆」(しひつ)・「初硯」(はつすずり)などともいいます。
 
 
江戸時代には、若水で墨をすり、恵方(吉方)に向かって詩歌を書く風があり、「長生殿裏春秋富、不老門前日月遅」という漢詩がもてはやされました。もともと宮中で行われていた儀式でしたが、江戸時代以降に庶民にも広まりました。
 
 
書き初めで書いたものは、左義長で燃やし、その炎が高く上がれば字が上達すると信じられていました。
 
 
※左義長(さぎちょう)=1月14日の夜に正月の松飾り類を焼く火祭りの行事。
 
 
毎年1月5日、日本武道館(千代田区)では、全日本書初め大会が行なわれます。約4千人が参加するこの行事は、新年の風物詩の一つとなっています。
 
 
因みに、「姫始め」とは、1月2日の行事ではありますが、その由来については不明。「姫飯」(ひめいい)を食べ始める日と考えるのが妥当ではないかとされています。
 
 
「姫飯」(ひめいい)は柔らかいご飯のこと。これに対し「強飯」(こわいい)は蒸した固いご飯をいいます。今日でも、目出度い時は御強(おこわ)を食べますが、昔は祭りの間は強飯を食べ、祭りが終わると姫飯を食べました。
 
 
「飛馬(ひめ)始め」=1月2日の乗馬始め。「火水始め」=火や水を使い始める日。「女伎始め」=衣服を縫い始める日。新年に夫婦が始めて交合する日=秘事を始める日。「姫糊始め」=女性が洗濯や張物を始める日。などなど…
 
 
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 「皇居一般参賀」
 
新年一般参賀は1月2日、皇居において行われます。
 
参入時刻は午前9時30分~午後2時10分です。
 
  
皇居正門(二重橋)から参入し、宮殿東庭の参賀会場を経て、坂下門・桔梗門・乾門より退出します。
 
 
お出まし(予定)○第1回及び第2回は、天皇皇后両陛下、皇太子同妃両殿下始め、お出ましになれる成年の皇族方。○第3回以降は、天皇皇后両陛下、皇太子同妃両殿下、秋篠宮同妃両殿下。
 
 
第1回◆午前10時10分頃、第2回◆午前11時00分頃、第3回◆午前11時50分頃、第4回◆午後1時30分頃、第5回◆午後2時20分頃。
 
 
天皇皇后両陛下が、おおむね5回「長和殿ベランダ」にお出ましになる予定。そのうち2回目までは皇太子同妃両殿下始め、お出ましになれる成年の皇族方が、3回目以降は皇太子同妃両殿下及び秋篠宮同妃両殿下が、ご一緒にお出ましになる予定。
 
 
天候によっては、お出ましが中止される場合があります。また、皇居東御苑は休園ですので入園できません。非常な混雑が予想されますのでご注意下さい。
 
 
宮内庁◇東京都千代田区千代田1-1
 テレホンサービス◇03-3211-1475
 
http://www.kunaicho.go.jp/event/sanga/sanga01.html
 
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≪ 今日の暦 ≫
 
 
1月2日(月)
 
壬戌 みずのえ・いぬ
 
二黒土気 じこく・どき
 
友引 ともびき
 
 
振替休日
 
初荷 初夢
 
書初め
 
皇居一般参賀
 
 
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≪今日の凶殺方位≫
 
 
日破殺 辰【南東】一白
 
暗剣殺 坤【南西】八白
 
五黄殺 艮【北東】五黄
 
定位対冲 坤【南西】八白
 
 
※凶殺方位は、どなたさまにとっても悪い方位となりますのでお

出掛けの際には十分ご注意下さい。
 
また、この方位に向かっての約束事などは良い結果に至りません

ので避けて無難です。
 
 
起こりうる現象は?
 
PC http://www.yunmu.info/
 
Mobile http://www.yunmu.info/m/
 
有料会員専用サイト
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≪あなたの今日の運勢は?≫
 
 ◎◎攻めも守りも好調
 ◎ 攻めて順調
 ○ 守って無難
 △ 謙虚な姿勢で穏やかに
 ▲ おとなしく明日に期待
 ▲▲休養第一早めの就寝を
 
 
一白水星▲▲▲
 
生意気な口を叩くはトラブルの因。謙虚な気持ちを忘れずに。
 
 
二黒土星◎◎
 
恋愛運金運良好!あなたのリードで周囲の雰囲気も和やかに。
 
 
三碧木星△
 
家族や身内の問題に関与すればお金と時間の無駄遣いに。
 
 
四緑木星▲▲▲
 
誤算から予算超過に。時間に余裕を持って落ち着いた行動を。
 
 
五黄土星○
 
裏切りを疑えば相手を失望させる。お洒落をして出かけて○。
 
 
六白金星▲▲
 
過去を悔やんで愚痴を零せばこれまでの努力も水の泡に。
 
 
七赤金星○
 
受身で過ごしていれば力になってくれる人が現れる。感謝を。
 
 
八白土星▲
 
のんびりし過ぎて時間切れに。若者の話は聞き流して無難。
 
 
九紫火星○
 
遠方から良い情報が舞い込む。周囲の流れをよく観察して○。
 
 
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≪今日の読み物≫
 
 「元旦」
  
「元日」(がんじつ)は、国民の祝日の一つで「年のはじめを祝う」のを法定の趣旨として昭和23年に制定されました。
 
 
正月三が日を「元三日」(がんさんにち)と呼びますが、元日はその初日をさします。この日の朝を、特に「元旦」(がんたん)・「歳朝」(さいちょう)・「歳旦」(さいたん)などと呼んで1年の始まりを寿ぎます。
 
