やってはいけないことをやってしまう。私のこれまでの人生でも数限りないほどやらかしている。代表的と思われるのはゴルフプレー時だ。

ティーショット:かつてスライサーであった私は右がOBのホールだと打つ前にかなり緊張したものだ。それでも、ドライバーで放たれたボールはある時は大きな弧を描いて、あるときは一直前に右のOBにむかってしまう。わかっているのにやってしまう。

バンカー超えのアプローチ:欲をかかずにグリーンオンで十分なはずなのだが、ピンがバンカーに近いと寄せようとしてチャックリやって、ボールは蟻地獄のようにバンカーに吸い込まれていく。

下りのパット:ショートすると短い距離でも次のパットが難しくなるのでオーバーすることを念頭に打つものの、インパクトの時に緩んでしまう。結局、下りの微妙な距離のパットを残して入らずのスリーパットとなってしまう。

上りのパッと:オーバーすると返しのパッとが難しくなるので、距離を合わせて打つのだが、ネバーアップ、ネバーインがどうしても頭にあるようで、強くインパクトして下りのパットを残すか、緩んで距離のある上りを残すかしてスリーパット街道を進んでしまう。他にもあるが、ゴルフはこの辺りで勘弁してやろう。

ゴルフは先月13日の富士山麓のコースでプレーして以来ご無沙汰だ。今度の日曜日(12日)に約一ヶ月ぶりにホームコースに行くことになっている。上述したコトは起こさないようにしないといけない。

 

二日酔い:次は飲酒だ。学生時代は、深酒した翌朝は目覚めていつもと同じ天井があることにホッとしたものだ。次に財布の中身を確認しながら、自分の前夜の行動を思い起こす。大抵の場合、残額と行動が結びつくが、たまに辻褄の合わないことがあるので、一緒に飲んでいた連中に確認すると、もう一件寄っていたりする。二日酔いの辛さは相当なものだ。翌日の午前中は本気でもうお酒はやめたと思うのだが、夕方になると元気になってまた飲みに行って同じことを繰り返す

 

つまり私は学習しないバカなのだ。自己反省は大いにするとして、他人がやらかしたことを次に書く。

 

立ちゴケ:バイクで停車した時などにバランスを崩して倒してしまうことをこのように言う。ライダーでこれほど恥ずべきコトはないが、白バイでこれをやった警察官を見たことがある。以前、私は趣味でマラソンをやっていて、色々な大会に出場したことがあるが、30年以上前の始まって間もない霞ヶ浦マラソンに出場した時のことだ。開会式に一般ランナーは半強制的に参加させられたのだが、会場だった公園のグランドはぬかるんでおり、ランニングシューズが汚れないように気を遣って歩いたのを覚えている。セレモニーには、先導する白バイ部隊の入場があったのだが、そこでコトは起きた。颯爽と白バイに跨って入場した隊員は、最後にくるりと右旋回して定位置に着く手筈だったようなのだが、ぬかるみにタイヤを取られて立ちゴケした隊員がいたのだ。参加者一同、「おい、あんなんで先導大丈夫か」と言われる中、その隊員は一生懸命バイクを起こそうとするが、ぬかるんでいるのと、大型バイクの重量で難儀していた。だが、周りの隊員は冷たい視線を向けて傍観しているだけだった。そうなのだ。これは手助けしてはいけないのだ。私は鮫洲試験場でバイクの限定解除をとったが、最初にやる試験科目がCB750を引き起こすことだった。自分で起こせないようではそのバイクに乗る資格がないと言うことだ。悪戦苦闘の末、倒れた白バイは引き起こされてセレモニーはその後、順調に進んだが、あの警察官には同情を禁じ得なかった。

 

植木等じゃないが、わかっちゃいるけどやめられないことや、結果としてそうなってしまうことは残念ながらある。

 

先の土曜日(4日】に六週間ぶりにクリニックに行った。その時、前回(5/23)の血液検査の結果をもらったが、NT pro BNPの値が2月より少し改善していて、標準上限値125の3.6倍だった。発作直後は5500を超えていたから、劇的な改善と言いたいが、医師によると、心電図は今も典型的な心筋梗塞を示しており、冠動脈に閉塞や動脈硬化が見られなかったとはいえ、なんらかの虚血性イベントが心臓に起こったのは間違いないという。つまり、心筋壊死があるのは確実だろうという。発作直後は、多臓器不全を合併し、腎機能が一時は数値上は透析の一歩手前までいったが、改善傾向にあるとはいえ元に戻らず、低い状態だ。これが現在の私の状態だ。悲観もしないが楽観もしない。心臓リハビリには趣味の長距離散歩が確実に効果があったと思うので、今後も続けるが、梅雨明けの盛夏時の水分補給が重要だと思っている。

 

今日は七夕だ。一昨日のサザエさんを見ていたら、波平が短冊に書いた願いが、家族皆の願いが叶うように、とのことだった。

 

皆様の願いが叶いますように。

 

 

前回触れた酒にまつわることを今回も書く。

かつて私は酒豪と呼ばれた。日本酒一升なんて軽く飲み干し、気づいたら二升飲んでいたなんてことも普通にあった。両親とも酒は強かったからその血を引いたのだろう。

院生時代、夜中に研究室で論文を読む等の机上作業時は、いつもウィスキーをちびちびやっていた。先輩、後輩からはBGMならぬBGAと言われたものだ。Aはアルコールである。真冬の丑三つ時、後輩二人を誘って研究室近くの神社の鳥居前に出ているおでん屋の屋台で夜明けまで飲んだことも懐かしい。屋台だから極寒の外気に晒されてはいるが、体はおでんと熱燗で温まっているのと、議論に夢中になって寒さは全く感じなかった。気づいたら来店時に出されたおしぼりが凍っていた。

