昨日の話で恐縮ですが、『BSフジ』 でドキュメンタリーとして

『TimeTrip 日本の海岸線~伊能忠敬の軌跡~』

が放送されました。
 
伊能忠敬の17年に及ぶ測量と作図作業により、現在の測量地図に匹敵する正確な日本地図が作製されます。(出来上がったのは彼の死後4年経って)
 
この番組は2017年に製作され、文部大臣賞他を受賞しました。
 
2018年が忠敬が没して200年目だったこともあり番組を製作されたのでしょう。
 
 
 
伊能忠敬は、
1745年(延享:えんきょう二年 将軍吉宗の頃)
     現在の千葉県山部郡九十九里町小関の小関家に生まれる。 
     幼名、神保三治郎(佐忠太)
     6歳の時母死去とのもない父は婿入りしていた小関家から実家に兄と姉の
     二人だけつれ帰る。 三治郎は、小関家で祖父母に育てられる。
1755年(宝暦五年) 10歳の時、父の実家神保家に引き取られる。
     12歳の頃、常陸国(ひたちのくに:茨木県)で寺でそろばんを習い、数学的な才
     能をみせる。
1762年(宝暦十二年)17歳 香取郡佐原村の旧家・伊能家の娘、ミチ21歳 (5年前に 
     夫を亡くし未亡人)のところへ婿養子となる。 
     身分の違いを合わせるため事前に旧家の平山家の養子となっている。
 
                 (江戸時代の雰囲気を残す佐原の町)
 
正面 左が伊能家の店
 
 
1783年(天明三年)38歳 浅間山の噴火。洪水と凶作。 妻ミチ死去42歳
     忠敬は、家業の酒造を盛り立て、佐原宿の本宿名主になったり、様々な実績で
     苗字帯刀を許されたりする。
 
 
 
 
 
 
1795年(寛政七年)50歳 後添いの妻信(ノブ)が死去。
     江戸に出て住み、天文方の高橋至時(31歳)に弟子入りする。
     前年家督を長男景敬にゆずり隠居となる。名前を勘解由(かげゆ)と改める。
 
  旧宅の中にある忠敬の銅像
 
1800年(寛政十二年)55歳  私費で奥州街道と蝦夷地を測量する。(第一次測量)
     以後1803年の越前、越後の海岸線、佐渡カ島測量(第四次測量)行う。
1804年(文化元年)59歳  師の高橋至時が40歳で病死。 東日本半分の沿海地図を
     将軍の上覧を受け高い評価。幕臣となって以後は幕府の直轄事業で西日本
     の測量を行う。第五次~第八次)
     1815年の第九次 伊豆七島の測量するが老齢のため不参加
1816年(文化十三年)71歳 江戸府内の二回目の測量(第十回測量)
      これまでの測量をまとめ『大日本沿海輿地図全図』の制作にかかる。
1818年(文政元年)73歳  太陽暦5月17日 江戸八丁堀の自宅で死去。
 
                   年表参照:「忠敬と伊能図」  伊能忠敬研究会編
 
 
 
 忠敬は、17年間も日本全国津々浦々をくまなく廻り昼は測量、夜は天体観測で緯度の確認を行う。 その結果は『大日本沿海輿地図』としてまとめられようとしていたが、完成を見ることなく亡くなりました。
彼の意志をついだ友人や門弟たちが、4年後の1821年『大日本沿海輿地全図』
を完成させ幕府に上程されました。
 
 
この年月のあいだ、彼の子供や共に測量に携わった友人など多くの人を先に送り
自身も、持病に苦しみながらも最後の測量まで行っています。
 
 
いつから、忠敬が天体観測に興味を持ったか分かりませんが、幼少期にその発端があったのでしょうか。 50歳になって故郷の佐原を離れ江戸に出て、自分の子供より若い天文学者を師と仰ぎ、遺言には死んだ後は師の高橋至時の墓のそばに葬るように託していました。
 
そんな、伊能忠敬に憧れこのブログも立ち上げ10年近くなりますが、記事を書くだけでも毎日は続きません。 なんと忍耐のないことでしょう。
それでも、ただ前を向き続ける忠敬先生の生き方を真似たい。
 
 
今回のBSフジの番組は、『大日本沿海輿地全図』の完成200年を記念した番組ですね。
彼らの努力に敬意を表して。
 
大図 筑前・福岡