 
元日は、宮中の年中行事「元日節会」(がんにちのせちえ)に由来します。元正天皇の霊亀2年(716)以来、文武百官を招いて年始を祝ったとされます。
 
 
一般の人達にとっては「年神」(としがみ)が来臨するのを祝う「神迎え」(かみむかえ)としての大切な行事でした。それぞれの家々には様々な祝い方があり、神社仏閣に初詣に行ったり、晴れ着をつけ屠蘇をいただき、御節料理や雑煮で祝ったりしてきました。
 
 
※「旦」は「朝」の意。元日の朝の時間帯を「元旦」と呼ぶのが正しい。
 
 
「正月」は「1年の初めの月」をいいますが、新年の祝いや行事をもさします。1月を正月と呼ぶのは、「正」が年の初め、年の改まるの意に由来。
 
 
そもそも「正月」は「盂蘭盆」と対応するもので、半年ごとに先祖の魂を迎えて祀る性質の行事でした。現在でも年頭墓参の行事が残っている地域もあります。
 
 
仏教の影響が大きくなるにつれ、盂蘭盆は先祖の供養など仏教的行事の意味合いが濃くなっていきました。正月は神祭りとしての意味合いが強くなり、年神様を迎え新年の豊作を祈る月として、年神の祭りとして性格づけられるようになっていきました。
 
 
正月1・2・3日を「三が日」、元日から7日までを「大正月」または「松の内」といいます。
 
 
1月7日は「七日正月」(なのかしょうがつ、七草の節句)、15日は「小正月」(しょうしょうがつ、二番正月)、20日は「二十日正月」(はつかしょうがつ、骨正月)と呼ばれ、それぞれを祝う風があります。一般に正月の終わりは20日と考えられています。
 
 
「新年」とは新しい年・1年のはじめをいいます。暦法によって様々ですが、太陽暦では冬至を過ぎた頃に設定され、旧暦(太陰太陽歴)では立春の頃としています。
 
 
「元日節会」(がんにちのせちえ)は、朝廷の年中行事の一つ。正月1日、朝賀のあと天皇が文武百官を大極殿・豊楽院(紫宸殿)・豊明殿などに招いて、行った年始の宴会のことです。奈良時代の初めには行われ、明治維新までの1200年間も続いた行事です。
 
 
天皇が豊明殿に出御され、はじめに諸司奏と称する諸国の豊作の吉兆を天皇に申し上げる儀式が行われ、中務省が七曜暦を奉ります。七曜暦とは「七曜具注暦」のことで七曜(日月火水木金土)が記入された暦。
 
  
次に、宮内省が「氷様」(ひのためし)と「腹赤贄」(はらあかにえ)を奉ります。氷様は、氷室に納めた氷を取り出してその厚さを天皇に申し上げる儀式で、氷が厚いほど目出度いとされました。腹赤とは鱒(ます)のことで、食いかけの鱒を順に

取り伝え食べる儀式です。
 
 
後に、皇族・各将・各省大臣・各国大使などが饗座につき、三献の義、奏楽などが行われます。
 
 
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 「年賀」
 
「年賀」(ねんが)とは、1月1日から3日の間に新年の挨拶を述べるために親戚や知人、上司や近所の人々を訪れる儀礼のこと。
 
 
古く村落社会では、家族親戚など血縁関係にある者などが本家に集まってともに大晦日を明かし、新年を迎えるというしきたりがありました。祖先の霊を祀り、五穀の豊作を祈って年神を祭り、一族郎党の団結を誓い合いました。
 
 
血縁関係だけでは生活していけなくなると、地縁関係へとこの風習が広がっていき、年頭の挨拶に出向くという形になっていきました。
 
 
江戸時代には、商家の主人が、供の者に扇子などのお年玉を持たせて年始回りに出歩くのが、新年のしきたりになっていました。明治時代になると、人力車の普及とともに回る件数も多くなり、その多さを競い合う風潮もあったほどです。
 
 
年始客は扇子や葉書などを持ち、日頃お世話になっている家々を回り、年賀を受ける側も正式な接客でもてなしました。普通、年賀の訪問は3日までの間ですが、遅くとも7日までには済ませるのが常です。
 
 
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 「初詣」
 
「初詣」(はつもうで)とは、年が明け、初めて社寺に参拝することをいいます。氏神またはその年の恵方にあたる方角の神社仏閣にお参りをして、今年一年の無事と平安を祈る行事のことです。
 
 
「歳徳神」は「恵方神」(えほうじん)とも呼ばれ、年によって異なった方位に宿るといわれています。その方位を「恵方」(えほう)といいますが、その方位にある神社仏閣を参拝することを恵方参りといいます。
 
