数秘学マダムYUKOです。
最近の大きな変化は、香林院の朝の坐禅に行くのをやめたこと。5年近く続けた習慣が終わりました。その一番の理由は、
毎朝
同じ場所で、
同じ時間に、
同じ音の合図で坐禅を始め、
25分を2回坐る、
という習慣に縛られている感じがしてきたから。瞑想はもっと自由でもいいのかな、と思いだしたのが昨年末あたりでした。思えば、それ以外にもフラグはいくつも立っていました。呼吸音(ウジャイ呼吸)をさせて毎日坐る人がいたり、朝起きるのが辛くなったり、坐禅で知り合った人が臨済宗の女人禁制、という特質を強烈に思い起こさせる人だったり、と。
臨済宗では女性はお寺で本格的な修行することができません(禅宗も流派によっては女性も修行可能です←ご住職談)。土俵に女性を上がらせない、というのによく似た空気は普段から感じていましたが、ここのところ、それを何となく心地悪く感じるようになっていました。瞑想も坐禅も精神修行。違和感を持ちながら行くのはね、と考えつつ通っていましたが、ある朝行ったらその日は坐禅がなぜか中止。5年間で初めてのことで、これはもうこの日にやめるべきなんだ、とその日以来行っていません。
とはいえ、香林院も臨済宗の修行も、男女平等という点から否定する気は皆無です。それは、臨済宗の修行自体が生きるか死ぬかという次元の非常に厳しいものだから、ということもありますが、それよりも何よりも、香林院のご住職がすばらしい方だから。存在が大きくて、深くて、慈しみの心がある、あれほどの人を作り上げる仏教の修行が女人禁制だからといって、わたしには否定できません。
ご住職は教誨師(きょうかいし)をつとめておられます。教誨師は死刑囚と話し導く人。この任にあたるのは僧侶や牧師などの聖職者で、完全無償。死刑執行にも立ちあう職員以外の唯一の人です。そういう形での人の死に立ちあえるような人を育てる修行にどうこう言うべきではない... というのがハラの底で感じることです。
ものごとには必ず終わりがありますが、坐禅の終わりも自分の中の小さな「死」を体験することでした。ちょっと寂しいですが、家で1人で瞑想するのも自由で楽しい。お寺という枠がなくなったことで、自分との親密さは増している気がします。誰に言われるわけでもなく頼るわけでもなく、自分で瞑想をする、という道が始まったのだと思ってます。
むかーし飼ってた愛猫ルディ。今彼女はどこに?
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臨済宗の修行は想像を絶する厳しいものだそうです。不眠不休、栄養失調ぎりぎり、の日々が続くのだとか。土俵の上で相撲をとるのは、やれと言われれば誰でもできますが、お寺での修行は同じようにはいかないでしょう...
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