町の図書館にこの処、通っています。


そこで借りた本の中に、標記の題名の本があります。



 「江戸の遺伝子」





著者は徳川恒孝(とくがわつねなり)さん。   



この名前から想像が付きますでしょ。




そうなんです。



平成の伊能忠敬になりたい男・楽しみと生きがいを見つけたい!!-江戸の遺伝子
 徳川家の末裔で、1963年より徳川宗家の第18代当主にあたられます。



その方が、先祖代々伝わる伝承や、他の歴史家の先生の著書も参考にして江戸時代を考証し、それを今の日本へのエールをおくる内容として、書いておられます。







 断片的な紹介となりますが、面白いと思われた部分をかいつ


 まんで紹介します。









  先日紹介した、『熈代勝覧(きだいしょうらん)』に出てきた日本橋の商店通りですが


   下の左右の日本橋からの通りを挟んで駿府通りがありますが、そこにその通りを挟んで同じ暖簾(丸

  の中に菱と三?)がありますね。


  これが、当時の文化2年(1805年)頃の三井越後屋=今の三越です。


   写真、縦の通りの右側が呉服屋江戸本店(おんだな)、左が京糸物問屋の三井越後屋です。

  当時の呉服屋は、掛け売りが主でしたが、三井越後屋は、現金取引をしたんです。

  それが、大当たり。そしてそれを元手に両替商も幕府御用となり莫大な豪商となったということです。



  裏に、蔵がたくさんありますが、反物類を毎日蔵からだし、又蔵にしまうということをしていたということで

  す。 江戸は、火事が多くその為の対策だったとのこと。  

   

   又、大丸は江戸に出店した大文字屋という店だったが暖簾の屋号が「丸に大」だったため明治になっ

  て大丸と改められたとか。

平成の伊能忠敬になりたい男・楽しみと生きがいを見つけたい!!-越後屋

  「熈代勝覧」 をよく見てみると、この描かれた日本橋の通り約750mほどに間に

  馬車や、牛車がほとんどないのがわかります。(牛車は1カ所ありますが・・・)


  大八車にいっぱい荷物を積んで引っ張っているのは、人間です。

  


  なぜでしょう。



   寛政の改革(1787~1793年)の時に、大坂の中井竹山という学者が老中の松平定信に、馬車の使用

  を進言しました。 当時は、馬一頭に馬子(馬方)一人。客を乗せるのも一人で効率が悪い。

  そこで、馬車を作り、一度に5人、10人を乗せれば、経済効率が上がると言う内容です。


  しかし、幕府は、その進言を却下。


  はっきりした、理由はわかりませんが、要は、経済効率だけではない。ということすなわち

  街道で働く、馬子、駕籠かきの人たちが大勢いて、それらの人たちの仕事を奪うことになる。

  また、当時の街道の道路状況は、土道でしたから、車輪の付いた車が重い荷(人)を運べば、道が傷

  むことにもなる。


  また、江戸の市中でも、馬車や牛車の使用は厳しく制限されていたといいます。

  それも、スピードの出る乗り物が街中を通行すれば、たくさんの事故が起きる。


  そういうことで、ヨーロッパや、アメリカの様には馬車や、牛車が使われなかったといいわれます。


 

 

