数秘学マダムYUKOです。

昨日から続きます。

 

スケジュールは1日中ぎっちり入れました。好きなときにご自由にどうぞ、と目の前に出されたら。日本人だったらなるべくたくさん参加しようとがんばりそうですが、そこのところは、みなさん本当に自由でした。サラやタイが教える時間は来ます。でも、朝のヨガの自主練習の時間に来る人は半分もいない。午後の瞑想の時間は、マッサージを受けたり、日光浴をしてたり、泳いでたり、外に散歩に行ってたり。

 

期間中1度、サラかタイと面談があります。これは世間話をするためではなくて、その時点で、自分が「どうあるか」を確認する作業のためです。「黙っている力」はとにかくパワフルで、心の状況がどんどん変わります。ですから、何日目に面談があるかによって、話したいことも全く違います。2日目にサラと話しましたが、最終日には、そのときの発言の50%ぐらいは間違っているというか、消してしまいたいような気持ちでした。自分がそのとき「真実だ」と感じていることは、だいたいそんなものなのでしょう。

 

7日間で興味深かったことはたくさんありますが、その1つが「マインドも心も層になっている」と体験的に学んだこと。普段は、何か1つ自己主張の激しい感情や思考があって、それに気を取られていますが、沈黙することでその「うるさい」層が静まると、今度はその奥に隠れていたものが表面化して来ます。

 

瞑想をすると無意識にあるものが表層に表れてくる、と言われますが、まさにそんな感じです。最初の層は普段から馴染みのある、もっとも「粗い」思考や感情ですが、そこが落ち着くと今度はもう少し「微細な」部分に気づきます。それが収まると、今度はそれよりもっと繊細な何かが出てくる。マインドも心もこれ以上ないくらいに静かになっても、その奥にまだ「何か」が必ずあって、自分にとっては「無」はない、というか、あっても果てしなく遠いのだと体感しました。

 

自分の思考パターンもよく見えてくるのですが、瞑想をしてマインドを静かにしようとするときに、とにかく一番邪魔になるのが、数秘学の数字と生年月日のチャートでした。普段から、自分も他人もひっくるめて、状況から反応から発言まですべてを「数字」をというレンズを通して見ている、その習慣を手放すのがとにかく難しいのです。沈黙しながら、あるいはサラやタイの話を聴きながら、何が頭に浮かんできても、心で感じても、その状況を描写、表現する数字が 瞬間的に次々と頭の中に表れてきて、止まらないのです。

 

2人組になって話すときは特に大変。相手がいて自分がいる。相手はとても大切な、本質的な話をしてくれて、自分はそれを聴いている。この状況は、数秘学のリーディングのセッションとまったく同じ。セッションではないのに、全部を数秘学の視点から理解してしまう。そこで、その理解を相手にどう言う言葉で表現しようかと、自動的に考えてしまう。話を「ただ聴く」ことが必要なのに、それができない。さらに。数秘学からの気づきを相手に伝えたいと、強く願ってしまうのです。結局それは、最終日までひたすらやかましかった、マインドからの声でした。

 

ある日のランチ。キノアやスペルトなどの雑穀系をいつも上手に使ってました。

1日3回ちゃんと食べる、なんて、これまで何年もなかったのですよね。

 

YUKO