 
古くは「年篭り」(としごもり)といって、祈願の為に大晦日の夜から朝にかけて、氏神の社に篭るのが習わしでした。「御篭り」(おこもり)とも。
 
 
やがて、年篭りは除夜詣と、元日詣の二つに分かれ、初詣の原形となっていきました。現在でも、除夜に社寺に参拝したのち、一度家に帰ってから元旦になってまた参拝するというところもあります。
 
 
東京・明治神宮、鎌倉・鶴岡八幡宮、川崎・川崎大師、三重・伊勢神宮、京都・平安神宮など、全国の有名な社寺では、前日から出掛け除夜の鐘を聞き、その地で元旦を迎えるという光景が見られます。除夜詣と元日詣を一緒に済ませてしまおうというものでしょう。
 
 
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 その他
 
◆「門松」(かどまつ)とは、新年を祝って家の門口などに立てられる松竹の飾りのこと。松飾り・門の松とも。
 
室町時代の僧・一休の歌に「門松は冥途の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」とあります。古くは木の梢には神が宿ると考えられていて、門松に年神をお迎えして祭るという意味を持っていました。しっかりと年神をお迎えしないと、その年は不幸になると信じられ、非常に重大な儀式でした。
 
 
◆「依代」(よりしろ)とは、神霊が出現するときの媒体となるもののこと。門松の他、花・樹木・岩石、形代、よりましなど。榊(さかき)・栗・楢・椿などの木が使われます。
 
門松の飾り方は様々ですが、本飾りは孟宗竹を斜めに切って松の木を添え、注連をかけた豪華な飾り。一般家庭では、松の小枝を門口の両側につけ、輪飾りをかけた簡単なものが使われます。
 
孟宗竹(もうそうちく)の原産は中国。淅江省より琉球を経由して渡来したもので「毛竹」と呼ばれます。国内では鹿児島に「江南竹林」の銘で渡来原株の末裔が残っているようです。
 
孟宗とは「親孝行な息子」の意。真冬に竹の子が食べたいという母親の為に山に入って採ってきたものだから孟宗竹と呼ばれるそう。
 
新年を迎える飾り物は、年末のうちに飾りつけを済ませます。29日は「苦日飾り」、31日は「一夜飾り」といって嫌います。
 
門松は正月6日の夕方に取り払います。そのため6日までを「松の内」と呼ぶようになりました。
 
 
◆「注連飾り」(しめかざり)とは、正月などに門松や玄関・床の間・神棚などを、注連縄を張って飾ることをいいます。
 
人間に災いをもたらすという「禍神」が家内に入らないよう、呪いとして飾られます。注連縄は左捻り(ひだりひねり)を定式としていますが、これは左を神聖視する旧来のしきたりです。
 
輪飾りや大根じめ、牛蒡じめなどの種類や、縄に餅・昆布・松葉・魚などを飾るものもあります。
 
 
◆「鏡餅」は、まるく平たい鏡のように作った餅のことで、正月やお祝いのとき、大小2個の餅を重ねて、神仏に供えます。
 
古くから神仏の祭りには餅を供えるのが習わしです。昔の鏡は青銅のものが多く使われていて、装飾用というより神事などに使われ、宗教的な意味合いが濃かったのです。鏡餅は歴代天皇が継承する三種の神器のひとつ「八咫鏡」(やたのかがみ)を形どっているものといわれています。
 
鏡餅が一般にも普及し、現代のような形になったのは室町時代以降のこと。住居の建築様式が変わり、家に「床の間」が出来るようになって、床飾りとして普及しました。武士の家では、床の間に鎧・兜などの具足を飾り、鏡餅を供え、繁栄を願いました。
 
鏡餅には、譲葉(ゆずりは)・熨斗鮑(のしあわび)・蝦・昆布・橙などを載せて飾るのが通例で、武家餅といわれるものです。
 
 
◆「幸い木」(さいわいぎ)とは、正月に魚などを掛けるために、庭に渡す横木のこと。庭に六尺ほどの棒を横渡しして、平年には12本、閏年には13本を結んで飾り縄を吊るします。
 
その縄に鯛の干し物・鰯・鰹節・するめ・昆布・大根・譲葉・橙など正月用の食品を吊り下げ、これを土間などに取り付け、正月に食べていくというもの。
 
九州や四国地方に多く見られました。現在でも長崎県五島列島一帯に見られます。関東でも竹に魚・野菜・昆布・炭などを吊るして、恵方棚の前に供える風習があります。幸い木には神が宿ると信じられています。
 
また、門松の根もとに短い木を寄せて立てて飾る、割り木(薪)のことも「幸い木」といいます。
 
 
◆「破魔弓」(はまゆみ)◆「破魔矢」(はまや)「破魔」とは、仏教用語で悪魔を破滅すること。煩悩を消滅させるの意。正月に神社などへ参拝に行き、お土産に破魔矢・破魔弓を買うしきたりがあります。
 
生まれて初めて正月を迎える男の子には破魔弓を贈り、もらった家ではこれを新年に飾って祝う習慣もあります。のちに細長い板に弓矢を飾り付け、その下に戦人形などの押絵をはり、男の子の初節句の贈り物になりました。
 
