3月7日(土)に出身高校の閉校記念行事に参加したことはこのブログでも書いた。

教育実習以来の45年ぶりの校舎内の景色は昔のままだった。体育館は、3年生の時に完成したのだが、体育教師が大事にするあまり使用した記憶がなく、初訪問のような感覚だった。

母校は自宅から近いところだったが、志望校ではなかった。第一志望は不合格となり、二次募集を受験して入学した、偏差値40程度の普通科新設高校だった。進学校から着任した教師は、学習意欲の低い生徒にサジを投げるようなところだった。そうした高校に通学することに劣等感がなかったわけではないが、受験に失敗したのは事実で、それは勉強が足りなかったためなのと、ダントツのビリの学校だったので、かえって諦めもついた。同様に志望校に不合格になり二次募集で入学した同級生も相当数いたが、自転車通学だった私は帰宅部に入ったこともあり、電車通学や部活動の同級生とつるむことなく、いつも一人で過ごした。周りからは休み時間も勉強するガリ勉で通っていた。常に一番の成績を上げて、そして国立大学に絶対に合格するのだと頑張った3年間だった。母校の周りにはマラソンコースが複数設定されており、雨が降ろうが槍が降ろうがとにかく走らされた。同級生の多くが喫煙を始め、走るのが辛くなったと言っていたが、幼少の頃より紫煙が嫌いだった私には無縁のことだった。全教科平均は最高で10段階の9.5、一年次だけ実施された校内学力テストも一番、学級委員としてクラスをまとめ、成績の悪い同級生には頼まれれば定期テスト当日の早朝に個別に傾向と対策を教えていたから、周りからは一目置かれる存在であったと思う。それでも旺文社や代ゼミの全国模試での成績は悪くはなかったものの、上には上がいたので、学校の勉強のほかに春休み、夏休み、冬休みは都内の代ゼミ、3年次は駿台予備校に通ったものだ。当時の山手線は初乗り30円だった。

高校からは某国立大の推薦入試を勧められたが、それを断り一般入試に挑戦した。実力で勝負したかったからだが、今思えば、無謀であったかもしれない。現役で合格、大学院に進学して博士号を取得後に通産省の国立研究所に就職し、6年前に文科省の国立研究所で定年を迎え、それ以来、民間会社で働いている。一見すると順風満帆のようだが、実際はロードオブザリングのような人生であった。世の中、甘くはない。

高校時代に話を戻すと、私のクラスでは1年次で数人の落伍者が出たが、Sは自主退学だった。1年次の秋、Sの不登校の相談で年老いた母親が学校に来た際に聞いた話では、Sは有名大学への進学を希望しており、今の高校では合格できないので、来年高校を受験し直すとのことだった。Sも私と同じ二次募集で入学したのだった。Sの不登校が1ヶ月ほど続いた後、私を含めた同級生7人でSの自宅を訪問し、真意を聴いた事があった。母親に促されて自宅から出てきたSは、このままでは到底大学には進学できないのでやめるつもりだと言う。我々の高校に通うのは恥ずかしいようなことも言ったのだが、言い方がある。訪問した同級生の中にいた短気なKは、なんとSに手を出してしまったのだ。即座に自宅に戻ろうとするSをとりなして、その場でKに謝罪させ、そして「とにかく、Sが思う以上にクラスでは心配しているのだから、明日、登校して自分の考えをはっきりと言え」と言って帰した。翌日Sは登校してきたが、朝礼で教壇の前に立ち、その前日に自宅前で我々に言った同じことを話し、最後に頭を下げてそのまま教室を出てしまった。翌年、Sは全日制では県下一の高校の定時制に入学したそうだが、それを知った時は複雑な思いをしたものだ。

このブログはタイトルを決めたら一気に書くようにしているが、毎回志半ばで終わってしまう傾向があり、今回も2000字まであと少しとなってしまった。書いておきたいことがもっとあるのだが、別の機会としよう。高校時代は50年前のことだが、高校所在と同じ市にあった実家も今は無く、高校建屋も取り壊される。歳月とはそう言うものなのだろう。

 

ところで、先の土曜日にホームコースでプレーした。前半が44。パーがなく、ダボとバーディーが一つずつであとは全てボギーだった。バックナインもボギーペースで進行し、ゴルフプレー再開後初めて90を切れると思ったのだが、4ホール目のミドルホールでスコアカウントを放棄せざるを得なかった。セカンドでグリーン右のラフに行ったボールがなんとしても見つからないのである。打ち直すにも後続が既にティーショットを打ち終えて待機していたので、ルールに沿ったプレー継続は諦めた。全体の調子は悪くなかった。全てが噛み合えばスコアが期待できる予感を得たラウンドだった。もっとも、私は今、大病からのリハビリの最中である。青空の下、ゴルフを楽しめることを素直に喜びたい。

 

 

八王子市街にも1mの成獣が出没したと言うから、地元の方の気苦労は大変なものだろう。

40年以上前の院生時代のこと、北海道の現地調査に参加する際、ヒグマに関する情報について事前にレクチャーを受けた。至極単純な内容で、熊も人間が怖いのだから鉢合わせにならないように腰に鈴をつけたりして存在を知らせれば特に恐れることもないと言うことと、子連れの熊は子を守るために襲ってくることがあるので足跡には要注意なのと、不幸にも鉢合わせになっても慌てずに背中を向けて逃げたりせねば大丈夫と言うものだった。その後、実際のヒグマを見たことがなかったので、大学近くの動物園に行って確認したが、ツキノワグマは勝てそうな気がしたが、ヒグマとは絶対に戦ってはいけないということがよくわかった。最近になって、ツキノワグマも同様に成獣とは戦ってはならないという認識を得たが、これまで幸いにも野生の熊と遭遇することはなかった。