ビールは清涼飲料水みたいなものだった。朝からは飲まないが、ランチ時に飲むことはよくあった。33年前、研究官だった私が、出向命令により霞ヶ関で行政官をしていた時期があった。仕事は苦労して当たり前とはいえ、担当業務には酸いも甘いもある。某省の食堂では昼からビールを出してくれたので、少し遠征しては喉を潤していたものだった。昼から飲むビールは、午後も勤務するための潤滑剤というかエネルギー源になるのだ。ところがその食堂の昼メニューからいつの間にかビールが消えてしまった。なぜかはわからない。仕方ないので、当時のイイノビル地下のイタリアン(フレンチだったかもしれない)に場所を変えた。そこのランチメニューには、ビールばかりでなくワインも飲み放題があったのだ。海外からのゲストを昼食に連れていく際は、この飲み放題が大変役に立ったものだ。言い訳だが、当時はすでに米国での2年間の州立大教員を終えた後だったが、欧米では昼食時のビール、ワインは普通であったことは書いておく。

日本でも、当時の役所の各課の冷蔵庫にはビールの大瓶が必ず冷えていた。夕方になるとそれを取り出して景気をつけてもう一仕事なんていうのが当たり前だった。年末の御用納は午前で終業、午後はどこかに繰り出す。年明けの御用始は朝イチで年始の挨拶をした後、軽く飲んでから河岸を変えて新年会だ。今となっては隔世の感がある。

そんな時代を過ごしてきたものだから、文部省(大学)に教官として移った後も、先週のブログで書いたような昼に軽く飲むなんてことをやっていたのだ。

もっとも、当時からそんな私でも研究調査航海での船上作業中は、昼には絶対に飲まなかった。船上作業は危険を伴い、時には命を落とす可能性もあったので、流石に昼からビールなんてことは絶対にしなかった(当たり前か)。その代わりではないが、洋上では夜間になると、当直の船員・観測員を除いて毎晩、飲み会だ。ノミュニケーションがこうした緊張した現場では重要であったのだ。昨夏、私が調査団長として臨んだ約1ヶ月に及ぶ絶海の孤島調査では、調査団員の方々は品行方正なので昼の飲酒は禁ずるまでもなく、夜は毎晩飲み会をやったが、皆、節度を守ってくれた。期間中、私は66歳の誕生日を迎えたのだが、一緒に南氷洋にも行ったことのある司厨長が団員と一緒にバースデーケーキを作ってくれた(写真)。ビールとの組み合わせだったが、皆で分けたケーキはとても美味かった。今年の誕生日は二泊三日の会社施設での研修会初日だ。私は講師として参加するため、夜は毎晩飲み会でも羽目ははずせないが、楽しみにしている。

前にもこのブログで書いたことに、大学教員になって初めての実験実習のことがある。31年前の4月中旬のことだ。実験実習は午後の3コマ連続だが、その日は初回ということもあり実際の実験はせず、今後の詳細な説明と講義を予定していた。だが、その日の朝、通勤途中で路面電車の車窓から見た満開の桜があまりに美しかったので、早々に講義を切り上げて、学生16人あまりと路面電車に乗って花見、いや、課外授業を実施した。急遽決まったことなので何の準備もしていなかったこともあり、同行する男子学生達に万札を渡し、ビール、ソフトドリンク、つまみを調達させた。日本酒は意図的に避けた。本格的になってしまうからだ。駆け出しの助教授だった私には、学生と野外で色々と懇談できて良かったのだが、学生にも思い出深い花見だったようだ。

読者の中には、このようなエピソードには全く感心しない方もおられるだろうが、酒に関する私の本質はこんなところだ。時代の流れ、年齢、持病とそろい踏み、今は大人しくしてはいるが、中身は変わるものではない。時折、かつての血が騒ぐこともあるが、今後は酒ということでは、人並に清く正しく生きていくのだろう。明日は中途入社の方の歓迎会だが、洋食店で日本酒がないので、生ビールとワインを楽しむことにしよう。

 

今朝目覚めたら、W杯は残念な結果であったことを知った。気が早いが、4年後目指して頑張れ、サムライブルー!

 

 


月刊誌「選択」を36年間購読している。毎月届いたら通勤時の車内で読むことにしている。先月号が自宅に届いたのは連休後の8日だったが、11日から読み始めたら、23日には読了してしまった。昨年12月に老眼鏡を導入してから読書のスピードが早くなったのは確かだ。字がはっきり見えるからね。先月最終週は、本屋でまとめ買いしていた本を読んだが、連日の千葉での学会参加でいつもよりかなり長い時間電車に乗っていたこともあり、ストックしていた3冊を全て読み終えてしまった。そして「選択」今月号は2日に郵送されて来たこともあって早々に読了してしまい、読む本がなくなってしまったので、自宅書棚より引っ張り出したのが、佐高信の「私の喧嘩殺法」文庫版だった。読むのは三度目くらいだが、同書での文化人、政治家への情け容赦ない筆誅は小気味よく、車内で笑いをこらえるのに苦労する。その中で作家伊集院静の次の言葉が引用されていた。

 

 大人になるってことは、誰にも話せないことを抱えて生きることナリ

 

墓場まで持っていくという訳でもないが、誰にも話せないことは私にもある。そのうち酩酊時にこのブログでポロっと書いてしまうかもしれない。

 

酩酊と言えば、かつては記憶を失くす程の大酒を飲んでいた。昨年の心筋梗塞の発作以来は品行方正な前期高齢者で、毎日だった晩酌は週末だけとなり、他の飲酒は月に2、3度程度の仕事関連の飲み会のみとなって久しい。自宅にある5升瓶に貯蔵している泡盛古酒は自然蒸発する一方だ。30年程前の大学教員時代は、大学正門から近い所にあった居酒屋にほとんど毎日飲みに行っていた。ここは昼営業もしていたので、時間がある時はランチでも訪問していたが、カウンターに座ると、つい生ビールを注文してしまう。そうすると、居酒屋の主人(マスター)は酒肴みたいな総菜を出すので、そのまま熱燗へと移行してしまう。そういった日の午後の講義・実験などはかえってはかどったりするので厄介だった。昼にランチで軽く飲んでも、帰宅する時には、同じ居酒屋の赤提灯に夜虫のごとく吸い寄せられてその日に二度目なんてこともざらにあった。マスターは私より一歳年長で、私のゴルフの師匠でもある。初ラウンドはこの居酒屋のコンペだった。ある晩、カウンターで熱燗も入り、若干酩酊気味でいい気持になっている時に誘われるままにコンペに参加することにしたのが私のゴルフ人生の始まりだ。参加が決まり、量販店で安いゴルフクラブセットを購入したものの練習することもなく、コンペ当日、ゴルフ場でアイアンヘッドのビニールカバーを剝がしていたら皆、呆れていたのを覚えている。空振り10回を含みスコアは147だった。この初ラウンドは同じ組で回ったマスターにご指導を頂戴したが、とにかく走らされた。スロープレーにならないコツだけは叩き込まれたものだ。