昔は正月に行われる「破魔打ち」という「年占競技」(としうらきょうぎ)に使われていました。その年の運勢を占うもので、わらで作った的を投げて射落としたり、木の枝を投げて遮ったりして、境界線を超えたら勝ちという遊びです。しかし、危ない遊びであるからか現在はすたれてしまいました。
 
また、破魔弓・矢は、家を建てる際の棟上式に、屋根の上に飾られます。
 
 
◆「お年玉」とは、もともと親類や内輪の目上の人から目下の人へ贈られる性格のもの。昔は餅を贈りました。
 
年の初めに贈り物をする習慣は、すでに室町時代には盛んに行われていました。金子・筆・硯・紙・酒・餅などの品物が用いられ、これをお年玉と呼んでいました。
 
 
現在は年始先に子供がいれば、お年玉を贈ることが多い。子供に限らず、社員やお年寄りに贈っても、失礼にはなりません。商店では、年賀のしるしとしてタオルやカレンダーを配る風習があります。
 
 
◆「正月遊び」凧揚げ・独楽回し・双六・羽根突き・福笑いなど。
 
歌加留多取りは、小倉百人一首の和歌を一首ごとに書いた読み札と、下の句のみを書いた取り札を使ってする遊び。「歌骨牌」(うたがるた)とも。
 
「三十人に余んぬる若き男女は二分に輪を作りて、今を盛りと加留多遊をするなりけり。込み合える人々の面は皆赤うなりて、白紛の薄剥げたるあり、髪の解れたるあり、衣の乱次く着崩れたるあり。皆狂して知らざる如く、寧ろ喜びて罵り喚く声…」とは、尾崎紅葉の名作「金色夜叉」の加留多会のくだり。
 
明治三十年代頃は、正月の加留多会が若い男女が一緒に楽しみ合える数少ない機会だったことは間違いありません。
 
当時の歌加留多は「百人一首」で、草書など色々な書体で書かれていましたが、やがて「東京カルタ会」によって「標準加留多」が制定され、全国に流行していきました。
 
 
◆「御節」(おせち)とは、正月や節句に作るご馳走やお供えのこと。「おせち」の語の由来は、年に5回、宮中で季節の節目に神前に食べ物を供えた節供(せちく)からきています。
 
◇「据わり鯛」(すわりたい)=尾頭付きの焼いた鯛。二匹の鯛を腹合わせにして、頭と尾を高くかかげたもの。座鯛・坐鯛ともいいます。また、石持・鰯・鯖なども用います。真鯛(関西では本鯛ともいう)は、古くから日本で珍重されてきた「魚の王者」で、鯛は「めでたい」に通じることから縁起が良いとされています。
 
◇「開き豆」(ひらきまめ)=水煮して大きくした大豆。また、皮を剥いて左右の実を離したもの。わざわざ開くという語句をつけるのは「開運」を意味し、縁起が良いとされています。
 
◇「開き牛蒡」(ひらきごぼう)=生のまま細かく算木のように切った牛蒡。すりこ木で叩いた叩き牛蒡を用いることも。開き豆と同じように、開くは「開運」に通じ、縁起が良いとされています。
 
◇「数の子」(かずのこ)=鰊の腹子。干し数の子と塩数の子があります。アイヌ語で「鰊の子」(カドのコ)が変化したもの。また、語呂で二親から多くの子供が生まれるからと縁起を担いだものです。多産・子孫繁栄の意。
 
◇「ごまめ」「田作り」=片口鰯の稚魚を真水で洗って干したもの。炒って飴煮にして食べます。健全を意味する「まめ」との連想からその縁起を担いだもの。また、片口鰯は田畑の肥料にされ、豊作になったことから「田作り」ともいいます。豊作祈念の意も。
 
◇「芋頭」(いもがしら)=里芋の親芋のこと。魁とも書き、家の芋ともいいます。子芋をよくつけるため、子宝につながって縁起が良いとされています。頭(かしら)は、人の上に立つ「かしら」に通じ、縁起が良いとされました。
 
◇「黒豆」(くろまめ)=「まめ」は丈夫の意。まめに暮らすとの願いが込められています。
 
この他、昆布巻き・蒲鉾・なます・金団(きんとん)・蜜柑(みかん)など。
 
 
◆「若水」(わかみず)とは、1月1日の早朝に井戸の水を汲んで神に供えること、またはその水のこと。
 
元日の早朝、まだ人に会わないうちに汲みに行き、もし人に出合っても口をきいてはならないことになっています。
 
若水は邪気を除くと信じられ、福水・若井・初井・生華水などとも呼ばれます。年神への供え物や家族の食事を調えるのに使われます。
 
若水を汲むのは年男の役目とされていました。汲む時は「黄金の水を汲みます」などど目出度い言葉を添えて縁起を担ぎます。
 
 
◆「若潮」(わかしお)とは、1月1日の早朝に海水を汲んで神に供えること、またはその海水のこと。
 
潮水のかわりに海藻を用いたり、塩で清めを行ったりすることもあります。
 
 
◆「四方拝」(しほうはい)とは、もと祝祭日の中の四大節の一つ。元旦における宮廷行事の一つで、天皇が元日の早朝に「天地・四方」を拝する儀式です。
 
元日の寅の刻(午前4時)、綾綺殿(りょうきでん)で「黄櫨染の袍」(こうろぜんのほう)を着し、清涼殿の東庭に出御し、属星、天地四方、父母の山陵を拝されます。
 
※綾綺殿(りょうきでん)=更衣所。※黄櫨染(こうろぜん)=赤みがかった黄色に染めるもので、天皇の第一の正装のこと。※属星(しょくじょう)=その人の運命を左右するといわれる星。
 
