3月1日TV局と新聞社の密接な繋がり。予言は正しく進行中だが全ては明かせず。文豪作品を掲載する。 | europe123 Art OFFICE

1 марта. На этот раз это TBS как тесная связь между телеканалами и газетными компаниями. Пророчество развивается правильно, но все не может быть раскрыто. Фильм «Бесплодная зона». Что касается платы за прием NHK. Публикуйте произведения литературных гигантов.
3月1日 这次是TBS,作为电视台和报纸公司之间的紧密联系。 预言正在正确进展,但一切都无法揭晓。 电影《贫瘠之地》。 关于 NHK 接收费。 出版文学巨匠的作品。
3월 1일 TV국과 신문사의 밀접한 연결로서 이번은 TBS. 예언은 제대로 진행중이지만 모두는 밝히지 않고. 영화 '불모지대'. NHK 수신료에 대해. 문호 작품을 게재한다.
March 1st This time it's TBS as a close connection between TV stations and newspaper companies. The prophecy is progressing correctly, but everything cannot be revealed. Movie ``Barren Zone''. Regarding NHK reception fees. Publish works by literary giants.
3月1日TV局と新聞社の密接な繋がりとして今回はTBS。予言は正しく進行中だが全ては明かせず。映画「不毛地帯」。NHK受信料について。文豪作品を掲載する。









 暫く短く箇条書きを続ける。

 標題の件の内、順番を変える。
 予言を申し上げていたが、「・・夕刻の状況から晴天が数日続けば小さな地震が発生をする」すぐに、二度続けて小さな地震が発生した・・人類のプレート云々の遅れた解説は結果に過ぎない。
 「証人喚問の方がまし・・ただ、こんな事は何時か忘れる国民にとり、最も大事な事は自民・公明・維新に投票をしない事に徹しなければ、何も解決には至らない」
 「・・この国も含め西側諸国に災いが・・」これは事情があり、少なくとも半月以上先になり・・現在時点では・・詳細を申し上げることは出来ない。
 「・・五輪・・此れについても昨日の記事で暗示をしたが・・誰も気づかない」
 「・・USA大統領選の結果は既に出ている・・その後面白いことが起きる・・」
 「野球選手はペットではない・・あくまでも有能な選手はどこ吹く風・・ただ、この先も見えるが、沢村相似。肩と見えたが肘。バッター。」
 
 その他幾つもある・・。



 今度はおかしな記事から幾つか。
「桐島氏が犯人であれば弔いはしない」・・如何にも人類らしい感情面が突出している。
 これもおかしなことで・・逃亡生活は決して楽ではなかった上に・・本人は心底では常に気の休まる日は無かった・・諸君は法に関しては詳しくはない。
 刑罰とは「量刑を実行するだけが反省を促す術とは言えない」・・つまり、最も簡単に言えばUSAとこの国には未だに死刑が存在する・・死刑は一瞬で終わる・・だが、罪の意識を抱えながら・・あれこれ考えながらの逃亡中の心境を推し量る事は出来る・・数十年後に嫌でも死を迎えざるを得なかった者の、最後の言葉の内「・・せめて本名を名乗ってから死にたかった・・」。
 被害者の遺族の心境は別とし、法の原則は「罪を憎んで人を憎まず」死者に鞭打つことは不可能。
 また、国葬阿部の所業は結局闇に葬りさられた事で・・本人にとっては寧ろ幸いだったのかも知れない。
 それとも、角栄氏の様に罪を償った方が良かったのか・・。
 
 