 

以前は喉が乾いたら極限まで我慢してからビールを飲むのが何よりも幸せだった。今はビールよりまずは水を飲む。それでも、ビールのはじめの一口は十分にうまいことがこの年齢にしてわかった。最近は飲んでもせいぜいほろ酔い気分程度なのだが、体への影響は自覚するよりも遥かにあるようだ。血圧をこまめに測るようになって久しいが、晩酌をやる時とそうでないときの差が歴然としている。素面の時は90-130程度だが、晩酌後は上が100以下なのだ。私にとってビールと酎ハイそれぞれ500mlで計1リットルの晩酌によるアルコール摂取は微々たるものだが、その影響は想像以上なのだろう。気をつけないといけない所以だ。

 

この先、私の人生で酩酊することはもうないだろう。だから誰にも話せないことをこのブログで書くことはないかもしれない。最後に酔い潰れたのはいつの事だったか、記憶に定かではないが、加齢と共に出来ないことが増えていくのは仕方ないことだ。二日酔いの最悪の気分も合わせ、酩酊していた頃が懐かしい。もっとも、年齢を重ねて良いと思うことも、一方ではある。若い頃にはわからなかったことが今は普通に理解できるし、許せなかったことも、寛容に対処することができるようになった。こうした自分自身の変化も面白い。今後は、偏屈、頑固オヤジにはならないように気を付けることにしよう。

 

W杯第二戦の日本代表は見事であったが、私としては試合会場で観戦していたメキシコの人々に御礼を言いたい。本田の解説によると、日本代表はホームゲームのような雰囲気で試合ができたようだ。思い出すのは1968年のメキシコオリンピックでの3位決定戦だ。日本対開催国メキシコだったにも関わらず、試合終了間際、2点リードする日本に対してスタジアムでは「ハポン!、ハポン!」と大声援が沸き起こったのだ。親日国という背景と、自国チームへの不満が入り乱れ、帰結としての相手国への大声援。勝敗も重要だが、それで良いのだ。メヒコ エシクレイブレ!!

 

 

 

 

 

梅雨は文字通り、梅。スーパーにも梅酒グッズが並ぶ。桜の開花前の寒い時期に咲いた梅花が実を結ぶ候だ。梅酒だが、私自身はその製造過程で砂糖を使うためか、口に残る甘さがどうも苦手で、宴会コース料理の食前酒で年に1回か2回程度しか飲まない。だが、梅酒愛好家が語る様々なレシピを拝聴することは、背景にある熱意を心地よく感じる。

台風6号の大雨は23区内でも相当なものだった。私の居住区は1時間に100ミリ近くの豪雨を記録したらしい。善福寺川、野川、仙川、目黒川、神田川など、氾濫警戒警報が出た河川近くの方々は気を揉んだことだろう。以前に比べたら23区内の洪水対策は着実に進んでいるが、降水量があれほど多いと最終的な対策は洪水が起こることを想定せねばならないようだ。これは地震と同じで、自然災害への対処は究極的にはそうした結論になってしまうのが現状なのだろう。火山活動も含めて、その発生を止めることはできないからだ。

豪雨といえば、雨音の激しさがあるのだが、居住しているマンションの遮音効果は大変よく、ドアを開けて初めて雨に気づくことが頻繁にある。愛犬モモが達者だった頃のことだ。朝、いつものように散歩に出ようとドアを開けて物凄い雨が降っていることに気づいた。外に出るまでわからなかったのだが、リードに繋がれルンルン気分だった散歩好きのモモは、ドアを開けた途端、豪雨を前にして固まっていたのを覚えている。犬でも立ちすくむことがあるのですね。犬の聴覚は優れているはずだが、雨音は別なのだろうか。

梅雨の時期なので天気が心配だった先の土曜日の会社のコンペは晴天に恵まれた。富士山麓の標高1100mのコースは少し暑いくらいであったが、気持ちよくプレーできた。スコアは46、44の90だったのだが、内容が今一つだった。ダブルボギーが5つで、パーは一つのみ。それでも、長いバーディーパットが二つ決まって、このスコアだった。ダブルボギーのホールはいずれもボギーオンにも失敗し、短いアプローチも寄らず、パットも入らずというパターンだった。不調だったアプローチの発端はインスタート最初の10番ミドルホールの三打目だった。グリーンまで10ヤードのところに第二打を運び、ピンが手前に切ってあったこともあり、あわよくばパーを狙うべく、私としては成功率は悪くないと思っているロブショットをしたのだが、地面が想像以上に硬く58度のウェッジが弾かれてトップし、危うくOBになるところだったのだ。最初にそんなことがあったので、小心者の私はそれからいつものようなアプローチができず、ボギーオンもできなかったホールが5つにもなってしまった。難しいグリーンにも翻弄されて、パーオンしても3パット、ここぞというパーパットも外しまくったのだった。ドライバーのOBもなく、距離も短いコースだったにも関わらず、結局はスコアも含めていつもと変わらぬラウンドだった。期待通りだったのは、会社の研修施設でのラウンド後の表彰式だ。美味しいバーベキューに生ビールは至上の幸福を与えてくれた。冷酒も美味であった。秋のコンペは9月下旬とのことで、北米出張と重なるので参加はできないのが残念だが、1年後の来年の春のコンペでは頑張ろうと思った次第である。

