突然ですが、
江戸の町は、どの程度の賑わいだったろうか。
時代劇に出てくる、町並み、人通り、町の賑わいは、ドラマや映画のようなのか。
そんな、疑問を皆さん持ったことはありませんか。
江戸時代の人口は、一節によると、18世紀初頭で100万人を超えていたといわれています。
(文化元年(1804年)の調査で町人だけで49万7千人)
江戸の町は、現在の東京都よりずっと小さい範囲でしたから、人口密度は、結構高かったんだと思います。
そうしたら、江戸のあちこちの商店街や、浅草寺の様な門前町辺りは、結構な賑わいだったんでしょう。
そんな江戸の町の賑わいを描いた絵巻物があります。
”熈代勝覧(きだいしょうらん)”です。
この意味は、「熈(かがやける)御代の勝(すぐれた)景観」という意味です。
横の長さが1232.2cm 約12mです。 縦43.7cm じぇ、じぇです。
伊能忠敬が蝦夷の測量に初めて行った寛政12年(1800年)、その頃(正確には)文化2年(1805年)
に江戸日本橋から、神田今川橋までの間およそ790mの問屋街を描いた巻物です。
これは、最近1999年にドイツで所在が見つかりました。
まず、描かれた場所ですが江戸の地図で示します。
(この地図は1850年頃の尾張屋版切絵図をもとにしています。)
地図の真ん中辺、左に日本橋がありその道を右に地図の端まで行くと今川橋があります。
通りの名前を見ると、日本橋 → 室町一丁目 → 同二丁目 → 同三丁目 → 十件店本石町二丁目と三丁目 → 今川橋 となっています。
ちなみに現代の地図では、
こんな感じです。 地名もほとんど変わってないですね。 (住んでる皆さんの努力でしょう。)
さて、前書きが長くなりましたが
まづ、日本橋の辺りをみてみますと
橋の上の方に、世界遺産に認定された、富士山が見えます。
確かに、この絵の方向でに見えますね。
そして、橋を右側に下ると先ほど説明した室町一丁目に入ります。
室町一丁目の続きを拡大したのが、次の絵です。
橋の上もそうでしたが、橋の下の町の通りは、人でごった返しています。
まさに、お江戸。 今の東京秋葉原あたりの人の混雑と変わりません。
そして、最後は今川橋の状況です。
こちらになるとさすがに、人通りも少なくなっていています。
最初に掲げた巻物の、最初と最後の部分だけをご覧いただきました。
花のお江戸とわれますが、これだけの人波はあったのかもしれませんね。
しかし、
もっと驚くのは、この絵の具体的な事です。
最初の日本橋の絵の左側、高札がかかっています。
この高札もちゃんと意味のあるものです。
拡大すると
高札は7枚ありますが、内容は3つです。
高札1 屋根の外の2枚にかかれている文 正徳元年(1711年)5月
江戸の市民生活に関する注意書き
高札2 屋根の中にある右3枚 正徳元年(1711年)5月
切支丹信者を通報したものへの報奨金ほか
高札3 屋根の中にある左2枚 享保六年(1721年)2月
鉄砲で鳥を取ったものを通報した者への報奨金
このように、実際の江戸の生活を模写しており、細かく見てみれば、非常に面白い内容です。
この絵巻物が描かれたのが文化二年(1805年)ですから、高札の文面からすると80年以上も経っていたことになりますね。
御上の高札の内容を扱うのは注意が必要で、時代が掛かった物にしなければいけなかったんでしょうね。
興味のある方は、是非 こちらの ”熈代勝覧(きだいしょうらん)” のHPを訪問してみてく
ださい。
(こちらのHPを参考にさせていただきました。)






