小中高大、就職まではいずれも昭和だった。小学校時代(昭和41年ー47年)、中学校時代(昭和47年ー昭和50年)、高校時代(昭和50年ー昭和53年)、大学・学部時代(昭和53年ー昭和57年)、大学大学院時代(昭和57年ー昭和62年)となり、学術振興会特別研究員(昭和62年ー昭和63年)を経て、その後、このブログでも断片的に書いてきた私のキャリアが昭和63年から続くのだが、大学院時代は、昭和57年ー昭和63年は某医歯薬系予備校講師、昭和60年ー昭和62年は、某超進学校の常勤講師をやっていた。今回は半世紀以上前の小学校時代について書こうと思う。

入学卒業は、東京23区内の区立小学校である。校歌作曲があの古関裕而であることは割と最近知った。小学校は、当時の自宅から少し遠く、徒歩20分くらいのところにあった。朝は集団登校であったが、帰りはそうではなかったので、一人で帰ることが多かった。ちなみに私は低学年の頃は欠席日数が年間60日もあったが、これば別に学校が嫌だったりいじめられていたわけではない。帰りの通学路で頻繁に遭遇したのが、捨て犬、捨て猫だ。原っぱに段ボール箱が置いてあったら、その中に子犬や子猫が捨てられているような時代だった。そのまま見捨てて通り過ぎるという選択肢は私にはなかったから、下校時は一人ということもあり、二匹以上見つけた場合は家に連れて帰るのも大変である。そこで考えたのが教科書その他の教材を教室の机の中に詰め込んで、ランドセルを空にすることだった。子犬、子猫を拾った場合、ランドセルに入れて帰宅するのだ。これは大いに効果を発揮したが、その一方で、担任の女性教師を怒らせるには十分以上であったようだ。今でもよく覚えているが、1年生の時だ。いつも通り、空のランドセルで帰ろうとしたら、担任のH先生が鬼の形相で教室前で立っており、下駄箱に向かう私に向かってこちらにこいというので、その通りにしたら、いきなり耳を引っ張られて(結構痛かったのを覚えている)自分の机のところまで連れていかれ、そして、机の中の教科書などを全てランドセルに詰め込んで帰らされたこともあった。その日は幸いにも捨て犬、捨て猫に遭遇しなかった。

ここまで書いて不思議に思われた方がいるかもしれない。まず、なぜ、そんなに欠席が多かったのかだが、これは完全に親の責任である。両親共働きで、帰宅が二人揃って午後9時を過ぎることがあり、それから夕飯、テレビだから夜遅くまで起きていることになり、朝は当然ながら子供の私は起きることができない。父親は建築関係、母親は化粧品のセールスをしていたが、父親は朝早く現場に向かい、母親が起き出すのは始業時間の8時15分を過ぎているから、ほとんど阿吽の呼吸で、私が行きたいくないといえば、その願いが簡単に通ってしまうのだ。私は学校でのテストの点数はほとんど満点か90点以上かつ、背も高く運動能力もそれなりにあったので、両親も通学しなくても十分だろうくらいに思っていた節はあったようだった。ちなみに、成績はというと、4年生までは普段の生活態度もあってか担任教師は敵であり、5段階でオール2くらいだったと思う。同級生のテストの点は私よりはるかに悪いのに、通信簿の成績は彼らの方がはるかに良かったのを不思議に思ったこともあった。

二つ目は、下校時に捨て犬、捨て猫を拾って家に持ち帰ってどうしたかということ。もともと、白いスピッツを飼っていたが、父親、母親とも帰宅して私が拾ってきた子犬や子猫を見つけたら開口一番は、元のところに戻してこいだが、私は親のいうことは何でも聴く、犬猫の世話もするから飼い主が見つかるまで家に置いてくれ、と懇願するのだ。父親が建築関係で良かったのは、こういう時にすぐに伝手を頼って新たな飼い主を見つけてくれることだ。もっとも、私が頻繁に拾って帰るものだから、我が家は常に子犬、子猫で溢れていた。住んでいたのは、6畳一間に小さな台所がある風呂無しの狭い借家だったが、一軒家であり、庭がとても広かったので、そういうことが可能だった。一時、犬猫合わせて13匹いたこともあった。

と、この調子で6年生まで書いたら、相当な長さになりそうなので、少しまとめる方向に入る。私の趣味は長距離散歩で、徘徊するのは主に都内だが、遠く、神奈川、埼玉、千葉、茨城まで遠征することもある。実は、川沿いを歩くようにし、小学校低学年時代のような捨て犬、捨て猫との遭遇を待っているのだ。これには訳がある。11年前の私の誕生日に18年半の生涯を終えて天国に旅立った愛犬モモは最期の1ヶ月ほどは寝たきりになり、世話も大変だったが、モモも辛かったに違いない。早く楽にしてあげたいという気持ちもあり、静かに息を引き取った時は、涙も出たが、ホッとした気持ちもあった。だから、もうペットは、私自身の年齢を考えると飼うことはないかなと思ったのだが、通勤時に散歩中の犬や、徘徊する猫を見ると、幼少の頃を思い出すのか、何ともいえない情感が湧いてくるのだ。そこで、次にペットを飼う場合は以下のように決めたのだ。つまり、偶然の出会い。ペットショップでの購入でもなく、保護された犬猫でもなく、昔のように捨てられた犬と猫との出会であれば保護しないと命に関わるから是非もないだろうということだ。この話をこれまで何人かにしたら、次にいつ利根川を歩くのかとか聞かれるが、途中の河川敷に子犬を置いておくという意図らしいが、そういうことではないのだ。モモの最晩年は上述したように寝たきりであり、旅立つ二日前に抱き抱えながら一緒に浴槽に入ったときは、身体中にできた腫瘍でゴツゴツとしていたが、とても気持ちよさそうにしていたものだ。やはり、しっかりと面倒をみるという覚悟もいるのだ。

モモがお星様になって今年の8月で11年が経つ。流れ星になって、また地上に降りてくるのはいつのことだろうか。