通勤途中の区立公園内の紫陽花小径は見頃を迎えて久しい。雨が降る間は蒸し暑くはなっても猛暑にはならない。梅雨を過ぎると暑い夏がやって来て、朝から太陽が真っ向勝負を挑んでくるのだろう。梅雨の間は気温だけは雨が抑えてくれるのはむしろ感謝なのだ。雨といえば、40年以上前に世界中のヒットチャート上位になったガゼボの「I like Chopin」という歌が当時から気に入っていた。よくカラオケで歌ったものだった。日本でも女性モデルが「雨音はショパンの調べ」としてカバーして結構流行ったようだが、今の季節になるとこの歌を思い出す。雨というと得てして憂鬱な気分になる向きも多いと思うが、雨の日もあるから晴れの日もある。今年の梅雨がいつ終わるのかはわからないが、雨季独特の景色を愛でるのも悪くはない。ただし、梅雨末期の集中豪雨は起きないことを願うばかりだ。

夏の予定は早々に8月9日の週に7泊8日の湯治を入れた。会社規定の夏休み、有休、山の日を入れての合わせ技一本だ。ゴールデンウィークに6泊7日の湯治を入れて温泉、サウナ、ゴルフ練習と2回のラウンドという日々を送ったのだが、心筋梗塞のリハビリにはうってつけであったのだ。その施設は7連泊まで予約できるので、思い切って日程調整をした次第。もっとも、お盆の時期なので仕事関連の調整はそれほど大変でもなかったし、何かあればゴールデンウィークの時のようにウェブ会議でも対応できる。便利になったものだ。

W杯の侍ジャパンのオランダとの初戦ドローは上出来であった。最高の景色に期待したい。

一昨日、関東も梅雨入りしたという。今週土曜日に河口湖近くのゴルフ場で会社のコンペなのだが、天気が心配だ。例年このコンペは梅雨入り前の5月下旬開催なのだが、今年は諸般の事情で6月中旬になってしまったのだ。自分で言うのもなんだが、私は「晴れ」男なのだが、梅雨前線には抗う力はなく、幸運を信じたい。会社のコンペは気合が入っていて、プレー後の表彰式&パーティーは場所を移動して山中湖の会社の研修施設でバーベキューなのだ。炭焼きで使用する牛肉も良いものなので、塩胡椒だけで十二分に旨く、生ビールとの組み合わせで至高の時間を過ごすことができる。

心筋梗塞後、今年に入ってから再開したゴルフも調子が上向いて来たが、これは連休前に購入した練習用クラブの効果が大きいような気がする。シャフトがクニャクニャするドライバーなのだが、最初は全くボールに当たらなかったが、そのうち切り返しでのタメも何となくスムーズにできるようになって、方向性は安定し、距離も少しだが伸びて来たのだ。何よりも、このクラブでボールを打つ感覚が心地良い。この練習クラブはアイアン用もあり、先週ネットで購入してしまった。一昨日の日曜日にメンバーコースの練習場にて筆下ろしをしたが、クニャクニャシャフトにも関わらず、ドライバーでの練習が奏功してか、ボールはやや右方向に飛んでしまう傾向はあるもののちゃんと当たるので、これからしばらくはこの2本の練習用のクニャクニャクラブで精進することにしよう。ちなみに、一昨日のスコアの方は44、48の92であった。ショットもパットも悪くなかったのだが、アプローチのミスでダボや大叩きのホールがあったのだ。もっとも、7000ヤード超のフルバック(コースレート73.2)で回ってのことだから、コンペでははるかに距離のない6500ヤードくらいのレギュラーティーなので、全てが噛み合えば爆発的なスコアが出るものと期待したい。もっとも、コンペ開催コースは、特に富士山がらみの目があるというグリーンが難敵で、これまでのラウンドでは良い思い出がない。

梅雨入りしたので天気が心配と書いたが、梅雨の時期でも実は雨の降らない日は6割程度なのだそうだ。もっとも、どんより曇った梅雨空の下、今が満開の紫陽花の眺めはとても綺麗だ。雨の雫が花にかかっているとなお美しい。先の土曜日、午前8時半頃に旧東海道を歩いていたら、品川神社例大祭とのことで、地元の人たちはお揃いの半被を着込んで準備に忙しそうにしていた。チューハイをあおりながらの男性もいたが、朝酒とは少し羨ましかった。今の季節にやる祭りだから、五穀豊穣を祈念し、人々の絆を深めるのが目的なのだろう。準備の風景だけで、十分に参加者も楽しめたに違いない祭りであったことが想像できた。

私はというと、この日の散歩には目的地があった。東京駅の近くで開催していたジオパークに関しての展示だ。ジオパークとは、ネットによると「地質・地形から地球の過去を知り、未来を考えて、活動する場所」と解説があるが、単なる自然景観ばかりでなく、教育を含む啓蒙・地元経済との関わりなども総合する概念のようだ。自宅から品川の旧東海道経由で午前10時半頃に到着したが、ユネスコから世界ジオパーク認定を受けている室戸ジオパークのブースを訪問した。理由は単純で、会社関連の公益財団法人の視察として10月上旬に高知県を訪問するのだが、その際に立ち寄ることを考えているからだ。ブースには室戸ジオパーク推進協議会の専門員の方がいたので色々と話を聞いて情報を得ることができた。時刻は11時半近くになっていたので、当然ラーメンランチだ。東京駅から続く地下街を歩きまわり行き着いたのが、まだ寒い時期に訪れたことのあるタンメン専門店のトナリだった。地下街を彷徨ううちに思い出して二度目の訪問となった。前回は行列で30分待たされたが、この日は季節もあってか待つことなくカウンターに座ることができた。前回と同じタンメンの大盛りとさらに今回はセットの餃子を追加した。もちろん、タンメンには生姜とニンニクをたっぷりと入れてもらった。野菜量は360gあるようだが、コスパが高く、そして味も良いのだから、この近辺の方々は幸福だと思ったものだ。梅雨時の今も、そしてこれからの暑い夏も、私は熱いラーメンを食べ続けることだろう。