熊の出没情報をニュースで見る限りは、熊の行動パターンが変わってきたのか、これまで報道されてこなかっただけなのか、判然としない。人里どころか都市部にも出没し、自宅の中にまで堂々入ってくると言うのだから、その地域に居住する人々はおいそれと散歩にもいけないような状況なのは早急な対策が必須だろう。ニュースを見る限りは、人里に出没した熊は麻酔銃で捕獲後に駆除というのが大半のようで、特に子連れの場合は子熊まで駆除されてしまうのは、あまりにも哀れだが、危険に晒されている方々のことを思えば、それは一時の感傷でしかないことは明らかだ。

専門家はどのように最近の事態を考えているのだろうか。上述したように、人間を恐れない熊の個体が増えたのか、そうだとしたらその理由は何なのかを明確にすれば対策ができるのではないかと思うのだが、どうなのだろう。人間を恐れない熊というのは、熊としては人間は怖いのだが、それでも人里に出没せねばならないということもこの範疇に入れて良いと考える。給餌行動のためであろうが、だとしたら、そうした状況になってしまう理由は何なのかなど、色々な観点で考えることができるのではないかと思うのだ。私の素人考えを書いても詮無いことなのでやめるが、専門家を交えたそのような取り組みは既に始まっているのだろうが、その進捗を含めた確実な情報をもっと共有することはできないのだろうか。あるいは地元では既にそうした取り組みはあり、私が知らないだけかもしれないが、それでも現況をもっと共有するようなことがあっても良いのではないかと思うのだ。熊を駆除した場合、当該行政機関には苦情が殺到するという。この行為は理解はできる。だが、私には同意できない。そう言うことではないのだ。

 

ここまで書いて思った。海外生活もそれなりに長く、そして外国人との折衝も数多くこなしてきた私が時折感じるのは、上述の「理解」と「同意」の使い回しだ。I understand, but I don't agree.ということが言えない方が日本人には多いような気がする。相手の言うことを理解できても、諸々考慮すれば同意は出来ないなんてことは至極当然のことなのだが、この当たり前のことを共有していないようで、議論をしていて前提にできないことが少なからずあり、困ってしまうのだ。上記の熊のことで言うと、私はクマの駆除については、理解はできるが、同意は出来ない。だからと言って熊が可哀想だとの苦情電話を行政機関にはしない。同意できないだけで思考を停止するよりは、それではどうしたら良いのかと言うことに思考を向けたい。当該地域には専門家を交えた取り組みがあるはずだ。その内容を遍く知れ渡り、議論が進み、より多くの知恵が結集すれば、少しでも解決に繋がると期待したいのだが、どうだろうか。

 

話題は変わるが、私のホームコースは霞ヶ浦南湖畔にあり、野生哺乳類としてはこれまでウサギ、イタチ、タヌキ、アライグマ、ハクビシン、モグラ、そしてコウモリを目撃したことがある。イノシシと思われる足跡はバンカー内で頻繁に見かけてきたが、実物と遭遇したことはない。サルはいないだろうし、キツネはいると思うが、痕跡を見たことがない。クマの生息などはあり得ないのだろう。有害な生物は、昆虫と爬虫類だと思うが、蚊、蜂、虻などはどこにでもいるし、コース内でマムシを見たことはない。つまり、プレー環境は安全なようだ。もっとも、スコアの方は最近は今一つである。先の日曜日は50,46の96だったのだが、ショートで9を叩いたり、ミドルでトリプルボギーが3つもあり、この4ホールだけで15オーバーで、さらにダボも二つあったりするから、ホール毎の浮き沈みは相当なラウンドになってしまった。唯一の救いは、10.8フィートの比較的高速なグリーンが合ったことだが、これも次のラウンドではどうなるかわからない。そんなものだ。

 

 

 

 

昨日の連休最終日に5万3千歩以上歩いてしまった。心筋梗塞の発作後、多くても一日3万歩程度を限度にする長距離散歩は守ってきたのに、昨日は大幅に超えてしまったのだ。理由は単純で、道を間違えたのである。私が長距離散歩中に道を間違えるとしたら、住宅街などの行き止まりで引き返すくらいなのだが、昨日は違った。基本、私は太陽の位置と時刻によって方角を推定するのだが、昨日は終日曇りで太陽が見えなかったのだ。もちろん、スマフォで確認できるのだが、画面の見方を間違え、見事に本来とは逆の方向に歩いてしまったのだ。道に出てきた道路標識にあってはならない逆方向の地名があるのを見て過ちに気付いた時は、絶望感に浸る時間はそれほどなかった。その時点で既にかなり歩いており、2万歩をはるかに超えていることは明白だったからだ。瞬時の思案後に取った行動は、一番屈辱的な来た道を戻ることだった。晴天でないので、再度間違える可能性を考えたからだ。目的地も本来の場所の遥か手前にしたのだが、それでも結局、終日歩く羽目になった次第。

もう少し詳しく書こう。まず、大岡山駅まで電車で行き、そこから歩行を始めた。中原街道まで下り、丸子橋で多摩川を渡ってから綱島街道に入り、綱島駅のところで鶴見川の堤防道路を上流に向かい、支流の早渕川河口からひたすらこの川の水源地を目指したのだ。自宅を出るのが少し遅くなったのもいけなかった。ラーメンランチは水源にほど近い八戒という中華屋に決めていたのだが、田園都市線あざみ野駅に到達時点で12時半になってしまい、八戒まではそこからまだ30分以上あったので、駅近くのラーメン屋に入ってしまったのだ。誤算だったのは、そこでのランチ休憩で醤油豚骨味のネギラーメンを無料ライスと一緒に食したらなんだか元気になってしまったことだ。歩数を考えたらあざみ野駅から電車で帰宅せねばならず、そのことは頭をよぎったのだが、せっかく来たのだから水源地まで足を運んでみようと思ってしまったのだ。そして水源地(=八戒)に到着したのが午後1時半で、そこから田園都市線方向に戻り、どこかの駅に出たらそこから電車で帰ろうと思ったのだが、そこで道を間違えた。結論から書くと、たまプラーザ付近をかすって、鷺沼駅の至近まで行ったのだが、そこから紆余曲折後に梶が谷駅にようやく行き着いたのだ。だが、この駅でなぜか電車に乗る気がせずに隣の溝口駅まで行ってしまったのだった。これだけ歩けば、冒頭の歩数にはなるのである。