 実は、以前見たDVD[松川事件冤罪事件]、昨日見た『不毛地帯』=「大本営の作戦立案参謀であった旧大日本帝国陸軍中佐が、戦後、総合商社に入社し、経済戦争を戦い抜いていく姿を描く。
 連載中に、ロッキード事件、ダグラス・グラマン事件があり、偶然似た題材を扱った本作が話題になったが、実在するどの事件の概要とも異なるフィクション作品。
 登場人物の設定に特定のモデルは存在せず、複数のモデルからの取材をもとにした作者の想像の産物である。当時の週刊誌や経済誌によって、主人公の壱岐正元帝国陸軍中佐は伊藤忠商事の元会長瀬島龍三がモデルと繰り返されたが、山崎は瀬島がモデルそのものではなく、複数人のイメージを重ね合わせたものと断っている。
 1976年に前半部分が映画化(山本薩夫監督、仲代達矢主演)。
 監督の山本薩夫は原作で長々と描写されているシベリア抑留には偏見があるとして興味を持たず、原作にある戦闘機買い付けを巡る構造汚職の描写に興味を持ち、汚職事件は60年安保のさなかに起きた事件のため、安保闘争を絡めて描きたいと原作にないシーンを組み入れた。
 アメリカでのロケは、ロッキード、ダグラスとも撮影を拒否され、やむなく民間の航空機修理工場でロケ。
 アメリカロケは『マタギ』などで知られる後藤俊夫。本作は撮影中から話題を呼んだが、クランクインから3週間後の1976年2月にロッキード事件が発生。
 映画はロッキード事件と伴走するように製作されたが、山本は保守政党の腐敗の本質を映画に反映させようとロッキード事件に対する自身の考えを取り込もうとした。
 山本は映画製作中にこの件を自身で調べ、児玉誉士夫が介在して飛行機の機種を決める会議に源田実も田中角栄と一緒に出ていたと分かったと、原作にはない、そういうシーンを映画で出した。
 これが後に問題となった。
 クレーム
 完成試写後、原作者の山崎豊子が『サンデー毎日』1976年7月18日号誌上のグラビア特集で、原作と映画の違いを発表。
 皇の戦争責任に関して原作ではああいう型では扱ってない、山本が付け足した防衛庁空幕長が参院選に立候補する場面で、官房長官室の中で選挙資金が渡されるシーンに、白昼堂々と長官室で金のやりとりするなんて非常識なことするはずないなどのコメントを出し、小説のイメージと同じくされては迷惑なので、原作者を原案にして欲しいと訴えた。
 またこの『サンデー毎日』の記事に選挙資金が渡されるシーンの写真が掲載されたことから、これを見た源田実参議院議員が、1976年7月15日、登場人物である原田空幕長(演者:加藤嘉)が自分であるかのような誤解を招くと抗議、ナレーションのカットを要求してきた。
 現金受け渡しシーンで"ラッキードとグラマンの間にはさまって~"とナレーションが入るため、「防衛庁から参議院に出るってのは俺しかいない。原田はすなわち源田というのが明白だ」と怒り、源田の秘書が1976年7月8日に東宝松岡功副社長に直接会って抗議、また芸苑社の佐藤一郎プロデューサー、原作者の山崎豊子にも抗議し、「事実無根の中傷でありカットしないなら名誉棄損で訴える」、「公開差止めの仮処分を申請する」などと伝えた。
 山崎は「私の小説では、そんな所で金渡しをしてないし、原田は大変ヒューマニストに書いてあります。
 映画は私は知りません」と解答。山本が決定稿にかなり手を入れたため行き違いが起きた。元々映画に登場人物のそっくりさんを起用したり、名前も一字違いにしたり、時節柄、心配されていたことがやはり起きた。
 源田の後援会は会員が約10万人おり、観客動員10万人といえば、映画界では"泣く子も黙る"民音、労音に匹敵する。
 東宝としても無視できない団体であった。これに対し、東宝が山本に源田の要求を飲むよう指示したため、山本が反撥し、1976年7月21日に『天保水滸伝』撮影中の調布大映撮影所でマスメディアの取材に応じ、「東宝サイドから私に対して注文が出ているが、基本的な線では源田氏の要求に応じる意思はない」と話し、名誉棄損問題では勝てると思うが、上映日がもう決まっているため、もし上映停止仮処分が成立した場合の扱いには苦慮している等と説明し、「独立プロと違い企業が事を丸く収めようとする苦労は分かるが、昔、本庄事件を扱った『暴力の街』でも同じような体験をした。
 今、私が折れる訳にはいかない」と強く訴えた。
 日本共産党の松本善明衆議院議員が「源田議員のカットを東宝が認めるなら国会で問題にする」と発言。
 東宝は右からも左からも揺さぶりをかけられ、ニッチもサッチもゆかない状況に追い込まれた。
 東宝と芸苑社とも「映画の始めに登場人物も全部フィクションであると謳ってあるから架空の人物」と、「削除する意思なし、真向対決する」と構え、両者の対立は泥沼化する恐れがあったが、結局上映問題などもあり源田が削除を求めた現金受け渡しシーンはカットされた。
 東宝から完成試写を観て欲しいと源田側に要請があり、1976年7月27日に東京有楽町の東宝本社3階試写室で、源田の第一秘書・山崎工と弁護士が完成映画を観て、要望していた箇所のカットを確認し、源田側は「要求を受け入れ東宝側がカットしてくれた」と勝利宣言を出し、告訴を取り下げた。
 山本が山崎の原作を映画化するのは『白い巨塔』(1966年)、『華麗なる一族』(1974年)に次いで3本目で、前二作は何のクレームもなかったが、山本は「原作の非常につまらないところを、こっちが一生懸命考えてよくしたら怒られる。
 今後は山崎さんとはやれない」などと不満を述べた。本作の映画化権は東宝や芸苑社ではなく山本が持っていた。
 しかしこれら一連の騒動は大きな宣伝になり、映画興行にとってはプラスとなった。日ごろ映画を観ない年輩者や中年のアベック、政財界関係者などが鑑賞に訪れ、東宝は「『日本沈没』(1973年)に匹敵する入りになりそう」と当初は鼻息が荒かったが伸びなかった。
 ところが、山本と揉めた山崎は、後年のインタビューで、「寂しいのは使命感を持った友人が少なくなっていくことですね。『華麗なる一族』など私の作品を映画化してくださった山本薩夫監督が生きてらっしゃったら、『沈まぬ太陽』も映画にしてくださったのではないかと思いますね」と、この騒動後も山本を認めている発言をしている。」