本日は、東京多摩地区の市にある国立の研究所に行って来た。この研究所が板橋にあった時はよく訪問したのだが、移転してからは初訪問であった。所長が以前からの知り合いで施設見学後に決して近いとは言えない最寄駅で一杯やって旧交を温めたが、あっという間に二人共若かった頃の30年以上前に戻ることができ、会話が弾んだ。もっとも、あやつが所長とは世も末だと思ったが、どうしてどうして威厳をもって職務に励んでいるようなのは何よりであった。

長距離散歩で歩くコースは23区内の自宅を起終点とすることがほとんどだが、時折、越境して神奈川、埼玉、千葉、茨城を歩いたり、多摩川沿いの都内の市まで行くこともある。歩き回っていると色々なものを見聞するが、その中には多くの芸能人も含まれる。随分前のこと、女優の綾瀬はるかとすれ違ったことがある。そのことは当時このブログでも書いたが、その際、日時場所は記載しなかった。明らかにプライベートであったからで、行動パターンが特定されて彼女に迷惑がかかってはいけないと思ったからだ。

実は先日も都内を歩いていたら、ある俳優と遭遇した。都内の狭い車道を歩いていたら、突然、黒装束(黒の帽子、黒のTシャツ、黒のパンツ)の若い男性が近寄って来る。何かのアンケートみたいな感じもしたが、人通りの少ないところだったので不思議に思いながらも丁重に流して通り過ぎようとしたら行く手を阻むではないか。少しだけ驚いたが、その男性はある民放を名乗りロケの最中なのでしばらく待って欲しいと言うのだ。前方を見たら、確かに10mも離れていない先に同じような黒装束のスタッフと思しき数人がいて、昼間というのに大きなライトが点灯していた。誰がいるのかと聞いたら俳優名はすぐに教えてくれた。現在放映中の大河ドラマの信長役俳優だ。発表前なので具体的なことは言えないとのことだったが、10月開始のドラマの撮影だという。可能性は低いが、このブログで検索にかかり今後の撮影に迷惑をかけてはいけないと思うので、日時場所、俳優名は書かない。本番ではその俳優は両手を高く上げて激しく振り、大声で何かを叫んだが、何と言っているかはわからなかった。だが、その声の迫力は相当なものだった。また、テレビで見る印象よりは背が高く、体もがっしりとしていた。遭遇した撮影場面は時間にして30秒もなかったと思う。一発でOKが出たが、こうしてワンシーンを地道に撮り続け、編集して仕上げた結果がお茶の間に流れるのだろう。制作者、演者ともさぞかし大変だろうと思ったものだ。

ところで、最近は制作現場におけるAIの役割はかなり高いと聞く。私は個人的にはAIを利用したことはないが、これは容易に想像できる。AIは瞬時に情報を収集し、希望するものを制作してくれるのだから便利なことこの上ないだろう。だが、そうしたAIの制作物をそのまま自身の作として第三者に提供するとなると話は変わってくる。

具体例で言うと大学での課題レポートなどの作成だ。AIはあっという間に、一見するとロジカルなものを制作してくれるが、自分の名を冠して提出するのはおかしいだろう。ある雑誌の記事によると、一昨年あたりを境に学生が提出するレポートや卒業論文の質が飛躍的に向上したという。だが、よく見ると事実誤認や独特な言い回しなどが散見され、AIによる作成が見え見えなのだという。これでは本来学生がすべきであった資料検索、まとめ、論理構成などの重要な脳の筋肉労働がスキップされてしまい、その学生には何も残らなくなる。

先週、千葉で開催された国際学会の最終日最終セッションはAI利用に関してだったが、米国の学会代表、欧米の著名な科学雑誌編集担当者の発表は興味深かった。いずれも、AI使用をめぐるガイドラインを設定すべしということは共通していたのだが、その基準がまちまちなのだ。解析すべきデータが当該研究者によって真に生産されたものであれば解析自体はAIに任せても良いという意見、解析が重要なのだからそれではダメという意見もあったりと議論は収束することはなかった。

AIはあくまで道具であるべきだという考えは共有されていたが、どこまでが道具としての使用なのかは議論が割れた。44年前、私は手書きで和文による卒業論文を仕上げたが、書き損じるとホワイトで消したり、それもできなければ書き直したりと苦労したものだ。図もロットリングによる墨描きで時間もかかった。だが、こうした筋肉労働は学部生にとってはとても重要なことで、良い経験になった。大学院では、修士・博士論文とも英文でなければならなかったが、当時、英語論文作成はタイプライターが主体でミスタイプをすると修正が大変だった。私の場合、幸いにも出たばかりのワープロを利用することができ、何度も読み直してロジックの整理もできたので、大いに助かったものだ。Macユーザーだったので、データ入力による図の作成も造作なかったし、作図形式を自在に設定もできたので、結果考察には強力な武器ともなった。道具とはこういうものだろう。AI問題は今後、想定もしなかったような事例が出て顕在化は加速するだろう。その過程で我々人類は多くのことを学び、そしてあるべき姿になるのだと信じたい。楽をし効率化を目指すのは良いとしても、魂を売ってはいけない。

 

 

私は教師から見たら決して扱いやすい児童ではなかったと思う。今でもよく覚えているが、1年生の授業参観の時だ。両親が来たのだが、父親は母親に向かって3年生の姉の教室に行くように言い、自身は長男である私のところに来たのだが、滞在する時間は長くなかった。授業が始まって父親はすぐに退出し、姉の教室にいた母親に理由は言わずに私のところに行けと言ったそうだ。母親は訝りながらも私の教室に来て全てを理解したという。教壇に立っている教師と私が同じ方向を向いているのだ。父親の姿が見えなくなって寂しく思っていたところに母親が来たので、私はかなり喜んではしゃいだようだが、その私に向かって並み居る親の前にも関わらず女性の担任教師は情け容赦なくゲンコツをくれた。大人しくさせるためである。私が教師と同じ方を見ているのは、私の机が教壇の横にあったためだ。騒いだらすぐに成敗するためであったらしい。覚えているのは、授業中に何か疑問があると私は手もあげずに不規則に発言というか質問攻めにしていたようで、担任教師が答えに窮することがよくあった。その度に授業は中断するのでその対策としての措置であったようだが、私は明らかに何もわかっておらず気にしていなかった。息子の様を見て、父親も母親も相当恥ずかしかったようで、二度と授業参観に来ることはなかった。