帰宅後、すぐに風呂に入り体の状況を調べたのだが、多少の疲れはあったものの、足も痛くないし、基本、なんともない。翌日、つまり本日の寝起きにも筋肉や関節などの痛みは皆無だった。原因として考えられるのが、月星のウォーキングシューズのインナーソールを新品に変えたことと、最近買い求めたモンベルのトレッキングソックスを着用したことだ。足取りが軽く、五万歩以上歩いても最後まで軽快そのものだった。心配なのは心臓の具合だが、今のところは何も症状は起こっていない。昨日は終日どんよりとした空模様だったが、紫外線の直撃を避けることができ、気温も程よく低く、その点も良かったのかもしれない。

とはいえ、医師から無理はしないようにキツく言われていたにも拘らずのことだから、大いに反省もしたのだ。私の場合の心筋梗塞はカテーテル手術の結果、冠動脈閉塞・硬化が見られないという少数派のものだったが、なんらかの原因で虚血発作が生じ、重度の心不全から多臓器不全を合併したのは紛れも無い事実なのだ。現在は5種類の薬を処方されて現状を保っているものの、言い換えれば、その薬がなかったら、体調を保てない体でもあるのだ。薬は本来は体に毒だ。その毒がないと平常を保てないという、現実をしっかりと見なければいけないのだ。

今日は終日本社での就業だったが、明日は外勤をせねばならないこともあり、長距離散歩ほどではないが、1万歩は軽く超えるだろう。一度に5万歩以上も歩くなんてことは金輪際やめて、毎日少しずつでも歩数を伸ばすようにするのが正解なのだ。

今週末は土曜日が散歩の日だ。どこを歩こうかな。

ところで、先週水曜日からのリハビリを兼ねた湯治は大変心地よかった。ゴルフ場併設の施設だったので、練習もかなりまとめてできた。先月購入したシャフトがクネクネするドライバーも最初はうまくヘッドに当たらなかったが、割とすぐに芯を食って距離も出るようになった。正直に言うと、エースドライバーのピン440MAX(シャフトはツアー2.0 クローム65)より距離は遥かに落ちるが方向性が良いのだ。これは非常にヤバい状況だ。今度の日曜日はホームコースでラウンドだが、さて、どのようなことになってしまうのか。もっとも、気持ちはどちらかというと、プレー終了後のサウナにあったりするので、上手くいかねば笑って散歩だ。

 

これまで所有したバイク(自動二輪)について書きます。院生時代、都内移動のためバイクに乗り始めた。自動車免許しか保持していなかったので、購入したのはKawasaki AR50という原付バイクだった。メリハリをつけて走りたいと思いマニュアル式にした。この選択が後に私を本格的なライダーにした。原付とはいえ、スロットル操作で風を切る感覚にハマった。研究室(文京区)から講師をしていた予備校(四谷と市ヶ谷の間の)移動にはこの上なく便利なので重宝したものだ。だが、このAR50ではすぐにもの足りなくなってしまい、教習所で中型免許を取得し、中古でHondaのVT250F を購入した。それまでの原付と比較にならないくらいの加速にさらにハマり、すぐに目指したのがナナハン以上の大型自動二輪だった。

当時の大型自動二輪の免許は、今のように教習所で取得する制度はなく、警察署の試験場での技能試験に合格するしか方法がなかったのだが、合格率が2%程度の難関だった。100人以上受験しても一人も合格しないなんてこともざらで、10回、20回受験してもダメなんていうのも割と普通であることがわかり、かなり気合を入れて準備したものだった。具体的には、大学構内駐車場で白線を一本橋や狭路に見立てての夜間練習だ。使用したバイクは、上記のVT250Fだったが、練馬の都民自動車教習所でHonda CB750を借りての練習もしたものだ。そして鮫洲試験場で受験したのだが、最初の受験で課題走行(狭路、スラローム、一本橋など)をクリヤーするなんて思いもしなかったので、その後の法定走行のコースはうろ覚えで行ったのだが、なんとそのまさかで試験官は法定走行に行けと合図するではないか。だが、2コースのうち、その日に指定されたコースともう一つのコースを混同してしまい、少し走ったところで道端にバイクを停めてコースを確認しようと手を挙げたら、戻れという指示があり、従ったところ、「コースくらい覚えてこい」と言われて不合格になってしまったのだ。

大いに反省し、二度目はしっかりとコースを覚えて臨んだ。余裕で出発点に戻り試験を終えたが、試験官は合格とは言わず、「待合室で待っていてください」としか言わない。その意味するところはその日も100名以上いた一同共有しており、拍手が起こったのだった。

自動二輪免許の限定解除取得後、貯めた資金で購入したのが、映画「トップガン」でトム・クルーズが乗っていたNinjaと呼ばれた逆輸入のKawasakiGPZ900R だった。大学から近い本郷通り沿いの佐藤モータースでの値段交渉はタフであったが、それでもVT250F を下取りに出して何とか店側と合意に達し、晴れて逆輸入車のライダーとなったのだ。ちなみに、トップガンを見たのは、この大型バイクを手に入れたかなり後のことで、真似をしたわけではない。

Ninja900との時間は、北海道のツーリングはしたものの、それほど長くなかった。白山下の交差点を青信号で普通に通過していたら、信号無視の車が突っ込んできて、バイクは大破してしまったのだ。私は数十メートル空中に投げ出されて打撲を負ったものの、大事に至らなかったのは幸いであった。加害者からは全損バイクの補償プラスαが支払われたのだが、その資金で購入したのが、発売されたばかりのNinja900の後継車種であるKawasakiGPZ1000RX だった。佐藤モータースのオヤジには、買うしかないでしょう、と唆され、周りからは当たり屋と蔑まれながらも手に入れた最新のバイクだった。北海道、長野、伊豆半島などのツーリングでは大活躍だったが、都内の渋滞時の乗り回しは重量もあり、ちょっと辛かったので、普段のサンダルとして導入したのが、オフロードタイプのYamahaDT200R の中古だった。このブログは一つの記事は2000字までと決めているので、少し端折ると、その後、オフロード、オンロードのデュアルモード用のHondaトランザルプ600V も手に入れ、一時は3台を所有するなんて事態になってしまった。だが、南半球洋上での数ヶ月にわたる研究調査を前に、その時は忙しくあまり使用できていないこともあり、全てを手放してしまった。この時、飼い猫を三味線屋に売るようなそんな気分になったものだった。その後、米国州立大学での教員時代に普段の足として購入したのが、1973年製のKawasaki Z1 900だったが、34年前の帰国時に手放したので、これが現段階での最後のバイクとなっている。 