 さて、


  当時、江戸で消費される物の70%は関西から下っており、


   米、酒、醤油、油、味噌、衣料、細工物等は関西からの「下りもの」が最上級でした


   そこで、「下らないもの」は質の悪いのの代名詞となったということです。


   「クダラナイ」て今でもよく言いますが, そんなことが語源だったなんて知りませんでした。




ちなみに今の、日本橋界隈、昔の三井越後屋の後は、今でも三越がちゃんとあります。


しかも、江戸の頃よりずーと大きくなっています。  


写真が見にくいですが、黄色の線の交差するとところが上の「熈代勝覧」の絵巻の部分です。


平成の伊能忠敬になりたい男・楽しみと生きがいを見つけたい!!-現代の日本橋

  また、その町界隈で色々と掛かる費用を「町入用」といって、そこに住む人たちが負担することになって

 いたんですね。 この、町入用は、町屋が面している「通り」の質と長さによって課税されていたんです。



  よく、京都の町屋は間口が狭くて奥行が長い、ウナギの寝床のよう・・・と言いますね。

  まさに、江戸でもそうだったんです。


    日本橋にの大通りでは、京間 五間で課徴。

    それより、小さな商いの通りでは、京間 十間で課徴

    もっと貧しい商いの通りでは、京間 二十間で課徴     


  といった具合です。  ですから、三井越後屋は、ずいぶん羽振りがよかったんですね。





   江戸は、1800年代初めには100万の人口を抱える世界一の大都市でした。


  この都市の行政を司る部署は、みなさんご存じの北と南の江戸町奉行所。


  この江戸町奉行所で今の、警視庁、消防庁、各区役所、地裁や、高裁の働きまでしていました。


  驚くことに、役人の数は300人弱。


   とてもそんな人数では、手が回りませんね。  そこで、幕府は大きな骨組みは作るが、小さいことは

  民間が直接携わるようして、民間の力を活用していたんですね。




  町役人(まちやくにん)と町役人(ちょうやくにん)

  漢字で書くと同じなんですが、読み方によっては、まったく違うことに。


      「まちやくにん」=町奉行所の武士

      「ちょうやくにん」=町の行政を行う役人。商人とかもなっていたんですね。



  このように、江戸時代は、小さな政府と大きな民間の力で動いていました。


  「士農工商」という、江戸の身分制度があり、農民は、活かさず、殺さずの税制で土地に縛り

  付けられて、虐げられた生活をぜざるをえなかったと教わりました。


  しかし、実際は、年貢意外は、税金はなかったようですし、(米以外、麦、蕎麦などの作物には税がかか

 らない。)制度だったようです。

  新田(新しく開墾した田)開発した場合は、30年間は年貢が免除される制度もあったとか。


 

 下級武士の給料も米で支払われていたんですが、


 「百俵五人扶持」 などという言葉をよく聞きますね。


  これは、百俵のコメを 春に四分の一 (25俵) 春借米として、 夏には四分の一 (25俵)夏借米とし

  さらに収穫の済んだ冬に残りの50俵を冬切り米として現物支給をうけ、さらにそれに加えて扶持米とし 

  て、一人当り、一日五合(一合=018L≒150gくらい)、一か月に一斗五升(一斗=十升=百合≒15kg)

  の5人分を毎月受け取って生計を立てた。

   コメは、浅草の米蔵(蔵前国技館)で支給された。・・・・・


 




私の小、中学校時代、

 「江戸時代は、暗く、閉鎖された鎖国という環境の中で人間は、家柄や、土地、制度に縛り付けられ、抑圧された差別社会であった」そんな教育を受けてきたように思います。


 しかし、260年もの間、国の中で大きな戦もなく生活出来てきたことは、驚くべきことです。


鎖国の中でも、世界の情勢はしっかり取り入れ、清国がアヘン戦争でイギリスに植民地化されたという

情報も得ていました。


 幕府は、それを避ける為、あらゆる努力をしたようです。


アメリカとの修好通商条約の協定も「アヘンは、持ち込まない。」という条件を付けていたとか。

(関税もそれなりに掛かっていたんです。)




今のエネルギーに依存した生活は、地球という器の中では、必ず限界が来ます。


もう、来ていると思いますが、このような、時代にあって閉じた中で工夫してきた江戸の生活様式を

(すべての物をリサイクルする循環社会であった)

参考にすると、そこに生きずまりを解決するヒントがあるように思うのです。



こんなことを考えながら、この徳川恒孝さんの「江戸の遺伝子」は非常に面白いく、ためになる本でした。


文体も、著者の人柄を感じさせせるようで、非常に好感がもてました。