 NHKの受信料は「見ない」「見る番組がない」のであれば支払う必要が全くないのは、常識的な見解。
 法的な拘束は民事訴訟(それ以前の段階では支払い督促の申し立てが可能で、費用は半分だが、異議の申し立てがあれば訴訟に切り替わり費用も六法記載の通りとなる。)を介さなければならない。
 すると、支払いをしない者が増えてくれば、訴訟その他の費用倒れが関の山。
 電話による督促・任意の訪問・面会に応じる必要はなく、一言も言葉を交わさないでいればNHK・訪問者の意思は相手方には通じない。
 通じないまま訴訟を申し立てたところで・・ここから先は法的手続きとしての専門的な問題になるので・・「特別送達=書留・・不在連絡票を投じても反応がない・・不在・居留守・近隣聴取等・他人と称する・・その他・・」債権者が申し立てた後現地調査をし裁判所に証明を請求し、それをもって裁判所からの証明書を所持し管轄役所に住民票の請求をするとしても・・実際に少なくなかった例では・・住民票上の住所を実調も該当者不明・・不明な居所とは異なる・・と言うケースもある。
 公示送達(掲示板に貼付)という手段を講じたところで、送達が可能な事と・・居所が不明なのな事とはマッチしない。
 これらは机上の論理ではなく、事実上未解決となる可能性に言及・・。
 そもそも、視聴できるモノを持っていれば・・即支払わなくてはならないと言う法自体が・・倫理上正しいのかは極めて曖昧と言える。最高裁の判決をもってしてもそこまでの判決に至る事が本来正しいのかは・・疑問。
 ある者は・・引越しをした際に視聴料の為に住所の届け出をしないだろうし・・面倒だろう・・。
 ワンセグ視聴料にまで頼るNHK・・無理なのでは・・。



 表題の件を忘れていた。wikipediaよりほぼ貼り付け。
 (株)TBSホールディングス
  東京都港区赤坂五丁目3番6号
  代表取締役社長 佐々木 卓
  代表取締役副社長 河合 敏明
 

 TV局と新聞社の繋がりは・・。
 先日はTV朝日系列と朝日新聞だった。
 では、TBSはどうだろう・・。
 末端までの繋がりには・・「毎日新聞社」以外では「日本経済新聞社」、「中日新聞社」、「産経新聞社=事業が完全に競合するフジサンケイグループの一員だが、ラジオに限ってCMを放送している。」との間にもつながりがある。
 中日新聞は「東京新聞」でもある。
 衛星放送の独立局である日本BS放送(BS11・ビックカメラグループ)。
 
 メディア・コンテンツ事業
株式会社TBSテレビ(100%)
株式会社TBSラジオ(100%)
株式会社BS-TBS(100%)
株式会社TBSスパークル(100%)
株式会社TBSグロウディア(100%)
株式会社TBSアクト(100%)
株式会社THE SEVEN(100%)
株式会社CS-TBS(90.0%)
TOKYO BROADCASTING SYSTEM INTERNATIONAL, INC.(100%)
株式会社Seven Arcs(100%)
株式会社TBSメディア総合研究所(100%)
TCエンタテインメント株式会社(51%)
株式会社日音(100%)
株式会社マンガボックス(51%)
ライフスタイル事業
株式会社スタイリングライフ・ホールディングス(51%)
株式会社ライトアップショッピングクラブ(スタイリングライフ・ホールディングス100%)
株式会社CPコスメティクス(同上)
不動産・その他事業
赤坂熱供給株式会社(70%)
株式会社TBSヘクサ(100%)
株式会社TBS企画(100%)
株式会社緑山スタジオ・シティ(100%)
株式会社TBSサンワーク(100%)
株式会社やる気スイッチグループホールディングス(78%)
持分法適用会社
碧芯珞(上海)化粧品有限公司(49.0%)
株式会社リトプラ(24.7%)
株式会社U-NEXT(20.0%)
株式会社WOWOW(15.9%)
その他出資会社
東京エレクトロン(前述) やキッズステーション、スカパーJSATホールディングス、パスコ、JOCDN、JNN各社を含む70社程度に出資している。