不惑になったらハーレーと漠然と考えていたが、果たせず、前期高齢者になった今更バイクでもないかもしれないが、思いは依然として私の中には厳然とある。

 

明日から、6連泊でゴルフも交えた湯治予定。滞在中の天気予報は今ひとつのようだが、のんびり湯に浸かって養生することにします。

 

勤務先会社は今週からクールビズとなった。例年は5月からなので、少し早いが、期間も9月下旬から10月下旬までとなったので、暑がりの私にとってはありがたい限りだ。この週末に衣替えの整理をしようと思う。ついでにフローリングのワックスがけもやるかな。床がピカピカだとなんか嬉しいのだ。

もうすぐ心筋梗塞の発作を起こしてから半年となるが、体調の方は日本の集中治療室を退院した昨年11月初旬以来、基本、問題はないというか、自覚症状もなく普通だ。発作前と明確に違うことは、走らなくなったことだ。こればかりは、怖くてできない。たとえ、電車のベルが鳴っても、目の前でドアが閉まるのを潔しとするようになった。

重度の心不全から合併した多臓器不全も腎臓の値を除いては早期に回復した。腎臓だけは、当初の水分摂取制限なども影響してか、すぐには戻らず、しかしながら、徐々にではあるが、改善傾向にある。具体的にはeGFRは24から33になり、尿酸値も9.0から6.4になった。ちなみに尿蛋白はこれまで検出されたことはない。回復傾向とはいえ、腎機能は依然として低く、油断は禁物だ。腎臓には散歩の効能もあるそうなので、長距離を歩くのが趣味の私には好都合だ。発作後は、2万歩を目安にしており、以前のように4万歩、5万歩歩くことはなくなり、恒例の年末山手線一周徒歩は昨年はしなかったが、これはできれば再開したいものだ。

心筋梗塞の5年生存率は50%未満とのことだが、予後はかなり個人差があるらしい。心不全の方なら見たことがあると思うが、増悪を繰り返し、徐々に心機能が下がる図も必ずしも典型的とはいえないようだ。つまり、品行方正にしていれば良いこともあるそうだ。

服薬:現在は朝夕1種、朝のみ4種、の5種類を処方されているが、これを欠かしてはいけない。ただ、薬は本来は体にとって毒ということもあるので、なるべく種類を減らすことも必要だが、私は通院の度に医師には薬を減らしてくれと訴えてきた。当初10種が半減したことになる。

食事制限:正直にいうと、塩分摂取は度を越さなければ体に悪いとは思えないのだが、家族の協力を得て1日6gを守っている。はっきり言って味は薄いなんてものじゃないが、最近は慣れきたのか、素材の味を楽しむ余裕も出てきた。さらにいうと、それでも食欲は増進せず、結果として体重は減少するという効果もあった。それでも、外勤時などで外食する時は基本、好きなもの(例えばラーメン)を食べるようにしている。日頃のご褒美だ。ただし、スープは心を鬼にして飲まない。

禁煙・節酒:禁煙はどの本を見ても絶対のようだが、幸運なことに喫煙したことのない私には全く関係がない。しかし、節酒に関しては、毎日2合程度は良いようだが、自分を律する意味もあり、晩酌をやめた。毎日の習慣だったから当初は少し辛かったが、これも今は慣れた。職場の飲み会、週末祝日のみ飲むというルールを守っている。その意味では来週からの連休が楽しみだ。

リハビリ:心臓にも腎臓にも運動は効果があるとのことで、特にウォーキングが良いというから、上述したように長距離散歩が趣味の私にはうってつけだ。もっとも、歩行中の水分補給と熱中症には、特にこれからは気をつけないといけない。

その他に、絶対に無理をしないという誓いもあり、これも守ってはいるが、時差のある海外出張だけは特に注意しないといけない。9月下旬に北米西海岸での学会のために出張せねばならないのだが、医師からはダメ出しは出ていないが、服薬の仕方なども含め、指示を仰ぐのみなのだろう。

半年前の北米出張中に発作を起こして現地で救急車でCCUに運ばれた際は意識は明晰であったので、その後のことも含め全て鮮明に覚えているが、このブログでも書いたが、そのようなことが自分に起こるとは全く予想していなかった。というのも、昨年夏は一か月の離島調査に従事するために、頭部MRI、全身CTなど徹底的に身体検査をしたからだ。若干、留意すべき数値もでたが、問診の医師によると年齢によるものもあるとのことで、特に服薬などの指導は受けなかったこともある。事実、現地病院のCCUで実施されたカテーテル検査では冠動脈の閉塞、硬化は見られず、心筋梗塞の原因は不明とされ、可能性としては離日三日前のコロナワクチン摂取があるとのことだが、わからずじまいだ。日本で収容されたCCUでは原因を突き止める検査として再度カテーテルを挿入し、心臓内で電気的な刺激を与えると言うので、これは丁重にお断りしたものだ。典型的な動脈閉塞の心筋梗塞の方がよほどやりやすいと日本のCCUの担当医は言ったが、気持ちはわかるが、もっと前向きなことを言って欲しかった。

 

もう一つの趣味のゴルフは、今年になって再開したが、90が切れない。連休中は、新しく買ったドライバー練習クラブで飛距離向上を図るつもりだ。

 

 

