everyday folly

everyday folly

A certain person's folly is other persons' property.

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家から駅までの道に、金木犀が香る。

秋である。


秋という季節は、むずかしい。


朝の気温が下がり始めるので、
ふとんから抜け出すのがむずかしい。

暖かい場所から肌寒い場所に移るための
決心がいかに困難なことか。

遅刻はしないが、朝の準備に追われ出す。


どういった服装で出かけるか、がむずかしい。

長袖1枚だけだと寒すぎだり、
アウターはおると暑すぎたり。

寒いと思って多めに来ていくと、
電車で汗ばんだり。

その汗で恥ずかしくなり、余計汗ばんだり。


肌寒くなった夕方。

後輩に缶コーヒーをねだられた。

自販機に100円を入れ、後輩はホットの缶コーヒー。

さらに100円を入れ、ボクはココア。

取り出したココアは、冷たかった。


秋という季節は、むずかしい。
普通に年月を重ねると、大人になっていく。

子供の頃、早く大人になりたかった、
などと特には考えてなかったように思う。

憧れはあった。

金銭的、時間的、空間的、それぞれの自由が格段に
増大すると思えたから。

おこずかいや門限や寝る時間や行ったらダメな場所、
そんなものがない自由な生活が待っている。

そんな感じ。


いざ、大人になってみると、子供のころには想像もつかなかった
大人になっている。

残念な大人に。

マンガを読む。
小学2年のころに読み始めたジャンプを未だに読んでいる。
他に2冊のマンガ雑誌も読んでいる。

お菓子を食べる。
コンビニに寄って、2日に1度はお菓子を食べている。

ゲームもする。
小学生よりひどいのは制限がない分、8時間など長時間
ゲームをしてしまう。

虫がさわれない。
小学生のころ大量に捕獲していたセミがさわれない。
セミだけじゃなく、カブトムシなどの虫もさわれない。


ボクはいつか、
渋い大人の男になれるのだろうか?