その年の天災を祓い、五穀豊穣と宝祚長久・天下泰平を祈願する朝儀でした。
 
四方拝の起源は中国。日本では平安時代に宮中で取り入れられました。宮中にならって貴族や一般庶民にも広まり、元日の朝に四方を拝して五穀豊穣と無病息災を祈りました。
 
明治以降は、皇居内の神嘉殿の南庭で「伊勢皇大神宮(内宮)」「豊受大神宮(外宮)」の二宮に向かって拝礼されたあと、東西南北に向かって四方の諸神を拝されるように改められました。
 
 
◆「元始祭」(げんしさい)とは、もと祝祭日の中の大祭日の一つ。毎年正月3日、天皇が宮中の賢所・皇霊殿・神殿の三殿において親祭し、皇位の元始を寿ぐ儀式のこと。明治時代に皇室の祭祀に定められました。
 
明治3年1月3日、神祇官八神殿に八神、天神地祇、歴代の皇霊を鎮祭したことに始まります。皇室祭祀の中でも重儀と位置づけられ、明治41年制定の「皇室祭祀令」において大祭に加えられ、昭和2年の公布で祭日および祝日に定められました。
 
戦後、国民の祝日から外されましたが、宮中では従来通り現在でも行われています。
 
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 「歳旦
 
「歳旦祭」(さいたんさい)は、戦前の祝祭日の中の皇室祭祀令に基づく小祭日の一つで、現在は新暦1月1日(元日)に、宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)で行われる年始を祝う祭祀です。
 
 
元日の「神嘉殿」(しんかでん)南庭において天皇が親行する「四方拝」に続き、同日、早朝午前5時30分から宮中三殿において掌典職(しょうてんしょく)が祝詞をあげ、午前5時40分ごろ黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう=重要な儀式の際に着用する束帯装束の袍のこと)姿の天皇が拝礼し、黄丹袍(おうにのほう)姿の皇太子が続いて拝礼します。
 
 
神宮をはじめ、全国の神社においては、皇統の繁栄と五穀豊穣と国民の加護を祈念する中祭として行われます。
 
 
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 「修正会」
 
「修正会」(しゅしょうえ)とは、諸寺院で行なわれる正月の法会(ほうえ)のこと。

 
 
奈良東大寺では、正月七日に金堂大仏殿で悔過の法会が行なわれています。「悔過」(けか)とは、礼仏して罪過を懺悔(さんげ)し、天下泰安・風雨順時・五穀成熟・万民快楽等を祈願することをいいます。
 
 
8世紀中頃に行なわれていた「吉祥天悔過会」がはじまりと伝わります。諸国の国分寺にも広まりましたが、国分寺の衰退と共に廃絶し、平安時代になると「薬師悔過」などが修正会として諸寺院諸堂で盛んに行なわれるようになりました。
 
 
平安時代には、元日から七日間にわたって行なわれ、また、鎌倉時代になると大仏殿の主要な法会の一つにもなりました。夜は舞楽が演じられるなど、厳粛で盛大な法会が営まれていましたが、戦乱の時代を迎え伽藍の多くを焼失するとともに、修正会も途絶えてしいました。
 
 
現在行なわれているものは、江戸時代になって再興されたものです。正月七日に大仏殿で「初夜・後夜の法要」が行なわれます。大仏の宝前には「笠餅」と呼ばれる壇供(餅)が供えられます。これは修正会特有の供物で、三本の柱状に積まれた小餅の上に傘が覆うようなに大きな餅を乗せられています。
 
 
東大寺◇奈良県奈良市雑司町406-1
 
◇JR・近鉄「奈良駅」よりバス「大仏殿春日大社前」徒歩5分
 
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皆様お揃いで
 
よい年をお迎えになられましたことと思います
 
本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます
 
(癶▽癶)☆彡
 
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 「出羽三山松例祭」
 
「出羽三山」(でわさんざん)とは、出羽国(でわのくに)「羽黒山」(はぐろさん)・「月山」(がっさん)・「湯殿山」(ゆどのさん)の3つの山の総称。正式には、出羽と書いて「いでは」と読みます。
 
 
今から4千年前、都から第32代「崇峻天皇」(すしゅんてんのう)の皇子「蜂子皇子」(はちこのみこ)は、三本足の霊鳥に導かれて出羽山に入り、難行苦行の末に羽黒権現の御示現を拝し、羽黒山頂に羽黒山寂光寺を建立。次いで、月山、湯殿山を開き、両神を羽黒山に勧進し、羽黒三所大権現と称しました。
 
 
「出羽三山神社」(でわさんやまじんじゃ)は、月山頂上に「月山神社」、羽黒山頂に「出羽神社」(いでわじんじゃ)、湯殿山の中腹に「湯殿山神社」が鎮座され、これを合わせて出羽三山神社と呼んでいます。
 