私用(&たまに限られた仕事)で使うMacBookの最廉価版を先月下旬に購入した。以前も書いたが、会社はウィンドーズしか対応していないこともあり、Mac歴40年の私には会社のPCは使いにくいことこの上なく、これまで出勤申請などで最低限しか使用してこなかったのだが、そうもいかなくなったのだ。前勤務先より支給されていたMacBook Proの最上級機種は、3月一杯でアドバイザーの職を辞すことから返却することに伴い、会社で新たに同等のMacBook Proを購入することになったのだが、諸般の事情で断念せざるを得ず(予算ではない)、基本、仕事はwindowsPCとなったのだ。それでも使い馴染んだMacから完全に離れる事はできず、私用で使う分にはハイスペックのものは不要なので、3月中旬に発売されたばかりの最廉価版を近所の家電販売店で購入したのだ。

本当はTouch IDがついているストレージが倍(と言っても512GB)のものを買うつもりだったのだが、在庫がなく入荷も結構待たされそうだったので、結果として一番安いものになったのだ。これまでの使い心地で良い点と悪い点を書くと以下のようになる。

 

悪い点:モニターが13インチなので、それまでの16インチに比べると有意に小さく、前期高齢者には優しくないことがまず挙げられる。もっとも、若い方にとっては、この点はあまり影響がないかもしれない。ポートがUSB-Cが二つにヘッドフォンジャックしかないのも割り切っているが、便利とは言えない。スピーカーの音が割れているのは仕方ないかな。

良い点:メール、ネット、動画鑑賞などの使用では、痛痒感は全くないこと。重量も私がこれまで使用していたMacBook Proに比べたら非常に軽くて持ち運びが楽になった。音に関しては、イヤフォンを使えば、全く問題ないことも書いておこう。

つまり、価格を考えたら、大いにありではないかと思う。

 

文字が小さいとはいえ、いたずらにサイズを大きくしてもかえって違和感があるので、標準サイズで老眼鏡を使用することにしている。昨年12月に66歳にして老眼鏡を初めて導入した事は書いたが、文庫本を電車内で問題なく読むことができて大変重宝している。だが、恐れていた通り、老眼の度は確実に進んでいるようだ。今後は車内読書だけでなく、MacBook Neo使用の際も老眼鏡が必須となるとさらに度が進みそうだが、仕方ないか。

 

メガネと言えば、一昨日土曜日の長距離散歩の際にサングラスを落としてフレームを破損してしまった。老眼鏡を購入したチェーン店に持って行ったら、修復は不可能という。アロンアルファで接着してもすぐに使えなくなるだろうというので、ならば購入しようとしたら、UVカットのものは出来合いのものがあるが、偏光レンズのものは注文となるという。しかも値段を聞いたら、フレーム価格プラス最低8800円でしかも納入は最低一週間以上先というので、そこで買うのは断念した。ネットだともっと安いし、納期も早い事はわかっていたからだ。壊れたサングラスもネット購入で、値段は1万5千円ほどしたものだったが、これは何年か前に晩酌後のほろ酔い気分で勢いで買ったものだ。今回は、長距離散歩から帰宅してゆっくり風呂に入った後に素面で選んだが、口コミで偏光機能のしっかりとした4999円のものを選んだ。

 

9年前の4月28日に享年86歳で亡くなった母親の誕生日が、本日4月13日だった。自分の母親だが、変わった人だった。産まれてすぐに子供のいない家庭に養子に出されたが、よくある話で、その後、養父母に3人姉妹の実子が生まれ、幼少の頃から幼い姉妹の面倒をみて、教育も小学校までしか受けさせて貰えなかった。母親本人曰く、学校の成績は良かったと言うが、あながち誇張でもないようだ。私の父親は愛情豊かな人だったが、経済力はなく、その分、母親は仕事に精を出し、借地ではあったが、私が小学生4年生くらいの時に家を建てた。それまで、6畳一間風呂なしの借家だったから、生活環境はかなり変わったが、自分の部屋を与えられて一人で寝始めた当初は、なんだか寂しかったのを覚えている。ちなみに、母親の仕事は某化粧品会社のセールスウーマンで、全国一の売り上げを記録して表彰されたことが自慢だった。教育もなく、親からの援助もなく、そして夫(つまり父親)の仕事も補佐しながらのことだから、大したお方であったと思う。

 

昨年10月、その両親の元へ旅立つ寸前で俗世に引き返したが、もうしばらく待ってもらうことにした。私自身は、孫の顔を見せることもできなかった親不孝この上ない不肖の息子だが、もう少しこの世で時を過ごし、自分という人間を鍛えて、社会のためになることをしたいと願っている。何て、殊勝なことを書いておこう。

 

 

 

3月30日深夜の便で羽田を出発し、翌31日早朝に2年ぶりにクアラルンプールに到着した。

 

タクシー代(往路)

空港到着後、市内ホテルまでは荷物もあるのでタクシーで移動したが、羽田空港にて出会った前勤務先の後輩が二人いたので、彼らの経費削減のために一緒に連れて行ってあげた。彼らのホテルは私のホテルから徒歩10分のところだったので、彼らを先にホテルでおろして私のホテルという順番で行った。マレーシアのタクシーの拾い方は、アプリによる事前申し込みと空港でのタクシー乗車取扱所とふた通りがネットには出ているが、空港でのタクシー乗り場での直接交渉が前回も奏功したので、今回もそのようにした。もっとも、それでも取扱所での料金を確認したのだが、目的地は一つだけで近隣でも2カ所のホテルには行かないこと、そして何よりも料金が230RMというので即座に断り、前回と同様にタクシー乗り場に行った次第。結果を言うと、どうもきつい縛りがあるようで、タクシー乗り場でもホテル二カ所は認められないと担当の兄ちゃんは言うのだが、運転手への現金払いということで200RMと送り先二カ所で合意した。何事も根気の良い交渉が重要なのだ。ただし、相手を怒らせないようにすることが肝要だ。

 

