2012年2月11日、グラミー賞を翌日に控えたLAのホテルでホイットニー・ヒューストンが48歳で亡くなったことはあまりにショッキングだった。彼女が滞在していた部屋の凄惨な写真が出回ったこと、同様に薬物に溺れていた一人娘のボビー・クリスティーナ・ブラウンが3年後に22歳の若さで亡くなったことも衝撃に拍車をかけた。
ドキュメンタリー「ホイットニー:本当の自分でいさせて」(原題「Whitney : Can I Be Me」)は生前から知られていた麻薬や酒の悪癖の原因だったのは単に若くして大成功を収めたことだけではなく、家族や前夫のボビー・ブラウンや親密だったスタッフとの関係に深刻な問題が繰り返し発生し恒常的に不安定な精神状態にあったことだと赤裸々に描いている。
ホイットニーの音楽性はポップ過ぎるとR&Bのファン層から反発があったのは知っていたが「ソウル・トレイン」でブーイングを浴びるほどだったとは知らなかった。関係者の1人は彼女はこのブーイングから終生立ち直れなかったとまで言っている。
当時としては極めて画期的だった全米初登場1位を記録した87年のセカンド・アルバムから彼女は自分と契約した米音楽業界のレジェンド、クライヴ・デイヴィスやレコード会社に立ち向かいサウンドにより自分の意向を反映させようとするようになった。それゆえの「Can I Be Me」=「わたしでいられる?」なのだ。
また、ディオンヌ・ワーウィックのいとこだけに恵まれた育ちかと思っていたらまったく異なり荒れたニューアーク(ニューヨークに行くのにニューアーク空港を利用したことがある方もいるだろう)育ちだったことも知らなかった。
名声が早過ぎた死につながり、彼女が遺した音楽は聴かれ続けるが同時に麻薬や酒に溺れて破滅したセレブとしても記憶され続ける。
才能に恵まれたこと、その才能をファンたちが愛してスーパースターに押し上げたことは彼女にとって本当に幸せだったのだろうか。早世したミュージシャンについて思う時に必ず突き当たるこの疑念に改めて向き合わされた。