 
出羽三山神社の祭神は、月読命・伊氏波神・稲倉魂命・大己貴命・少彦名命・大山祇命。摂社:五十猛神社・大年神社・厳島神社・蜂子神社・天有社。他、広大な境内には百一末社と呼ばれる神々の社に八百万の神々が祀られています。
 
 
加賀白山を開いた「泰澄大師」や、修験道の祖と云われる「役の行者」、また真言宗開祖「弘法大師」、天台宗開祖「伝教大師」とその弟子「慈覚大師」なども来山して修行したと伝わります。そうして皇子の修行の道は、後に羽黒派古修験道として発展し、「出羽三山信仰」の根本になっています。太古より今なお神々の息吹に深く包まれる三山は、山岳信仰・修験の霊場として名高く、人々の篤い信仰を集めます。
 
 
「松例祭」は、二つの大松明を引き出して燃やす神事で、一名歳夜祭とも。2人の松聖が百日間の勤行の後、12月31日結願。神社本殿や庭上で行われます。新年の豊作豊漁、除災招福を祈願するもので、新年には火の打替え神事が行なわれます。新しい火を迎えて祭りは終了します。
 
 
出羽三山神社◇山形県東田川郡羽黒町大字手向字手向7
 
◇JR羽越本線「鶴岡駅」バス
◇山形道「庄内あさひIC」40分
 
 
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 「男鹿なまはげ」
 
秋田県西部の日本海に突き出た奇岩奇勝の景観をなす「男鹿半島」(おがはんとう)は、、中国の秦時代のの方士「徐福」(じょふく)が目指した蓬莱山(ほうらいさん)であったと伝わります。
 
 
※蓬莱(ほうらい)=古代中国で東の海上にある「仙人の住む山」のこと。
 
 
古代は神祇信仰も深く、高僧名僧の巡錫伝承もあり、男鹿三山のうち、真山(しんざん)・本山(ほんざん)は修験道の霊場としても栄えました。半島の全域といってよいほど十王堂(じゅうおうどう)の存在が確認され、その宗教的環境は豊かです。男鹿の人々は、「なまはげ」を一種の神様と考えてきました。
 
 
この独特な神様の姿は、実は、中国漢の時代に不老不死の薬草を求めてやって来た「武帝」(ぶてい)。武帝は白鹿に乗り、五匹の蝙蝠(こうもり)に化した眉間(みけん)・逆頬(さかうら)・眼光(がんこう)・首人(くびと)・押領(おうりょう)の鬼達を従えて渡ってきました。
 
 
武帝は日ごろ鬼達を酷使していました。そこで、1年のうち1日だけ村里に出て自由な振舞いを許しました。鬼達は、悪態を尽くし、終いには娘をさらったりする始末。困り果てた村人は鬼達と賭けをすることにしました。それは、一晩のうちに1000の石段を積むことで、鬼が勝てば毎年娘をさし出すというもの。
 
 
鬼達の積み上げる石段は、夜明け前には出来上がりそうになったので、慌てた村人たちは夜明けを告げる鶏の鳴き声を真似て、あわよく999段目で鬼を騙したのだとか…。負けた鬼達は、悔しさに傍にあった千年杉を引き抜き、逆さまに地面に突き刺して山に戻ったという。その後、騙した鬼達の崇りを恐れ、年に一度、若者たちが鬼に扮して村を訪れ、村人は充分にもてなして山に帰ってもらうのだそうです。
 
 
また、漂流して島の海岸に辿り着いた異国人を「なまはげ」としたのだとか。大兵肥満で紅毛碧眼の異邦人は、村人にとってまさに「なまはげ」に見えたのでしょう。
 
 
大晦日の晩、男鹿各地では「なまはげ」の奇声が聞こえてきます。神の遣い「なまはげ」が深く降り積もった雪を踏み締め、「ウオー!ウオー!」という雄叫びを上げながら山から降りて来るのです。
 
 
お面を被り、二匹一組となって家々を練り歩く「なまはげ」。事前に家の主人になまはげを家に入れても良いか否かを確認します。家に上がり、シコを7回踏み、「ナマケモノの匂いがする」「ナマケモノはいないか!」などと、荒荒しい奇声を上げて畳を強く踏みしめながら家の中を歩き回ります。
 
 
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お読みいただきありがとうございます。
 
来年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。
 
(癶▽癶)☆彡
 
 
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 「除夜の鐘」
 
「除夜の鐘」(じょやのかね)とは、12月31日の除夜の12時をはさんで諸方の寺院で鐘を撞(つ)くこと。または、その鐘の音のこと。「百八の鐘」ともいわれるように、百八つ鳴らすことになっています。
 
 
この「百八つ」(ひゃくやっつ)という数字は、「人間には百八つの煩悩がある」という仏教思想に基づいたもの。百八の煩悩を除去し、新年を迎えるの意。百八つの煩悩を覚まし、仏道を成ぜさせる煩悩解脱を祈って鳴らすともいわれています。
 