過去にはキングレコード、イー・モバイル(現:ソフトバンク)にも出資していた。

関連法人
学校法人東放学園
東放学園専門学校、東京アナウンス学院などを運営している。放送・映像・音響技術者、アナウンサー・ナレーター、テレビタレントなど、メディア関連人材の養成機関である。東京放送の教育事業本部を母体として発足した経緯があり、実習用放送機材にTBSや東通の払い下げが使われている。学校法人のため、TBSHDとの資本的な関係こそ無いものの、今もなおTBS放送センターの現場実習や講師や管理職の大半をグループ社員からの出向者としている等でTBSグループとの繋がりは深い。
毎日新聞グループホールディングスとの関係
1974年、在京キー局各社と新聞社の明確な系列の資本関係を明らかにするにあたり、TBSは毎日新聞社に資本関係と報道協定関係を一本化した。その後毎日新聞社本体の経営環境が悪化し、1977年の経営の上下分離化により新たに設立された「毎日新聞株式会社」 にTBSが資本参加するが、毎日新聞社は保有していたTBSの株式の大半を、準キー局の毎日放送(現・MBSメディアホールディングス)に譲渡。これにより新聞資本は薄らいだが、引き続きラジオ・テレビのニュース素材の提供などは一部毎日新聞社から受けている。実際、『テレポートTBS6』においても、番組のごく初期に取材協力という形で番組に協賛し、東京本社の編集委員がコメンテーターを担当していた時期があった。

同様にMBSメディアホールディングス(旧・毎日放送)についても、もとは毎日新聞の傘下にあった放送局であったが、毎日新聞の再建を行うにあたり、毎日新聞新社への資本出資関係を結ぶとともに、毎日新聞社保有株をTBSホールディングス(旧・東京放送)に譲渡している。こちらでも毎日新聞からのニュース素材の提供は継続されたほか、MBSテレビの夕方のニュース番組でも毎日新聞社のスポンサー協賛を受けており、1994年8月までは『MBSナウ』において取材協力という形で協賛していた。福岡のRKB毎日ホールディングス(旧・RKB毎日放送)はMBSメディアホールディングスに次ぐ第2位の筆頭株主であり、JNN系列において毎日新聞社との関係が最も深く、こちらも夕方のニュース枠において、取材協力による協賛を受けている。

毎日新聞社と放送局との報道関係では衛星放送の独立局である日本BS放送(BS11・ビックカメラグループ)が毎日新聞グループであったメガポート放送を吸収合併した影響で最も関係が深いとされており、日本BS放送の本社社屋は毎日映画社と併設されている。また、MBSラジオとサービスエリア圏が一部重複し、JRN・NRNクロスネット加盟局の和歌山放送 も、毎日新聞社が筆頭株主で報道協定を結んでおり、夕方の『wbsニュース5』でも毎日新聞社協賛の企画が放送されている。

読売新聞社との関係
開局当初から1974年までは、上記の通り朝日・毎日・読売の全国紙大手3社との共同出資であったのが、毎日新聞と提携先を一本化した後の1979年に、読売新聞社(当時の東京本社)とラジオ関東(現・ラジオ日本)から、読売ジャイアンツ主管試合のラジオ中継 を購入する見返りに、TBS側は毎日新聞社とは別に、ラジオ限定で読売新聞社との協賛を結んだニュースコーナーを、主に日中のワイド番組のコーナーとして放送した時期があった。またテレビの「情報デスクToday」では一貫して読売出身の秋元秀雄がメインコメンテーターを務めていた。

かつてのグループ会社
TBS興発
TBSは事業多角化の一環として、本社北隣にテナントビル「TBS会館」を建設するが、この会館の管理を目的に、1964年(昭和39年)10月、TBS100%出資の子会社「TBS会館」を発足させた。当初はこの会館の貸ビル事業のみを行っていたが、66年には不動産ブームの到来とともに、社名を「TBS不動産」に変更し、本格的に不動産事業に進出し、さらに72年には「TBS興発」に改名し、レジャー産業にも手を伸ばした。

小田急小田原線柿生・美山台の宅地分譲(約6万平方メートル)、逗子・披露山庭園住宅、塩尻・塩嶺高原別荘分譲などを始め、マンションの分譲、原宿の東郷記念館、東郷文化会館(パレフランス)、新潟・TBS石打スキー場、大和・浦和でのボウリング場、戸田フィッシングパークなど、不動産事業を手始めにファッションビジネスからレジャー産業分野までに経営を拡大した。だが、72年8月に買収したハワイのインペリアル・ハワイホテルは、買収資金の殆どを借入金で賄ったことから、金利負担が重く、TBS本社との共同事業ではじめた北海道の苫小牧カントリークラブ、TBS樽前ハイランド別荘分譲などは、建設費の高騰と積雪のための長期閉鎖の影響で、資金繰りの苦しさは輪をかけた。そのため、どの当社管理施設であっても外注制作のテレビ映画を含んだTBSが製作したテレビドラマのロケ地とすることが多かった。

不動産ブームの渦中には黙っていても儲かったが、74年末から不動産ブームも終息してくると、厳しい金融引き締めの中で、TBS興発の不動産部門も売上が思わしくなくなり、業績の足を引っ張った。そのため親会社であるTBS本体も50億円の保証をしており、本体の金繰りが苦しい時に、子会社の面倒まで見切れない状況となった。こうしたことから、TBSの今道潤三、諏訪博の両首脳が三井銀行の小山五郎社長をなかに立て、三井不動産の江戸英雄、坪井東の会長・社長にTBS興発の売却を依願し、1975年(昭和50年)4月1日、TBS興発は三井不動産に譲渡された が、TBS会館の管理は東京放送の直営に移管された。