マンガを読まず、お菓子を食べず、ゲームもしない、
虫がさわれる、渋い大人に…。
ミスタードーナツが明日まで半額セールを行なっている。

品切れ続出、臨時閉店になるほどの人気ぶりだそうだ。
忙しすぎてキレた店員がツイッターで暴言をつぶやき、
炎上する事態にまでなっている。

毎月1日は「映画の日」
1000円で映画鑑賞ができる。
これも、約半額で、多くの人が映画館を訪れる。


「半額」というのはとても魅力的なのだろう。
「いつもの額で、同じものが2つ手に入る」という計算が働く。

そんなに必要としていないものでも、「半額」ときけば、
途端に「欲しい物リスト入り」するものが数多くあるはずだ。


安ければ、安いほど嬉しいのが人情だろう。
が、安いと安いで不安にあるものもある。

ブランド品や自動車などの高級品だ。
「にせもの?」
「大丈夫か?」
と考えてしまうのが面白い。


「割引額」というものを使って、金銭感覚や優先順位などが
見えてくる。

例えば、「3万円」の品物。
何割引になれば、あなたは「安い」と感じ、「買いたい」と思うか。

1割引?
2割引? 
3割引だとかなり悩む
4割引だと買いそう
半額なら完全に買う

ここの感覚が一致すると金銭感覚はかなり似通ったもの
になるのではないだろうか。


なんとなく欲しい物がある人は、何割引だったら購入するか考える。

「これは2割引なら買うかな」
「うーん、3割引ならアリだ」

割引率が1番低いものが、あなたが今1番欲しいがっているものに
違いない。

この前、電車に乗っていると、「常識」について話す
高校生の会話が聞こえてきた。

「それは常識じゃん」
「常識ってなんだよ。誰が決めたんだよ」

誰もが1度や2度は同じことを考えたことがある
のではないだろうか。

ボクも「常識」って何だろう、どうやって作られるのだろう、
と考えたことがあった。


多くの人が「常識」だと思うことが「常識」になっていく。

例えば、「あいさつをすること」

「あいさつをすること」が常識で、そう思っている人、
実際にあいさつをする人が多いと、それは「常識」となる。

そんな中、だんだんあいさつをする人が減っていくと、
「あいさつをすること」が常識だと思う人も減っていく。

そして、いつの間にか「あいさつをすること」は常識ではなくなる。

ボクの中では「常識」は「珍しさの尺度」という結論が出た。

珍しさを微塵も感じさせないものが「常識」なのだ。


「常識」の中には「自分の中の常識」というものが、
本人は全く気づかずに当たり前のこととして存在している。

これを形成する主なものは、家庭であり、親である。

このことがわかったのは大学生のころだった。


友人とサッカーの後に、銭湯に行った。

湯船につかる前に、体を洗うため友人と隣同士で
シャワーの前に腰を下ろした。

ボクは、ボディソープでタオルに泡を立て始める。

そのとき、友人はなんと1番最初に髪を洗いだしたのである。

これは、かなり衝撃的な出来事だった。

生まれて20年近く、風呂に入って体から洗うのは「常識」
だと思っていたからだ。


もう1つ。

ボクは顔を水やお湯で顔を洗うとき、音を立てて洗っていた。

それに気づいたのも、隣の友人が音を立てずに顔を洗っていた
からである。

どうして、顔を洗うのに音が立つのか?という疑問があると思うが、
何の疑問もなく音を立ててしまっていた。

説明するのが難しいが、水をすくって顔を洗うときに口をすぼめて
息を手にふきかけるようにすると音が立つのだ。

顔を洗うときに音が立つのは、疑問すら抱けない「常識」になっていた。

この洗い方は、父親がやっており、今でも父親が顔を洗うと
そのときしか聴けない不思議な音が聴こえてくる。

ちなみに、弟もその洗い方だ。


ボクは、それ以来(友人いわく、髪から洗うのは汚れを上から落として
いくから理にかなっている)髪を1番最初に洗い、顔も音を立てずに
洗うようになった。


いらない常識をとりのぞくは非常に難しい。

それが当たり前すぎて、疑問すら持たないからだ。

まだまだ気づいてないだけで、いらない「常識」が
たくさんあるのかもしれない。
暑い日が続いていたが、夜は涼しさを感じはじめ、過ごしやすくなってきた。
1日中、暑すぎるともだえていた夏も、もうすぐ終わりそうだ。

少し前に書いたが、夏には思い出が多い。
そんな夏の思い出を1つ。

あれは、小学生4~5年のころだったと思う。
夏休みに、ボクと父親、弟2人の計4人で、地元にある大きなプールに
行くことになった。

オープンと同時にプールに入れるよう、朝早くから準備を開始。
いつになくテンションが上がっているボクは、到着と同時にプールに
入りたいがために、半ズボンの下に海パンを装着し、出発した。

オープンと同時に場所とりをし、すぐ海パン1枚になって、
プールへと直行。

前からすごく楽しみにしていた、流れるプールを満喫しまくった。

浮き輪に体を沈め、流れに身をまかせ、流れていく。

なんとも言えず、気持ちが良かった。

その後は、弟とふざけあい、父親と競争などをし、楽しいひとときを過ごした。


3時間ほどプールで遊びたおし、少し疲れを感じはじめた頃、
帰宅することになった。

着替えようとすると、ない。
確かにバッグにいれたはずの、パンツがない。
何度探してもない。

半べそで父親に助けを求めるも、全く意に介さず。
ボクは生まれて初めてノーパンで帰宅することになった。

羞恥心の固まりだったボクは、楽しかったプールのことなど忘れて
気が気じゃなかった。

だがしかし、「家に着くまでは車の中だ」ということに気がつき、
ノーパンを楽しむ余裕すら生まれた。


夏の昼下がり、ノーパンの息子を乗せた車は、
軽快に風を切りながら走っていく。


家まであと30分ほどのところで、父親が口を開いた。
「お腹すいたな、うどん屋でご飯食べるか」

後部座席で喜ぶ弟。
助手席でヘコむボク。

半べそで父親に訴えるも、全く意に介さず。
ノーパンの息子、うどん屋へ。

仕方なくうどんは食べるものの、ノーパンが気になってしょうがない。
父親と弟は、美味しそうにうどんを食ってやがる。

特に何のトラブルもなく、うどん屋をクリアし、
ノーパンの息子を乗せた車は帰宅の途についた。


やっと、家の前に車が到着した。
これで、短くも長いボクのノーパンライフも終わりだ。
そう思い、車から降りると下に、何か落ちていることに気がついた。

右上にボクの名字が書かれた白ブリーフが、
砂まみれでボクの帰りを待っていた。

弟たちは、ありえないぐらい、笑い転げていた。