3月7日(土)に出身高校の閉校記念行事に参加したことはこのブログでも書いた。
教育実習以来の45年ぶりの校舎内の景色は昔のままだった。体育館は、3年生の時に完成したのだが、体育教師が大事にするあまり使用した記憶がなく、初訪問のような感覚だった。
母校は自宅から近いところだったが、志望校ではなかった。第一志望は不合格となり、二次募集を受験して入学した、偏差値40程度の普通科新設高校だった。進学校から着任した教師は、学習意欲の低い生徒にサジを投げるようなところだった。そうした高校に通学することに劣等感がなかったわけではないが、受験に失敗したのは事実で、それは勉強が足りなかったためなのと、ダントツのビリの学校だったので、かえって諦めもついた。同様に志望校に不合格になり二次募集で入学した同級生も相当数いたが、自転車通学だった私は帰宅部に入ったこともあり、電車通学や部活動の同級生とつるむことなく、いつも一人で過ごした。周りからは休み時間も勉強するガリ勉で通っていた。常に一番の成績を上げて、そして国立大学に絶対に合格するのだと頑張った3年間だった。母校の周りにはマラソンコースが複数設定されており、雨が降ろうが槍が降ろうがとにかく走らされた。同級生の多くが喫煙を始め、走るのが辛くなったと言っていたが、幼少の頃より紫煙が嫌いだった私には無縁のことだった。全教科平均は最高で10段階の9.5、一年次だけ実施された校内学力テストも一番、学級委員としてクラスをまとめ、成績の悪い同級生には頼まれれば定期テスト当日の早朝に個別に傾向と対策を教えていたから、周りからは一目置かれる存在であったと思う。それでも旺文社や代ゼミの全国模試での成績は悪くはなかったものの、上には上がいたので、学校の勉強のほかに春休み、夏休み、冬休みは都内の代ゼミ、3年次は駿台予備校に通ったものだ。当時の山手線は初乗り30円だった。
高校からは某国立大の推薦入試を勧められたが、それを断り一般入試に挑戦した。実力で勝負したかったからだが、今思えば、無謀であったかもしれない。現役で合格、大学院に進学して博士号を取得後に通産省の国立研究所に就職し、6年前に文科省の国立研究所で定年を迎え、それ以来、民間会社で働いている。一見すると順風満帆のようだが、実際はロードオブザリングのような人生であった。世の中、甘くはない。
高校時代に話を戻すと、私のクラスでは1年次で数人の落伍者が出たが、Sは自主退学だった。1年次の秋、Sの不登校の相談で年老いた母親が学校に来た際に聞いた話では、Sは有名大学への進学を希望しており、今の高校では合格できないので、来年高校を受験し直すとのことだった。Sも私と同じ二次募集で入学したのだった。Sの不登校が1ヶ月ほど続いた後、私を含めた同級生7人でSの自宅を訪問し、真意を聴いた事があった。母親に促されて自宅から出てきたSは、このままでは到底大学には進学できないのでやめるつもりだと言う。我々の高校に通うのは恥ずかしいようなことも言ったのだが、言い方がある。訪問した同級生の中にいた短気なKは、なんとSに手を出してしまったのだ。即座に自宅に戻ろうとするSをとりなして、その場でKに謝罪させ、そして「とにかく、Sが思う以上にクラスでは心配しているのだから、明日、登校して自分の考えをはっきりと言え」と言って帰した。翌日Sは登校してきたが、朝礼で教壇の前に立ち、その前日に自宅前で我々に言った同じことを話し、最後に頭を下げてそのまま教室を出てしまった。翌年、Sは全日制では県下一の高校の定時制に入学したそうだが、それを知った時は複雑な思いをしたものだ。
このブログはタイトルを決めたら一気に書くようにしているが、毎回志半ばで終わってしまう傾向があり、今回も2000字まであと少しとなってしまった。書いておきたいことがもっとあるのだが、別の機会としよう。高校時代は50年前のことだが、高校所在と同じ市にあった実家も今は無く、高校建屋も取り壊される。歳月とはそう言うものなのだろう。
ところで、先の土曜日にホームコースでプレーした。前半が44。パーがなく、ダボとバーディーが一つずつであとは全てボギーだった。バックナインもボギーペースで進行し、ゴルフプレー再開後初めて90を切れると思ったのだが、4ホール目のミドルホールでスコアカウントを放棄せざるを得なかった。セカンドでグリーン右のラフに行ったボールがなんとしても見つからないのである。打ち直すにも後続が既にティーショットを打ち終えて待機していたので、ルールに沿ったプレー継続は諦めた。全体の調子は悪くなかった。全てが噛み合えばスコアが期待できる予感を得たラウンドだった。もっとも、私は今、大病からのリハビリの最中である。青空の下、ゴルフを楽しめることを素直に喜びたい。