TBSブリタニカ
「TBSブリタニカ」も参照
出版社。基はイギリスのエンサイクロペディア・ブリタニカ社、並びに酒造メーカー・サントリーの合弁事業で、『ブリタニカ国際大百科事典』日本語版の翻訳・発売が目的だった。のちにTBSのテレビ番組と連動したメディアミックス書籍も出版したほか、『FIGARO japon』『ニューズウィーク日本版』など雑誌も手掛けるようになり事業を拡大した。

2000年にブリタニカ社が新たな日本法人ブリタニカ・ジャパンを設立して百科事典関連事業を移管し、残りの事業も2002年に阪急電鉄に事業譲渡して阪急コミュニケーションズとなる。その後阪急阪神東宝グループは当社をカルチュア・コンビニエンス・クラブに再譲渡し、現在はCCCメディアハウスの社名で事業を続けている。

スポーツ関連
横浜F・マリノス - 公式スポンサー
横浜DeNAベイスターズ - 2002年から2011年までオーナー企業(後述)
日本女子オープンゴルフ選手権競技 - 1968年度第1回大会から70年度第3回大会まで、『TBS女子オープンゴルフ』として東京放送が主催。
三井住友VISA太平洋マスターズ - 三井住友カード、太平洋クラブと共同主催
プロ野球との関係
2002年(平成14年)1月26日から11年12月2日まで、セ・リーグ所属のプロ野球チーム・横浜ベイスターズ(現:横浜DeNAベイスターズ)のオーナー会社であった。 同球団との関わりは古く、60年に前身の大洋球団と独占契約を締結して、放映権を獲得した。これは日本テレビの後楽園球場独占に対する対抗策として行ったものであり、フジテレビやNETテレビ(現:テレビ朝日)、NHKには各局が持つ放映権と引き替えの条件付で解放した。その後、前述の各局が放送できない年数試合については日本テレビ・東京12チャンネル(現:テレビ東京)にも開放した。

しかし、1975年(昭和50年)にNETテレビが大洋球団のテレビ独占中継権を獲得。これにより一部のカードは78年までNET→テレ朝経由での放映権購入となる。次いで78年にラジオの巨人戦中継権絡みでニッポン放送が大洋球団のラジオ独占中継権を獲得したため、TBSテレビ・ラジオの優位は崩れた。なお、同年10月に国土計画(現:コクド)が45%保有していた大洋球団株を放出することになり、その約15%を引き受けた。

1992年(平成4年)、「横浜ベイスターズ」に球団名を変更した同球団を、01年のオフにオーナー会社であったマルハ(現:マルハニチロ)が手放すことになり、当初ニッポン放送が買収することとなっていたが、野球協約に抵触していた(ニッポン放送の関連会社であったフジテレビがヤクルト球団株式を20%保有していた)ために、東京放送およびBS-i(現:BS-TBS)がマルハから株式を取得して、オーナー企業になった。

上述のように、東北楽天ゴールデンイーグルスのオーナー企業である楽天が東京放送株の取得を進めていた時期があったため、野球協約の規定により球団を手放す可能性があった。また、当時はUSENなどが球団買収に食指を動かしていた。結局、楽天絡みの懸念は払拭されたものの、肝心の球団経営に失敗したため、ディー・エヌ・エーに持株の大部分を譲渡して、球団経営からは撤退した。親会社でなくなった2012年(平成24年)以降もベイスターズの株を保有しており、テレビ・ラジオ中継を継続してきた。しかし、ベイスターズ戦を含むプロ野球のラジオ中継からは、17年シーズン限りで撤退し(ベイスターズ主催試合のJRN系列局向け裏送りのみ継続)、現在はテレビ中継のみ継続している。