小学校4年生までの私の年間欠席日数は60日ほどあった。かなり多いが、理由は単純でが就寝時刻が遅く、朝起きられないからだ。それでも、テストの点数だけは良かったので(通信簿の成績は非常に悪かったが)、寝坊した日は親も、まっ、いいかとなっていたようだ。ちなみに姉はちゃんと起きて近所の子と集団登校していたようだ。1、2年の女性担任も3、4年の女性担任も私の取り扱いに難儀し、家庭訪問の時も問題児であると母親に言っていたようだ。私としては、そうした担任の思いはなんとなくわかっていたが、授業中の不規則発言が止むことはなかった。自分の思いが優先し、他人がどう感じるかの想像力が決定的に欠けていたのだ。この傾向は今でもあり、前期高齢者となっても日々学習していることを自戒を込めて告白する。

5、6年生の女性担任教師のY先生は、しかしながら、私の質問には不規則発言だろうが的確に答えてくれてから、質問する時は必ず手を挙げてからということを都度、丁寧に諭してくれた。私にとっては初めて正面から向き合ってくれた先生だった。そのためもあってか、年間の欠席日数は劇的に減り、他の児童と大して変わらず、発熱などで休む程度(数日)になった。4年生までのテストの点数は常に高得点だったにも関わらず、通知表の成績は非常に悪かったのだが(5段階でオール2程度)、5年生になってからはテストの点数に見合った成績になり、自分でも驚いた。そうなると、自分自身に対しても肯定的になり、周りを見る余裕も出てきて加速度的に優等生への階段を登っていったような気がする。知能テストも良かったようで、家庭訪問時に絶賛してくれたらしく、我が息子はダメだと思っていた母親を驚かせた。現在の自分を肯定するとしたらY先生のおかげも相当あったのは間違いないと思う。

小学校1年生の同級生にK子という女子児童がいた。周りの児童と同じペースで行動ができない子で私同様、女性担任からは嫌われていた。この子は授業中にトイレに行きたくてもそのことを先生に告げることができず、我慢できずに漏らしてしまうことがよくあったのだが、担任教師はその度に母親を学校に呼びつけて掃除をさせていたのを覚えている。両親は学校前でクリニング屋をしていたのだ。そんなことが続いたある日、K子が突然立ち上がり、教壇の担任のところに行き何らかの仕草をしたことがあった。トイレに行く許可を求めたようなのだが、K子が教室を出て行った後の担任の行動は今でもよく覚えている。あろうことか、勇気を持って立ち上がって訴えたK子を揶揄するようにその仕草をまねたのだ。クラスの子どもたちは皆それを見て笑ったが、私は笑わなかった。それからはK子のことを何かと気にかけたが、2年生になった時にK子の姿はなかった。特殊学校に転校したということを聞いたが、当時7歳の私はK子は行動パターンが違うだけであって、普通の子と違うとはあまり思っていなかった。K子はその後、どういった人生を歩んだのだろう。私もこの8月で67歳になる。60年前のことだが、よく覚えている。その他にも給食が食べられない子、吃音の子なども低学年の頃にはいたが、今思っても担任の対応はとても褒められたものではなかった。仮の話だが当時、現在の私と同じ考察力があれば、これらの同級生を救うことができたのにと思うことは実はよくあるのだ。

3月7日(土)に出身高校の閉校記念行事に参加したことはこのブログでも書いた。

教育実習以来の45年ぶりの校舎内の景色は昔のままだった。体育館は、3年生の時に完成したのだが、体育教師が大事にするあまり使用した記憶がなく、初訪問のような感覚だった。

母校は自宅から近いところだったが、志望校ではなかった。第一志望は不合格となり、二次募集を受験して入学した、偏差値40程度の普通科新設高校だった。進学校から着任した教師は、学習意欲の低い生徒にサジを投げるようなところだった。そうした高校に通学することに劣等感がなかったわけではないが、受験に失敗したのは事実で、それは勉強が足りなかったためなのと、ダントツのビリの学校だったので、かえって諦めもついた。同様に志望校に不合格になり二次募集で入学した同級生も相当数いたが、自転車通学だった私は帰宅部に入ったこともあり、電車通学や部活動の同級生とつるむことなく、いつも一人で過ごした。周りからは休み時間も勉強するガリ勉で通っていた。常に一番の成績を上げて、そして国立大学に絶対に合格するのだと頑張った3年間だった。母校の周りにはマラソンコースが複数設定されており、雨が降ろうが槍が降ろうがとにかく走らされた。同級生の多くが喫煙を始め、走るのが辛くなったと言っていたが、幼少の頃より紫煙が嫌いだった私には無縁のことだった。全教科平均は最高で10段階の9.5、一年次だけ実施された校内学力テストも一番、学級委員としてクラスをまとめ、成績の悪い同級生には頼まれれば定期テスト当日の早朝に個別に傾向と対策を教えていたから、周りからは一目置かれる存在であったと思う。それでも旺文社や代ゼミの全国模試での成績は悪くはなかったものの、上には上がいたので、学校の勉強のほかに春休み、夏休み、冬休みは都内の代ゼミ、3年次は駿台予備校に通ったものだ。当時の山手線は初乗り30円だった。

高校からは某国立大の推薦入試を勧められたが、それを断り一般入試に挑戦した。実力で勝負したかったからだが、今思えば、無謀であったかもしれない。現役で合格、大学院に進学して博士号を取得後に通産省の国立研究所に就職し、6年前に文科省の国立研究所で定年を迎え、それ以来、民間会社で働いている。一見すると順風満帆のようだが、実際はロードオブザリングのような人生であった。世の中、甘くはない。