トイレ

2年前と同じホテルに滞在したのだが、なぜか記憶が全くなかったのが不思議だが、ここはイスラムの国だけあって、立派なシャワートイレだった。日本でいう小振りのシャワーヘッドがあって、それで水を出して然るべき場所に当てて洗うのだ。日本のウォシュレットと違って、水量、水勢調整ばかりか角度なども自在にできるので、使いやすいかも知れないと思った。ちなみに、38年前に初めてウォシュレットを使ってから手放せない私は、今回、電池を入れて使用する携帯のものを持ってきたのだが、使用することはなかった。

 

タクシー代(復路)

ホテルから空港へのタクシーは、ホテルで呼んでもらった。往路と逆で、まず私のホテルにきてもらって、別のホテルに行くという順番だったが、日本人一人が増えて総勢4名となってしまった。往路は地元メーカーの安っぽいワンボックスだったが、復路はアルファードだったにもかかわらず料金は180RMだった。ホテルで呼んでもらうのが一番安くて確実なようだ。

 

アルコール飲料

イスラムの国だから、売っているところはかなり限られるし、レストランでも置いていないところが結構多いので要注意だ。レセプションに出たら、料理はそれなりだったのに、ソフトドリンクしかないものだからどうも調子が出なくて困ったものだ。ちなみに、アルコール飲料の値段は日本よりも遥かに高い印象だ。私は今回は荷物を空港カウンターで預けないこともあり、持っていかなかったが、寝酒が飲みたい人は要注意だ。まあ、羽田の免税店で買うか(クアラルンプールから航空便で別の空港に行かないという前提)、自宅から持参してスーツケースをカウンターで預ければ良いことではある。

 

街の様子

初めてのマレーシア訪問は42年前で、前回は40年ぶり2回めの訪問で、あまりの変化に言葉を失ったが、2年ぶりの今回もあちこちで高層ビルを建築していて、まだまだ発展しているようだった。かつてマレーシアは日本を見習うという意味でLook eastということを政策にして来たが、街の印象では立場が逆転したような錯覚に陥ってしまいそうだ。通勤時間帯の市内の渋滞は、日本と同程度のようだった。違っていたのは、警察官が高速道路の要所に立って交通整理をしていたことだ。少なくとも今回の出張で接した若いマレーシア人は礼儀正しく、教養も十分で、この国は今後、大いに発展するような、そんな気がした。

 

靴べら

海外で困るのは靴を履く時だ。日本と違って靴べらはないので、持参するしかない。今回も小さなものを持って来たのだが、紛失してしまった。ホテル近くのパビリオンと呼ばれる巨大なモールにある雑貨屋などを探したが、見つからない。諦めてモール内を徘徊していたら、東京ストリートというのがあるではないか。しかもそこにダイソーがあったのだ。少し抵抗はあったが、携帯用の靴べらを買い求め、ついでに日本でも入った事のないスシザンマイでざるそば、親子丼、ビールを頂いた次第。

 

肝腎の出張目的については、皆様、興味はないだろうが、勤務先も関係してくるといけないので概要だけ書くと、プレゼンテーション、パネルディスカッションともまあ、うまく運んだと思う。次回は2年後だが、多分、来ることになりそうな感じだ。ただし、持病のことがあるので、病状次第ではあるが、マレーシアのような時差が1時間しかないところは体への負担も少ないのは何よりだ。問題は9月下旬の北米出張だ。昨年のこともあるし、どうしましょう。

 

ただいま、現地時間午後1時半過ぎ。もうすぐ搭乗が始まる。帰国したら、今週末はまだ花見はできるだろうか。

 

 

前々回、少しだけ触れた黒猫クロタについて書いてみようと思う。

1990年から92年までの2年間、私は米国州立大教員だった。某省研究所研究官だったが、科学技術庁の留学制度に応募したいと思って上司に聴いたら、私のような博士の学位を持っている職員は対象ではない(留学が研修という名目のためらしい)、自助努力で滞在費を工面したら認めるとの返事。留学先は米国と決めていたので、米国の学会週刊誌に掲載されている公募情報に応募しまくった。毎週、研究所の図書館で到着したばかりの学会週刊誌を見て、応募できそうな公募情報をチェックした。詳細は省くが、西海岸や東海岸の有名な研究所は全て不合格が続いたが、応募を始めてから半年後くらいにテキサスの州立大から朗報が届いた。通知を受けてすぐに上司に報告したところ、「本当にポジションをとってきたのか」と絶句していたが、約束は守ってくれた。ただし、「2年までは認めるが、2年と1日滞在したらクビだと思え」と言われた。応募したポジションはいわゆるtenure trackだったが、大学側には2年経過したら帰国する可能性が高いことを伝えていた。離日したのは1990年8月下旬で、きっかり2年後の1992年の8月下旬に帰国した。この間は一度も帰国せずに彼の地で過ごした。

前置きが長くなった。到着した8月下旬は米国の新学期の始まる直前だったこともあり、大学街のアパートには空きがなかったが、大学から徒歩の距離にあるアパートにキャンセルがあり、そこに決まった。アパートと言っても、2階建で一棟に4世帯が入れる建物が10棟くらいで構成している大きなところだった。31歳だった私は近所の学生達と仲良くなり、彼らの実家に泊まったり、食事をご馳走になったり、家族の結婚式にも招待されるような濃密な時間を過ごしたものだ。契約の関係で9ヶ月でそこを出ねばならず、よりグレードの高いアパート群に移った。敷地内に池のある落ち着いた風情のあるところだ。リビングには暖炉があり、2ベッドルーム(&2バスルーム)にキッチンがある部屋を借りた。室内は土足厳禁にすることもあり、入居時にカーペットの新調を家主と交渉し、経費の半額を私が支払うことで合意し、それを含めた賃料は1ヶ月あたり$605だった。この10年後に私はワシントンDCに駐在することになるが、借りたアパートは1ヶ月$2500だったから、田舎町といえど、当時のテキサスというか米国は物価が安かったのだ。