 時間も無くなったので文豪作品を掲載する。

 秋風
飯田蛇笏

 子供の頃「坊やん」と謂はれて居た小悧好な男があつた。彼の家はさして生計が豊かといふわけではなかつたが、さうかといつて苦しいといふわけではなく、田畑も少しは人にも貸して尚自分の家でも充分な耕作をして居たやうなところから、女ばかり引きつゞいて生れた後にひよつこり男の子として彼が生れた家庭は、ひた愛でに愛でつくして、某なにがしといふりつぱな名前があるにも拘らず「坊や、坊や」と呼び呼びした。隣家のものが先づ「坊やん」と呼び出した。何時の間にか村中誰彼となく「坊やん、坊やん」と呼ぶやうになつてしまつた。
 坊やんは頭が少しくおでこで、ひきしまつた口元から、頬のあたりがほんのりと薄くれなゐの色をおび、すゞしげな眼をもつた容子が如何様紅顔の美少年であつた。どんな他愛ない事柄でも必ず面白さうに話すおぢいさんの肩車に乗つて、時には大きな蟇を赤裸にしたのをぶら下げたり鰻を棒の先きにくゝりつけて田圃路を帰つて来ることなどもあつた。坊やんはこのおぢいさんのみならず家族のすべてに可愛がられ山間の僻村は僻村だけに珍といふ珍、甘いといふ甘いものを喰はせられた。鰻の如きは焼き方から蒸しの具合に好味があらうけれども蟇の如きに至つては、焼いて醤油をたらすや即ち彼のぜいたくな大谷光瑞伯をして舌鼓を打たしむる底の妙味を有するといへば坊やんさぞ満足して舌鼓を打ちつゝ大きくなつたことであらうと思ふ。
 坊やんが青年期に入らんとするとき、坊やんの父は病を得て死んだ。養蚕に熱心なあまり、夜半の天候を気づかひつゝ毎夜々々庭前に筵を敷いて、わざと熟睡の境に入ることが出来ないやうに木枕をして寝て居た。空が僅かにかき曇つて雨がぽつりと仰向いた顔へ落ちたかと見ると忽ち坊やんの父は跳ね起きて桑の用意にかゝつた。そんな事からからだを弱くして死んでしまつたと近隣のものが言ひ伝へた。
 坊やんは蟇や鰻でそだてられたお蔭にめき/\大きく丈夫な体格になつていつて、多くの青年の間へ交つても天晴かゞやかしい風※(「蚌のつくり」、第3水準1-14-6)を見せるやうになつた。
 又、おぢいさんがころりと死んだ。其のおぢいさんが鳩や雉子を打つ為めに、打つて坊やんに与ふる為めに、あやまつて自分の掌を打ち貫いた為めに、瓢軽な童謡にのこされたおぢいさんは他愛もなく病死してしまつたのである。と又翌くる年の夏、大出水の為めに谷川ばたの畑へ水防に出て居た坊やんの母が、どんぶり濁流へ落ちるとそのまゝ川下へ流れて行つて溺死してしまつた。山間僻村の最低地域をたゞ一筋流れて居る谷川ばたに其処に一つ此処に一つ僅かにくつ付いて居る畑の水防などに出るものは、坊やんの母とその時一緒に行つて居た坊やんの家の傭人との外には絶えてなかつた。坊やんの母といはるゝ人も平常はさほど慾深な――少しの荒畑の畔がかけるのを惜むものゝやうに思はれても居なかつたのであるが――。
 昔、坊やんの家の菩提寺の所有であつた古墓地を、坊やんのおぢいさんが手に入れてだん/\それを開墾し今は上等な桑畑になつて居る。髑髏の大きな眼窩や梭のやうな肋骨の間へ根を張つた桑は附近の桑畑より余分に青々と茂つて居た。そんな無縁仏に罪をつくつて居るが為めに凶事がつゞくのだといふやうに口さがない山賤が茶を飲みあふにつけ煙草を吸ひあふにつけ話しあつた。
 それから二三年過ぎると「坊やん」が一度神がくしにあつた。村人がさがしに行くと坊やんは青ざめた顔をして渓流を隔てた向ふの山の中腹に立ちつくして居た。軈て坊やんは妻をめとる幸運に向つて、その花妻がまた村人のほめものであつた。美しいかほかたちをそなへた上に人並すぐれた働きもので、坊やんと坊やんのおばあさんと坊やんの妹たち二三人の家庭の中に女王のやうに振舞つた。坊やんは身も世もなく妻を可愛がつた。
 二三年可も不可もなく坊やんの家庭が平穏につゞけられていつた。其の中に坊やんが時々病気が起つて卒倒するといふやうな噂がたつた。事実病気の為めに苦しめられた坊やんはさんざん田舎医師へ通ひつめた末、人のすゝめるまゝに灸を[#「灸を」は底本では「炙を」]すえてみたり滝にうたれてみたり、神詣でをしたりした。其の間に、美しいかほかたちの大きな体格をもつた妻のところへ、坊やんの甥が時々遊びに来た。甥とは言ひながら坊やんの長姉である人の子は坊やんと年齢の差が僅かに二ツ三ツであつた。村人の風評に上るやうになつてから間もなく坊やんの妻は、坊やんの甥に手を引かれて隣国の信濃へしばらく身をかくした。坊やんはそれからといふもの次第に精神が錯乱していつて、鉈をもつてわけもなく家族を逐ひ廻してみたり、日傭取りの男女をつかまへて擲ぐりつけたりした。気狂ひとして村人から取扱はれてから三四年の月日が過ぎた。坊やんの妻であつた女と、坊やんの甥である男も今は人の噂を踏みにぢつて、大ぴらに村へ帰つてから空家を借りて睦まじく生活をつゞけて居た。坊やんは火をつける事を好んで、毎日家族の油断をねらひすましては燧火をすつて藁屋敷の廂などへつけ/\したが、いつも家族の誰かに発見せられては消されてしまつた。
 丁度、立秋の気がみなぎつて来た或る日の正午頃、山村の中所に吊られた鐘が慌しく鳴らされた。
 私も庭前へ出て見た。
 坊やんの家のあたりから天へ高く沖する煙が見えた。矢庭に馳せていつて見ると、坊やんの大きな藁家は天井一杯火になつて、東の窓口から濛々と黒煙が焔を交へて吐き出されて居た。桑摘みに出かけた家族の留守をねらつて坊やんは麦藁の束に火をかけ、その火の束を振りかざして屋内どこと定めず天井へまでかけ上つて焔を移して歩いた。而うして見る見る焼けつくさんとする我が家を仰いで、倒れんばかり身を傾けつゝ満面よろこびの色を呈して踊り歩いた。身内の男がかけつけて来て力まかせに坊やんの頭といはず背といはず叩きつけて居る下に坊やんは酔どれのやうに身をぐた/\させて手をたゝきながらつきせず踊つた。
 海嘯つなみのやうに人の波が押し寄せる中に家は火の海になつて燃え落ちた。