 
この「百八つの鐘」は、大晦日だけとは限らず、寺院では朝夕108回鐘を鳴らすのを原則としています。但し、普段は略して18回にとどめています。暁に鳴らす「暁鐘」(ぎょうしょう)は眠りを戒め、暮れに打つ「昏鐘」(こんしょう)は目の眩んだ迷いを覚ますため。その響きを聴く者は、一切の苦から逃れ、悟りに至る功徳があるとされます。
 
 
鐘を108回も打つとなると、数えるのも大変です。数珠を使ったり、豆を用意したりして数えます。
 
 
数珠は「木患子」(もくげんじ)の実を貫き通して作られています。鐘をつく前に鐘に向かい、合掌礼拝してから撞木(しゅもく)を握ります。そして107声までは旧年に、最後の1声は新年に撞きます。
 
 
もくげんじ(木患子)は、もくろじ科もくげんじ属。(せんだんばの菩提樹)本州日本海側の山林や崖地に分布。樹高10m以下の落葉高木。7~8月に黄色の集団花を咲かせます。寺院等に植えられ、実はほおづき状になり、その中の種は黒く、数珠に使われます。
 
 
仏教では、そもそも人間の心身を苦悩させる煩悩は、108種あるとされています。
  
「108の煩悩」とは「眼・耳・鼻・舌・身・意の六根」が、「色・声・香・味・触・法の六塵」と関係するときに、それぞれ「苦楽・不苦・不楽の三種」があって十八種の煩悩となり、これを「染・浄」の二つに分け、この三十六種をさらに「過去・現在・未来」の三つに分けて108種となります。
 
 
人間の罪業消滅の意を込めて、鐘を撞くときには般若心経や観音経などのお経を唱えながら、心清らかに撞木を打ちます。鐘の種類には「梵鐘」(ぼんしょう)と「喚鐘」(かんしょう)があり、梵鐘は「大鐘(おおがね)・釣鐘(つりがね)・鯨鐘(げいしょう)」などともいい、銅・錫・亜鉛などで造られます。
 
 
梵鐘の「梵」は、梵語(サンスクリット)のBrahma(神聖・清浄)を音訳したもの。中国、殷・周時代から制作されている「編鐘」(へんしょう)という青銅器が梵鐘の源流と推定されています。
 
 
形状は、龍の頭を模った龍頭といわれる釣り手があり、下部には蓮華状の二個の突座があって、吊るした撞木(しゅもく)でここを叩きます。上部に乳房状の小突起が巡らされています。
 
 
日本にはじめて鐘がもたらされたのは、欽明天皇23年(562)に大将軍・大伴狭手彦(おおとものさでひこ)が高麗(朝鮮)に遠征した折、戦利品として三口の銅鋳鐘を持ち帰ったものとされています。
 
 
日本鋳造の現存する最古の鐘は、文武天皇2年(698)に造られた京都の妙心寺のものと伝わります。
 
 
四方八方に鳴り響く荘厳な鐘の音は、それを聞く人々の心に温かい仏心を呼び起こします。除夜の鐘は人ばかりでなく、牛や馬や道具にまで仏心を及ぼして休ませ、歳取りをさせる風もみられます。
 
 
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≪今日の読み物≫
 
 「庚申」
 
「庚申」(かのえさる・こうしん)は、「庚申待ち」(こうしんまち)、「宵庚申」(よいごうしん)、「庚申祭」(こうしんさい)などを総称していう言葉。干支の組み合わせ57番目。八専の9番目。年に6回あります。
 
 
「庚」(かのえ・こう)は「陽の金」、「申」(さる・しん)も「陽の金」性であることから、この日は「金気」が重なって天地に充満して冷ややかになり、人心が冷酷になり易いとされます。
 
 
昔は「天地万物の気、庚申の日に変革される」と思われていて、最も重要な忌日でした。

 
 
また、庚申に続く「辛酉」(かのととり・しんゆう)も金が重なる日で、さらに陰の金が重なるので冷ややかさを一層増すというのです。
 
 
このことから「庚申」「辛酉」の年はおおいに忌まれ、政治的変革が起こることを防ぐために2年続けて改元が行われることもありました。例>万延元年(1860)文久元年(1861)など。
 
 
庚申はもともと中国の道教の伝説からきた禁忌です。人間の体内には「三尸(さんし)の虫」が、頭と腹と足にいて、いつもその人の悪行を監視しているのだとか。60日ごとに巡る庚申の夜、人間の睡眠中を伺って体外に抜け出し、天に昇って天帝にその悪事を報告するという。そして、人間の命を短くするのだそう。
 
 
これをさせないために、庚申の晩は神々を祀り、酒盛りなどをして夜を徹しました。村の中心をなす家に集まり、祭祀をしたあとに会食を行いました。
 
 
日本に伝わったのは、古く朱雀天皇の天慶2年(939)、または、文徳天皇のときに、智証大師が持ってきたものと伝わります。「枕草子」にも庚申待ちの話が登場します。江戸時代に入って民間で盛んに行われるようになり現在でも各地に「庚申塔」が残されています。
 
 
仏教では、庚申の本尊を「青面金剛」(しょうめんこんごう)および「帝釈天」(たいしゃくてん)に、神道では「猿田彦神」(さるたひこのかみ=天狗さま)に結び付けています。
 