このアパートで快適な生活を始めた時、窓の外に現れたのは大きな黒猫だった。入りたそうにしていたが、ほかの住人の飼い猫だと思っていたので特に何もせずにいた。しかし、数日経った夜のこと。リビングでテレビを見ていたら、その猫が窓ガラスに体当たりしてきたのだ。何事かと思って窓を開けたら、何食わぬ顔で中に入ってきて、暖炉前の大理石の床に寝転がるではないか。後日、管理事務所や隣近所から聞いてわかったことは、私の入居前の住人の猫だったらしいのだ。前々回書いたように体重7キロあまりの大きなアメリカンロングヘアーの雄猫で、色は真っ黒だったので、クロタと名付けた。クロタはその後、毎晩のように我が家を訪問し、教えたわけでもないのに、外に出たい時は、夜中だろうと窓のブラインドを引っ掻いて音を立てて合図するので、出してあげるみたいなパターンがいつの間にか定着してしまった。

数ヶ月経った秋の夜のこと。いつものようにクロタが部屋に入ってきたので、頭を撫でていたら、指を酷く噛まれたことがあった。私は怒り、すぐに追い出した。翌る日、私の帰宅する車の音を聞きつけて当たり前のように一緒に部屋に入ろうとするが、私は許さなかった。その翌る日も同様だ。だが、三日目の帰宅時、クロタは姿を見せなかった。外は土砂降りの雨だった。ようやく諦めたかと思ったものの、この雨の中、どうしているか心配になってきた。たくましい猫だから、きっとどこかの家に図々しく入り込んでくつろいでいるに違いないと思っていた所、突然、強雨が打ちつける窓ガラスがキュッキュッと鳴る。外でクロタが立ち上がって窓を引っ掻いていた。是非もない。すぐに開けてクロタを中に入れて、びしょ濡れの身体を抱きかかえてタオルで拭いた。そして数日前(噛まれる前)に準備していた猫缶を開けて与えたところものすごい勢いで食べるではないか。何となくホッとしてソファに腰掛けてテレビを見ていたら、なんとクロタが膝に乗ってきて体を預けて寝てしまったのである。今までなかった事だ。噛んでごめんなさい、もうしないから、優しくしてとでも訴えているようだった。その時からクロタは「うちの子」になったのであった。クロタのことはもっとあるので、また書きます。

本日これからマレーシアに出張です。どんな珍道中になることやら。いや、最優先は体調管理だな。

先々週、八戸に一泊二日の出張で行ったのだが、往路の東京駅で事は起きた。

出発3分前にホームに入った「はやて」車内でのこと。私の座席には既に同年輩のオヤジが座っているのである。私は自分のチケットを見せて、ここは私の席であることを示し、そのオヤジのチケットを確認するように求めたら、どうも見つからない様子。私のチケットを見せろというので、提示したところ、なんと奪い取って、これは自分が落としたチケットで、私がそれを拾ったのだというのだ。この展開は予想だにしていなかったが、私のチケットである事は明白なので、とにかくそのオヤジに自分のチケットを確認してくれと言っても、私が拾ったものを使おうとしているのだから車掌が来たら突き出すとまでいう。もう何を言ってもダメなので、近くの空いている席に荷物を置き、車掌が来たら状況を説明するしかないと腹を括った。上野に到着する少し前に思いついたのが、チケットには購入駅名が記載してあることだ。そこで、そのオヤジにチケットはどこで購入したか聞いたら、池袋だという。私が購入したのは違う駅なので、チケットを確認するように言ったら、見ていたオヤジは石化してしまった。当然ながら池袋なんて印字されていないからだろう。観察していたら、オヤジは改めて真面目に身の回りを探し始めた。その結果、なんと脱いだコートのポケットからチケットが出てきたではないか。そのチケットを見たオヤジは再度、石化してしまった。今度は私が出てきたチケットを見せるように言って確認したら、記載されていた座席番号は2列後ろだった。

オヤジは一点して平謝りだが、私は犯罪者扱いまでされたのだ。さらに呆れたのは、どこまで行くのか聞いたら仙台で八戸ではないのだ。私のチケットを奪い取った時に少なくとも自分の行き先を知っているオヤジは気づくべきで、よくみていたらこんな展開にはなっていなかったはずだ。土下座されてもおさまらないが、オヤジが平謝りするのをしばらく拝聴し、一区切りがついたところで、許すことにした。思い込みの強さ、他人を犯罪者呼ばわりする性格もどうかと思ったが、彼もこれから遠くまで出かけるのだ。旅の始まりは、彼にも、そして私にとっても少しでも良い雰囲気にしたいと思ったからだ。今後はしっかりと確認してください、と諭して放免した。オヤジはそそくさと荷物を移動し、本来の自分の席に向かい、私もようやく着席できたのは、上野を過ぎてしばらくしてからだった。オヤジは仙台で降りる時に私のところまで来て再度、丁重に詫びた。私は「良い旅を」と返したら、なんと握手を求めてきた。仕方ないから右手を出して応えたら、何となく、これでよかったのだと思えたものの、世の中、色々な人がいるのだなと改めて考えさせられた次第である。

こうして最悪のスタートだった出張だが、目的の関連機関の施設見学等、大変良い勉強になった。夜の懇親会も八戸駅前の和食居酒屋だったが、料理も熱燗もうまかった。以前のような量は飲めないというか、飲まないようにしたが、十分に堪能した。懇親会の席でカラオケの話になり、二次会に行こうとなった。居酒屋を出て駅近くのチェーンのホテルにチェックインの際に、フロントの若い男性にカラオケに行きたいが良いところはないかと聞いたら、カラオケボックスみたいなところだけど、すぐ近くの居酒屋の2階にあるという。一階の居酒屋に行ってカラオケをしたいといえば案内してくれるとのこと。二次会組の集合場所は一次会居酒屋近くの交差点にしていたが、集まったのは、私を含め4人だった。思ったより少ないが、カラオケだからちょうど良い人数だ。構成は、私以外は20代(♀)、30代(♂)、40代(♂)で前期高齢者の私からみたら子供みたいなものだ。3人とも所属は同じ機関、私の前勤務先の国立研究所時代から付き合いは深いところだ。この日が初対面だと思ったが、彼らは私のことを知っているようだった。ところでホテルのフロントで紹介してもらったカラオケボックスだが、ドリンクはセルフサービスで作る形式で、水、氷、炭酸水、そしてアルコール類は、基本、なんでもそろっていた。カラオケは4人で歌い放題で、私が先陣を切り、順番にマイクをバトンし、久しぶりにシャウトし、一同、「花は咲く」を合唱して締めた。愉快な時間だった。余程楽しかったようで、20代女性参加者からは翌日、丁寧な御礼メールをいただいた。