二銭銅貨
黒島伝治
     一

 独楽こまが流行はやっている時分だった。弟の藤二がどこからか健吉が使い古した古独楽を探し出して来て、左右の掌てのひらの間に三寸釘の頭をひしゃいで通した心棒を挾んでまわした。まだ、手に力がないので一生懸命にひねっても、独楽は少しの間立って廻まうのみで、すぐみそすってしまう。子供の時から健吉は凝り性だった。独楽に磨きをかけ、買った時には、細い針金のような心棒だったのを三寸釘に挿しかえた。その方がよく廻って勝負をすると強いのだ。もう十二三年も前に使っていたものだが、ひびきも入っていず、黒光りがして、重く如何にも木質が堅そうだった。油をしませたり、蝋を塗ったりしたものだ。今、店頭で売っているものとは木質からして異ちがう。
 しかし、重いだけ幼い藤二には廻し難かった。彼は、小半日も上り框かまちの板の上でひねっていたが、どうもうまく行かない。
「お母かああ、独楽の緒を買うて。」藤二は母にせびった。
「お父うにきいてみイ。買うてもえいか。」
「えい云うた。」
 母は、何事にもこせ/\する方だった。一つは苦しい家計が原因していた。彼女は買ってやることになっても、なお一応、物置きの中を探して、健吉の使い古しの緒が残っていないか確めた。
 川添いの小さい部落の子供達は、堂の前に集った。それぞれ新しい独楽に新しい緒を巻いて廻して、二ツをこちあてあって勝負をした。それを子供達はコッツリコと云った。緒を巻いて力を入れて放って引くと、独楽は澄んで廻りだす。二人が同時に廻して、代り代りに自分の独楽を相手の独楽にこちあてる。一方の独楽が、みそをすって消えてしまうまでつゞける。先に消えた方が負けである。
「こんな黒い古い独楽を持っとる者はウラ(自分の意)だけじゃがの。独楽も新しいのを買うておくれ。」藤二は母にねだった。
「独楽は一ツ有るのに買わいでもえいがな。」と母は云った。
「ほいたって、こんな黒いんやかい……皆なサラを持っとるのに!」
 以前に、自分が使っていた独楽がいいという自信がある健吉は、
「阿呆云え、その独楽の方がえいんじゃがイ!」と、なぜだか弟に金を出して独楽を買ってやるのが惜しいような気がして云った。
「ううむ。」
 兄の云うことは何事でも信用する藤二だった。
「その方がえいんじゃ、勝負をしてみい。それに勝つ独楽は誰れっちゃ持っとりゃせんのじゃ。」
 そこで独楽の方は古いので納得した。しかし、母と二人で緒を買いに行くと、藤二は、店頭の木箱の中に入っている赤や青で彩った新しい独楽を欲しそうにいじくった。
 雑貨店の内儀おかみに緒を見せて貰いながら、母は、
「藤よ、そんなに店の物をいらいまわるな。手垢で汚れるがな。」と云った。
「いゝえ、いろうたって大事ござんせんぞな。」と内儀は愛相を云った。
 緒は幾十条も揃えて同じ長さに切ってあった。その中に一条すじだけ他ほかのよりは一尺ばかり短いのがあった。スンを取って切って行って、最後に足りなくなったものである。
「なんぼぞな?」
「一本、十銭よな。その短い分なら八銭にしといてあげまさ。」
「八銭に……」
「へえ。」
「そんなら、この短いんでよろしいワ。」
 そして母は、十銭渡して二銭銅貨を一ツ釣銭に貰った。なんだか二銭儲けたような気がして嬉しかった。
 帰りがけに藤二を促すと、なお、彼は箱の中の新しい独楽をいじくっていた。他ほかから見ても、如何にも、欲しそうだった。しかし無理に買ってくれともよく云わずに母のあとからついて帰った。