高校時代に話を戻すと、私のクラスでは1年次で数人の落伍者が出たが、Sは自主退学だった。1年次の秋、Sの不登校の相談で年老いた母親が学校に来た際に聞いた話では、Sは有名大学への進学を希望しており、今の高校では合格できないので、来年高校を受験し直すとのことだった。Sも私と同じ二次募集で入学したのだった。Sの不登校が1ヶ月ほど続いた後、私を含めた同級生7人でSの自宅を訪問し、真意を聴いた事があった。母親に促されて自宅から出てきたSは、このままでは到底大学には進学できないのでやめるつもりだと言う。我々の高校に通うのは恥ずかしいようなことも言ったのだが、言い方がある。訪問した同級生の中にいた短気なKは、なんとSに手を出してしまったのだ。即座に自宅に戻ろうとするSをとりなして、その場でKに謝罪させ、そして「とにかく、Sが思う以上にクラスでは心配しているのだから、明日、登校して自分の考えをはっきりと言え」と言って帰した。翌日Sは登校してきたが、朝礼で教壇の前に立ち、その前日に自宅前で我々に言った同じことを話し、最後に頭を下げてそのまま教室を出てしまった。翌年、Sは全日制では県下一の高校の定時制に入学したそうだが、それを知った時は複雑な思いをしたものだ。

このブログはタイトルを決めたら一気に書くようにしているが、毎回志半ばで終わってしまう傾向があり、今回も2000字まであと少しとなってしまった。書いておきたいことがもっとあるのだが、別の機会としよう。高校時代は50年前のことだが、高校所在と同じ市にあった実家も今は無く、高校建屋も取り壊される。歳月とはそう言うものなのだろう。

 

ところで、先の土曜日にホームコースでプレーした。前半が44。パーがなく、ダボとバーディーが一つずつであとは全てボギーだった。バックナインもボギーペースで進行し、ゴルフプレー再開後初めて90を切れると思ったのだが、4ホール目のミドルホールでスコアカウントを放棄せざるを得なかった。セカンドでグリーン右のラフに行ったボールがなんとしても見つからないのである。打ち直すにも後続が既にティーショットを打ち終えて待機していたので、ルールに沿ったプレー継続は諦めた。全体の調子は悪くなかった。全てが噛み合えばスコアが期待できる予感を得たラウンドだった。もっとも、私は今、大病からのリハビリの最中である。青空の下、ゴルフを楽しめることを素直に喜びたい。

 

 

八王子市街にも1mの成獣が出没したと言うから、地元の方の気苦労は大変なものだろう。

40年以上前の院生時代のこと、北海道の現地調査に参加する際、ヒグマに関する情報について事前にレクチャーを受けた。至極単純な内容で、熊も人間が怖いのだから鉢合わせにならないように腰に鈴をつけたりして存在を知らせれば特に恐れることもないと言うことと、子連れの熊は子を守るために襲ってくることがあるので足跡には要注意なのと、不幸にも鉢合わせになっても慌てずに背中を向けて逃げたりせねば大丈夫と言うものだった。その後、実際のヒグマを見たことがなかったので、大学近くの動物園に行って確認したが、ツキノワグマは勝てそうな気がしたが、ヒグマとは絶対に戦ってはいけないということがよくわかった。最近になって、ツキノワグマも同様に成獣とは戦ってはならないという認識を得たが、これまで幸いにも野生の熊と遭遇することはなかった。

熊の出没情報をニュースで見る限りは、熊の行動パターンが変わってきたのか、これまで報道されてこなかっただけなのか、判然としない。人里どころか都市部にも出没し、自宅の中にまで堂々入ってくると言うのだから、その地域に居住する人々はおいそれと散歩にもいけないような状況なのは早急な対策が必須だろう。ニュースを見る限りは、人里に出没した熊は麻酔銃で捕獲後に駆除というのが大半のようで、特に子連れの場合は子熊まで駆除されてしまうのは、あまりにも哀れだが、危険に晒されている方々のことを思えば、それは一時の感傷でしかないことは明らかだ。

専門家はどのように最近の事態を考えているのだろうか。上述したように、人間を恐れない熊の個体が増えたのか、そうだとしたらその理由は何なのかを明確にすれば対策ができるのではないかと思うのだが、どうなのだろう。人間を恐れない熊というのは、熊としては人間は怖いのだが、それでも人里に出没せねばならないということもこの範疇に入れて良いと考える。給餌行動のためであろうが、だとしたら、そうした状況になってしまう理由は何なのかなど、色々な観点で考えることができるのではないかと思うのだ。私の素人考えを書いても詮無いことなのでやめるが、専門家を交えたそのような取り組みは既に始まっているのだろうが、その進捗を含めた確実な情報をもっと共有することはできないのだろうか。あるいは地元では既にそうした取り組みはあり、私が知らないだけかもしれないが、それでも現況をもっと共有するようなことがあっても良いのではないかと思うのだ。熊を駆除した場合、当該行政機関には苦情が殺到するという。この行為は理解はできる。だが、私には同意できない。そう言うことではないのだ。

 

ここまで書いて思った。海外生活もそれなりに長く、そして外国人との折衝も数多くこなしてきた私が時折感じるのは、上述の「理解」と「同意」の使い回しだ。I understand, but I don't agree.ということが言えない方が日本人には多いような気がする。相手の言うことを理解できても、諸々考慮すれば同意は出来ないなんてことは至極当然のことなのだが、この当たり前のことを共有していないようで、議論をしていて前提にできないことが少なからずあり、困ってしまうのだ。上記の熊のことで言うと、私はクマの駆除については、理解はできるが、同意は出来ない。だからと言って熊が可哀想だとの苦情電話を行政機関にはしない。同意できないだけで思考を停止するよりは、それではどうしたら良いのかと言うことに思考を向けたい。当該地域には専門家を交えた取り組みがあるはずだ。その内容を遍く知れ渡り、議論が進み、より多くの知恵が結集すれば、少しでも解決に繋がると期待したいのだが、どうだろうか。

 