 
旧暦の月で選日を行うため、庚申の日は1年に5~7回あることになります。7回あるのを「七庚申」といって非常に喜びました。このことから庚申待ちの夜は「七色の菓子」を供えたり、七度線香をあげ、七回真言のお題目を唱えたりするようになりました。
 
 
また、申(さる)と猿(さる)が結び付いたことから、猿を庚申様の使いに見立て「見ざる、言わざる、聞かざる」の「三猿信仰」(山王信仰)にもなっていきました。
 
 
さらに、申(さる)と「去る」が結び付いて、この日は結婚を忌む風習もありました。この夜に出来た子供は泥棒になるとか…。この夜はセックスをしてはいけないなどとも言い伝えられています。
 
 
庚申の日は「帝釈天の縁日」になっています。
 
 
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 「大祓え」
 
「大払い」(おおはらい)、「大祓え」(おおはらえ)とは、一年を通してすべての人が、日常生活で大小知らずのうちに犯した罪穢れや、先祖の犯した罪穢れを除去し、それによって災厄を避けることを目的とした儀式のことです。
 
 
主に、6月晦日(30日)の「夏越の大祓え」、12月晦日(31日)の「年越の大祓え」をいいます。
 
 
大宝律令(701年)において正式に宮中行事となりました。朱雀門前の広場に親王、大臣以下在京の百官を集め、大祓えの詞を読み上げて万民の罪穢れを祓いました。
 
 
「神祇令」(しんぎりょう)には、毎年6月・12月の晦日に朝廷で天皇以下全官人・官人の家族までを対象として執り行なわれる「二季恒例大祓」と、諸国で臨時に執り行なわれる「諸国大祓」とが登載されています。現在は、宮中の内部や神社の行事として執り行なわれます。
 
 
心身ともに清らかな状態にし、新年に歳神(としがみ)をお迎えして、歳の霊(としのたま=餅)を神さまと共に食し、良い一年にするものです。穢れ(けがれ)とは、新年には瑞々しく張りのあった「気」が、だんだん「枯れて」いく=「穢れ」としたもの。生命力を補給するものと考えられています。
 
 
年越の大祓えを済ませ、新年を迎えた時、神さまからひとつ歳を頂くのです。元旦には、歳旦祭が執り行なわれます。元旦の朝には、神棚にお供えをして一年の計を祈願します。
 
 
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 「年越し」
 
「年越し」とは、大晦日から元旦までの間、またはその間の行事のことをいいます。年越しの境目は「除夜」(じょや)となります。
 
 
「除夜」は、年神を迎える為に心身を清め、一晩中起きているのが習いでした。昔は、年神を迎える神聖な「物忌みの夜」として、この夜、早く寝ると白髪になるとか、シワが寄るとかいわれていました。
 
 
青森県の上北部では、眠らずに元旦を迎える「尻枕」(けつまくら)という習わしが残っているそう。家中で炉の周りに集まり、年の順に人のお尻を枕にして寝るというもの。また、青年達が除夜の鐘を合図に裸で海に飛び込むというのも、一年中の穢れを落として、歳神を迎えるための禊です。
 
 
年越しに酒や餅などを先祖に供え、御節など特別な食卓につく風習があります。麦飯や鶫(つぐみ)、樫鳥(かしとり)を食べる風習も。鶫は「継身を祝う」の意。樫鳥は「貸し取り」の意で、上手にお金が取れるといわれ、金融業の人が食しました。
 
 
「年越し蕎麦」もそのひとつで、大晦日の晩に家族みんなが寄り集まって、蕎麦を食べながら年を越す習慣です。起源は定かではありませんが、もともと江戸中期には毎月末に「そば切り」を食べる習慣がありました。蕎麦を食べるのは、蕎麦がよく伸びることから、命を延ばし財産を延ばすとことに通じるという語呂で縁起を担ぐもの。蕎麦が五臓の汚れを取るというので無病息災を祈願するの意、でもあります。
 
 
元来、そば粉は「そばがき」のようにして食すのが普通でした。粘着力があるので江戸の職人達は大晦日の大掃除にはそばを練って「そば団子」を作り、それで部屋の隅々の小さなゴミやホコリを取っていたそう。
 
 
金銀細工を生業にしている人にこの方法が珍重されました。そば団子で飛び散った金粉銀粉を掻き集め、その団子を七輪や火鉢の上で焼いて灰にすると、金や銀の粉だけが残ります。ここから「蕎麦は金を集める」という諺も生まれたほどです。
 
 
「大晦日」とは、一年最後の晦日(みそか)のことで、12月31日のこと。毎月の晦日を「つごもり」ともいい、大晦日は「おおつごもり」ともいいます。
 
 
かつての江戸や明治時代の東京では、大晦日のこの日、朝早くから夜遅くまで人通りも多く活気がありました。あちこちに「歳の市」が立ち、商屋では「新しいのれん」に掛け替え、暗くなれば軒提灯や高張提灯を出して、夜遅くまで商いを続けました。そして、町中を借金取りが駆け回ったそうな。歳の市には露店が並び、南天や福寿草などの植木も売られます。
 
 
宮中では、大晦日には「節折り(よおり)の式」、「大祓」「除夜祭」が執り行われ、神社では「大祓の神事」が行われます。
 
 
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