     二

 隣部落の寺の広場へ、田舎廻りの角力が来た。子供達は皆んな連れだって見に行った。藤二も行きたがった。しかし、丁度稲刈りの最中だった。のみならず、牛部屋では、鞍をかけられた牛が、粉ひき臼をまわして、くるくる、真中の柱の周囲を廻っていた。その番もしなければならない。
「牛の番やかいドーナリヤ!」いつになく藤二はいやがった。彼は納屋の軒の柱に独楽の緒をかけ、両手に端を持って引っぱった。
「そんなら雀を追いに来るか。」
「いいや。」
「そんなにキママを云うてどうするんぞいや! 粉はひかにゃならず、稲にゃ雀がたかりよるのに!」母は、けわしい声をだした。
 藤二は、柱と綱引きをするように身を反そらして緒を引っぱった。暫らくして、小さい声で、
「皆な角力を見に行くのに!」と云った。
「うちらのような貧乏タレにゃ、そんなことはしとれゃせんのじゃ!」
「えゝい。」がっかりしたような声でいって、藤二はなお緒を引っぱった。
「そんなに引っぱったら緒が切れるがな。」
「えゝい。皆のよれ短いんじゃもん!」
「引っぱったって延びせん――そんなことしよったらうしろへころぶぞ!」
「えゝい延びるんじゃ!」
 そこへ父が帰って来た。
「藤は、何ぐず/\云よるんぞ!」藤二は睨みつけられた。
「そら見い、叱らりょう。――さあ、牛の番をしよるんじゃぞ!」
 母はそれをしおに、こう云いおいて田へ出かけてしまった。
 父は、臼の漏斗に小麦を入れ、おとなしい牛が、のそのそ人の顔を見ながら廻っているのを見届けてから出かけた。
 藤二は、緒を買って貰ってから、子供達の仲間に入って独楽を廻しているうちに、自分の緒が他人のより、大分短いのに気づいた。彼は、それが気になった。一方の端を揃えて、較べると、彼の緒は誰のに比しても短い。彼は、まだ六ツだった。他の大きい学校へ上っている者とコッツリコをするといつも負けた。彼は緒が短いためになお負けるような気がした。そして、緒の両端を持って引っぱるとそれが延びて、他人のと同じようになるだろうと思って、しきりに引っぱっているのだった。彼は牛の番をしながら、中央の柱に緒をかけ、その両端を握って、緒よ延びよとばかり引っぱった。牛は彼の背後をくるくる廻った。

     三

 健吉が稲を刈っていると、角力を見に行っていた子供達は、大勢群がって帰って来た。彼等は、帰る道々独楽を廻していた。
 それから暫らく親子は稲を刈りつゞけた。そして、太陽が西の山に落ちかけてから、三人は各々徒荷かちにを持って帰った。
「牛屋は、ボッコひっそりとしとるじゃないや。」
「うむ。」
「藤二は、どこぞへ遊びに行いたんかいな。」
 母は荷を置くと牛部屋をのぞきに行った。と、不意に吃驚びっくりして、
「健よ、はい来い!」と声を顫わせて云った。
 健吉は、稲束いなたばを投げ棄てゝ急いで行って見ると、番をしていた藤二は、独楽の緒を片手に握ったまま、暗い牛屋の中に倒れている。頸がねじれて、頭が血に染っている。
 赤牛は、じいっと鞍を背負って子供を見守るように立っていた。竹骨の窓から夕日が、牛の眼球に映っていた。蠅が一ツ二ツ牛の傍でブン/\羽をならしてとんでいた。……
「畜生!」父は稲束を荷って帰った六尺棒を持ってきて、三時間ばかり、牛をブンなぐりつゞけた。牛にすべての罪があるように。
「畜生! おどれはろくなことをしくさらん!」
 牛は恐おそれて口から泡を吹きながら小屋の中を逃げまわった。
 鞍は毀こわれ、六尺は折れてしまった。


 それから三年たつ。
 母は藤二のことを思い出すたびに、
「あの時、角力を見にやったらよかったんじゃ!」
「あんな短い独楽の緒を買うてやらなんだらよかったのに!――緒を柱にかけて引っぱりよって片一方の端から手がはずれてころんだところを牛に踏まれたんじゃ。あんな緒を買うてやるんじゃなかったのに! 二銭やこし仕末をしたってなんちゃになりゃせん!」といまだに涙を流す。……
(大正十四年九月)


 

「恐れてはいけません。暗いものをじっと見つめて、その中から、あなたの参考になるものをおつかみなさい。夏目漱石」

「我々を走らせる軌道は、機関車にはわかっていないように我々自身にもわかっていない。この軌道もおそらくはトンネルや鉄橋に通じていることであろう。芥川竜之介」

「正しく書く事によって初めて考えをより明瞭にかつ確実にすることができる。志賀直哉」

「われ志を得ざるとき忍耐この二字を守れり。
 われ志を得んとするとき大胆不敵この四字を守れり。
 われ志を得てのち油断大敵この四字を守れり。徳川家康」

「自分の心は秤のようなものである。人の都合で上下したりはしない。軍師諸葛亮孔明」

「имн】Российской】 Федерации】。 Ворон】 ворону】 глаз】 не】 выклюет】.」

「义勇军进行曲。三个臭皮匠顶个诸葛亮」

「애국가。아침은 빛나라」

「by europe123」