「伊能忠敬を知る」 (その3)です。
今日のテーマは 50歳で隠居。
江戸で高橋至時(たかはしよしとき)の弟子となる。です。
忠敬は、伊能家の家業が順調に発展していた、
寛政6年(1794)12月 50歳の時に 息子の景敬に譲り隠居。
翌年 寛政7年5月 江戸深川黒江町に住みます。
伊能家としては、上総佐原から江戸へ出店し、酒、マキ、米などを売っていましたがその江戸での拠点がこの黒江町付近にあったようです。
又、この年、幕府の天文方として大阪より、高橋至時、間重富(はざましげとみ)が着任。
幕府は、1755年から採用していた宝暦甲戌暦を改暦することを考えていました。
その為に、この二人の登用を決定。
高橋至時は、忠敬より19歳下の31歳でしたが、西洋流の暦学者として有名でした。
そして、寛政9年(1797)新しい寛政暦を作ります。
ただ、残念なことに文化元年(1804)40歳の若さで肺病で亡くなります。
忠敬は、佐原で家業に励むかたわら、すでに、天体観測や、暦について興味を持ち専門書や、天体観測機材を購入し習得に励んでいました。
江戸に出た時期も、高橋至時が大阪から着任するの情報が入っていたんでしょうね。それに合わせたんではないでしょうか。(私見)
彼のところに入門し弟子となった、忠敬は、彼から暦学、数学、測地法を学びました。
19歳も年の違う若い先生ですが、歳がいくら違っても教えを乞うという忠敬の態度は見習うものがあります。
彼(高橋至時)との出会いが、これからの忠敬の第二の人生を決定することになります。
さて、高橋至時に師事することになりますが、忠敬は
「子午線1度の距離を知りたい。」 と考えます。
地球大きさを知ることにより 暦を作る上で地球と月の距離も求められる。
自分の隠宅と天文所の緯度差から、その距離を求めると子午線1度の長さがわかると考えました。
↓地図は安政の頃の江戸深川の地図
緯度 北緯 35°34’ 22”
経度 東経 139°55’ 51”
(グーグルの位置で)
↑隠宅は地図上下の赤○の位置
(縮尺1/2000)
→ 現在の門前仲町1丁目-18辺り
(1/8000)
↓地図 上に同じく浅草御蔵前の地図
緯度 北緯 35°41’ 51”
経度 東経 139°47’ 26”
↑地図上中央赤○の位置
(縮尺1/2000)
→ 現在の浅草橋3丁目19,21,22,23,24辺り
(1/8000)
忠敬作図の黒江町~浅草司天台までの測量図があります。
それによると、隠宅から始まる黒線と赤文字は、文字の向きが司天台向きです。(彼の測量図上)
ルートとしては、
「隠宅から黒江橋、富岡橋を渡り、仙台掘に架かる海部橋を渡る。
霊厳寺を右に真っ直ぐ進む。
小名木川を渡り、堅川に架かる二つ目橋を渡って左に折れる。
そのまま進み、両国橋を超えて、両国広小路に入る。
神田川に架かる柳橋を渡り、下平右衛門町を右に曲がり御米蔵の前の司天台まで向かう。」
復路は、司天台から始まる赤線と黒文字で書かれています。
「司天台から駒形堂前を通り、風雷神門を右に曲がる。
大川橋を渡りすぐ右に。 そのまま真っ直ぐ堅川の一つ目橋まで。
一つ目橋からは、往路と同じ。」
※ルート地図は、文化元年(1804)頃の地図(江戸東京博物館から入手)
もし、江戸の古地図をお持ちなら是非たどってみてください。
私の推測 「子午線1度と地球の関係」
・・・・・・・・・・・・たぶんこんなふうに求めるのでしょう。
無い知恵で、考えました。
今日は、ここまでにしましょうか。
参考文献:伊能忠敬研究会 編 「忠敬と伊能図」
江戸東京博物館発行 「忠敬歩測練習の道 鳥瞰図」
「伊能忠敬の道」発掘調査隊編 「伊能忠敬を歩く」
佐久間 達夫 「伊能測量隊 子午線1度の長さの測定」