話題は変わるが、私のホームコースは霞ヶ浦南湖畔にあり、野生哺乳類としてはこれまでウサギ、イタチ、タヌキ、アライグマ、ハクビシン、モグラ、そしてコウモリを目撃したことがある。イノシシと思われる足跡はバンカー内で頻繁に見かけてきたが、実物と遭遇したことはない。サルはいないだろうし、キツネはいると思うが、痕跡を見たことがない。クマの生息などはあり得ないのだろう。有害な生物は、昆虫と爬虫類だと思うが、蚊、蜂、虻などはどこにでもいるし、コース内でマムシを見たことはない。つまり、プレー環境は安全なようだ。もっとも、スコアの方は最近は今一つである。先の日曜日は50,46の96だったのだが、ショートで9を叩いたり、ミドルでトリプルボギーが3つもあり、この4ホールだけで15オーバーで、さらにダボも二つあったりするから、ホール毎の浮き沈みは相当なラウンドになってしまった。唯一の救いは、10.8フィートの比較的高速なグリーンが合ったことだが、これも次のラウンドではどうなるかわからない。そんなものだ。

 

 

 

 

昨日の連休最終日に5万3千歩以上歩いてしまった。心筋梗塞の発作後、多くても一日3万歩程度を限度にする長距離散歩は守ってきたのに、昨日は大幅に超えてしまったのだ。理由は単純で、道を間違えたのである。私が長距離散歩中に道を間違えるとしたら、住宅街などの行き止まりで引き返すくらいなのだが、昨日は違った。基本、私は太陽の位置と時刻によって方角を推定するのだが、昨日は終日曇りで太陽が見えなかったのだ。もちろん、スマフォで確認できるのだが、画面の見方を間違え、見事に本来とは逆の方向に歩いてしまったのだ。道に出てきた道路標識にあってはならない逆方向の地名があるのを見て過ちに気付いた時は、絶望感に浸る時間はそれほどなかった。その時点で既にかなり歩いており、2万歩をはるかに超えていることは明白だったからだ。瞬時の思案後に取った行動は、一番屈辱的な来た道を戻ることだった。晴天でないので、再度間違える可能性を考えたからだ。目的地も本来の場所の遥か手前にしたのだが、それでも結局、終日歩く羽目になった次第。

もう少し詳しく書こう。まず、大岡山駅まで電車で行き、そこから歩行を始めた。中原街道まで下り、丸子橋で多摩川を渡ってから綱島街道に入り、綱島駅のところで鶴見川の堤防道路を上流に向かい、支流の早渕川河口からひたすらこの川の水源地を目指したのだ。自宅を出るのが少し遅くなったのもいけなかった。ラーメンランチは水源にほど近い八戒という中華屋に決めていたのだが、田園都市線あざみ野駅に到達時点で12時半になってしまい、八戒まではそこからまだ30分以上あったので、駅近くのラーメン屋に入ってしまったのだ。誤算だったのは、そこでのランチ休憩で醤油豚骨味のネギラーメンを無料ライスと一緒に食したらなんだか元気になってしまったことだ。歩数を考えたらあざみ野駅から電車で帰宅せねばならず、そのことは頭をよぎったのだが、せっかく来たのだから水源地まで足を運んでみようと思ってしまったのだ。そして水源地(=八戒)に到着したのが午後1時半で、そこから田園都市線方向に戻り、どこかの駅に出たらそこから電車で帰ろうと思ったのだが、そこで道を間違えた。結論から書くと、たまプラーザ付近をかすって、鷺沼駅の至近まで行ったのだが、そこから紆余曲折後に梶が谷駅にようやく行き着いたのだ。だが、この駅でなぜか電車に乗る気がせずに隣の溝口駅まで行ってしまったのだった。これだけ歩けば、冒頭の歩数にはなるのである。

帰宅後、すぐに風呂に入り体の状況を調べたのだが、多少の疲れはあったものの、足も痛くないし、基本、なんともない。翌日、つまり本日の寝起きにも筋肉や関節などの痛みは皆無だった。原因として考えられるのが、月星のウォーキングシューズのインナーソールを新品に変えたことと、最近買い求めたモンベルのトレッキングソックスを着用したことだ。足取りが軽く、五万歩以上歩いても最後まで軽快そのものだった。心配なのは心臓の具合だが、今のところは何も症状は起こっていない。昨日は終日どんよりとした空模様だったが、紫外線の直撃を避けることができ、気温も程よく低く、その点も良かったのかもしれない。

とはいえ、医師から無理はしないようにキツく言われていたにも拘らずのことだから、大いに反省もしたのだ。私の場合の心筋梗塞はカテーテル手術の結果、冠動脈閉塞・硬化が見られないという少数派のものだったが、なんらかの原因で虚血発作が生じ、重度の心不全から多臓器不全を合併したのは紛れも無い事実なのだ。現在は5種類の薬を処方されて現状を保っているものの、言い換えれば、その薬がなかったら、体調を保てない体でもあるのだ。薬は本来は体に毒だ。その毒がないと平常を保てないという、現実をしっかりと見なければいけないのだ。

今日は終日本社での就業だったが、明日は外勤をせねばならないこともあり、長距離散歩ほどではないが、1万歩は軽く超えるだろう。一度に5万歩以上も歩くなんてことは金輪際やめて、毎日少しずつでも歩数を伸ばすようにするのが正解なのだ。

今週末は土曜日が散歩の日だ。どこを歩こうかな。

ところで、先週水曜日からのリハビリを兼ねた湯治は大変心地よかった。ゴルフ場併設の施設だったので、練習もかなりまとめてできた。先月購入したシャフトがクネクネするドライバーも最初はうまくヘッドに当たらなかったが、割とすぐに芯を食って距離も出るようになった。正直に言うと、エースドライバーのピン440MAX(シャフトはツアー2.0 クローム65)より距離は遥かに落ちるが方向性が良いのだ。これは非常にヤバい状況だ。今度の日曜日はホームコースでラウンドだが、さて、どのようなことになってしまうのか。もっとも、気持ちはどちらかというと、プレー終了後のサウナにあったりするので、上手くいかねば笑って散歩だ。