持病のために飲まないようにしているものの、今週は明日と金曜日は飲み会だ。明日は職場の歓送会。金曜日は、2年前に白血病から寛解した前勤務先後輩夫婦と部下だった女性も参加しての「快気祝い」だ。以前からお祝いの会の話はあったのだが、漸く実現となった。彼らは昨年10月下旬に私に起こったことを知らないし言うつもりもないが、せっかくの祝宴だ。楽しくやろうと思う。

 

 

13年前に18年半ほどを共に過ごした犬が虹の橋を渡った。真夏の私の誕生日だった。犬の名はモモ(♀)という。1995年の6月に我が家にやってきた。車好きの私が当時乗っていたRX7に装着したハンドルメーカーからとった名である。ペットショップで間違って生まれた柴犬とロットワイラーのミックスのモモは、売り物にならないとペットショップから父親がもらい受けて連れてきた生後3か月の子犬だった。モモのことはこのブログで何度も書いてきたが、天国に召された日以来、思い起こさない日はなかった。先ほどネットを見ていたら、タイでのことらしいが、たまたま水を買いに立ち寄った店で飼い主の男性が行方不明だった愛犬と遭遇した映像がアップされていた。恐らく、防犯カメラの映像だと思うが、駆け寄る犬とすぐに気づく男性とのシーンは感動ものだ。その光景を見てモモを思い出した。

私が帰宅すると、喜んで玄関までかけてきて、フローリングのため止まり切れずに豪快に滑って転ぶモモの様は昨日のようだ。老犬になって右後ろ脚を失った後は、以前のように駆け付けて来ることはなくなったが、帰宅後に玄関横の部屋で普段着に着替えていると不自由な3脚歩行でクゥーンと鳴きながら出迎えてくれたものだった。

モモのことを思うのは、通勤途中の区立公園で散歩している犬を見かける時だ。犬を見ると愛おしく思ってしまう。認めたくはないが、13年経った今もペットロスなのだろう。モモが元気だったころは、朝夕の散歩はmustだし、出張時にペットショップに預けないといけないなど、それなりに世話が大変だった。現在の生活&仕事のパターンでは犬を飼うことは諦めている。だからというわけでもないが、3年後に古希になったら仕事も引退して、どこか里山か里地に庵を構えて犬や猫を飼うのが私の願いだ。このことはこのブログでも書いてきたことだが、昨年秋に三途の川を渡り損ねたこともあり、考慮するモードが一段上がった。また、犬や猫と暮らしたい。古希になるのは3年後のことだから、ガチで準備を始めないといけない。どこから手を付けるかだな。

モモの前に飼っていたのはアメリカから連れ帰った野良猫のクロタ(♂)だ。米国の田舎町で私のアパートに力づくで侵入してきたアメリカンロングヘア―は体重が7キロもある大猫だった。いつの間にか我が家に居ついた。当然ながら情が移り、連れて帰るべく帰国前に獣医に診てもらったら、推定年齢は3歳とのことだった。帰国後2年半ほど経ったある日、不自由な日本での暮らしに嫌気がさしたのか、クロタは数々の武勇伝を残して、突然、姿を消してしまった。私は幼少のころからずっと犬、猫、鳥に囲まれた生活だったこともあり、クロタがいなくなった後、父親に引き取り手がない犬か猫がいたら飼ってもよいと伝えてやってきたのが生後3ヶ月のモモだった。

クロタの前は、同時進行で実家で飼っていたマルチーズのチャコ(♀)と雑種の2代にわたるチビ(♀)とコロ(♀)だった。この4匹はいずれも長寿で、チャコは16年半、コロ、初代チビも15年、二代目チビは18年生きてくれた。

チャコは諸事情あってしばらく我が家で預かった臨月のピコ(♀)が私の目前で生んだ子犬だった。この世に生を受けて目があいた時には私がいたのだ。とてもよく懐いた。初代チビはコロの子供だ。チビも我が家で生まれたためかよく懐いたものだ。コロは子犬の時に近所のおばさんが小学生の姉と私しか在宅していない時に連れてきて、拾った犬だがいらないかと言ってきたので、制止する姉を振り切り、欲しいと言ってもらった犬だ。そのおばさんは躊躇なく置いて行ったが、今思えば、変わった人だった。帰宅した両親にはかなり怒られたが、コロも恩を感じてかよく懐いた。二代目チビは、コロが亡くなり、チビが亡くなった直後に我が家に来た犬だ。その頃は大学院生だったので、自宅にはほとんどおらず、たまに家にいる時だけ優しく撫でただけだが、やはりとてもよく懐いたものだ。コロの前にも犬や猫がいたが、また別の機会に書くことにしよう。

14日の土曜日に2月7日以来の通院をした。着実に体の状況は改善しているようだ。2月7日時の血液検査の結果は、NTproBNPの値が11月の入院時の5500超から490へ下がっていたが、標準上限値が125の4倍ある。腎機能も改善したとはいえ、まだ全然安心できない数値だ(尿蛋白は出ていない)。肝機能、脂質、血糖、血圧は全く問題なかった。心電図は依然として典型的な心筋梗塞のパターンなのだそうだ。つまり、徐々に良くなってきつつあるとはいえ、まだまだのようであった。とはいえ、自覚症状も何もなく気持ちとしては健康そのものなのだが、今後も節制するしかなさそうだ。古希まで健康な状態を保ち、犬、猫を飼い、少しでも長く一緒に過ごしたいものだ。