◇◆ほんとうに大切なことは目に見えない◆◇
3歳で両親が離婚した後、祖父母の家に預けられていたことがあります。
当時、祖父はもう80歳近かったでしょうか。
明治生まれで頑固一徹。
とにかく豪放磊落で、たまに人が訪ねてくると、縁側で囲碁を打っていました。
外出には帽子とステッキとロングコートを羽織り、かくしゃくとして、とにかく一目散に歩きます。
一度、外出につき合わされたことがあって、バスに乗って帰ってくる時に(ちょうど家はバス停とバス停の真ん中ぐらいのところにあったのですが)、家の前に差し掛かった時、運転手さんに向かっていきなり大声で「はい、ここで止めて。」と当然のように命令し、あまりの迫力に(あるいは年寄りだから仕方ないと思ったのか) なんと本当に家の前で下ろしてくれたことがありました。一緒にいた私は顔から火が出る程恥ずかしく、それ以来頼まれても言い訳をして、絶対に祖父の外出の付き添いはしませんでした。
話す時はほとんど怒鳴り声(私にはそう聞こえました)。特に祖母に対してすべて命令口調で、ちょっと気に入らないことがあると怒鳴り散らすので、それがとっても嫌で、私は祖父が嫌いでした。
とにかく、こわくてこわくて、なるべく近づかないようにしていました。
そんな祖父が、病におかされ、ほとんどの時間を部屋で寝て過ごすことが多くなってきました。
恐る恐る祖父の部屋をのぞくと、ほとんどがうつうつと寝ていました。
最初は怖くて部屋に入れなかったのが、いつのぞいても寝ているので、段々大胆になった私は、忍足で部屋を探検するようになりました。碁石をいじってみたり、懐中時計を眺めてみたり…
祖父の布団の横には経机が置かれていて、小物入れのようなところに小銭がたくさん入っていました。
ますます大胆になってきた私は、その小銭を何枚かこっそり失敬して、お菓子を買ったりしていました。
今考えれば泥棒ですが、とにかく両親はいないし、誰もそのことをとがめる人もいませんでしたから。
そうして、祖父が寝ている時は部屋に出入りするのに、たまに祖父の調子が良くて起きている時に呼ばれても、決して行きませんでした。
そうこうするうちに、祖父の状態は悪くなり、いよいよ危ないというので、叔父や叔母達がやってきて話し合い、私は別の叔父の家に預けられることになりました。
最後に家を出る時、ああ、もうこの人は死んでしまうのだろうと、子供心に感じていたように思います。
でも私は祖父が嫌いだったので、その家から出られることに、どこかでホッとしていました。
祖父が亡くなった朝、夢を見ました。布団の上に正座した私がしくしくと泣いている夢でした。
本当に涙を流して目が覚めて、その瞬間になぜか祖父が死んだと分かりました。
叔父の家の電話が鳴り、義叔母が泣きながら祖父の死を告げました。
最後のお別れの時、祖母から、祖父が最後の最後まで私のことを心配して、私に会いたがっていたと聞かされました。そして、祖母に小銭を用意して自分の部屋の経机におくようにと言っていたことも…
祖父は全部知っていたのです。分かっていて、寝たふりをしていてくれていた。
葬儀の間中、私は泣き続けました。
面と向かうと怒鳴ることしかできなくて、誰に対しても横柄で…
そういう表現の仕方しかできない人だったので、ずいぶん不評をかい、大事な人間関係を壊したり、子供や孫からも恐れられ、嫌われていたところがありました。
人は気持ちや考えを伝える時に言葉をつかいますが、実はその言葉は、その人の心の底の真実を語ってはくれていなかったりするのです。
「心で見なくちゃ、
ものごとはよく見えないってことさ。
かんじんなことは、目に見えないんだよ」
出典:『愛蔵版 星の王子さま』、岩波書店、
サン=テグジュペリ 作、内藤濯 訳、P99より
そのことを理解するにはあまりに子供だったのですが…
私が泣き続けたのは、祖父が亡くなってしまった悲しみよりも、そのことにやっと気がついても、もう祖父に謝ることができない後悔と自責の念だったのだと思います。
だからもう二度と後悔したくない。
心で見なくちゃ、ものごとはよく見えない。
その気持ちはいまも私の、自分自身に対する戒めになっています。