タロットリーダー碧海ユリカのスピリチュアルコラム 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 -193ページ目

ポジティブ思考Ⅱ

(承前)前回見たように、いくら表面をつくろっていても内心の不安を見ないようにしていたり押し隠していたりしたのでは何の意味もありません。心底からそう感じられるのでなければ、今起きていることを「自分にとって良いことなのだ」と思い込もうとする必要もないのです。これはあまり面白くない、嬉しくないことだが今は受け容れる。そして良い方に向かっていると、いつかはこれも自分にとってプラスだったのだと思える日が来ると信じて、そのときにできることを一生懸命楽しんでしていれば良いのです。それが安心感をもたらします。ポジティブな姿勢が正しく作用しているかどうか見極める一つのポイントはそこに「安心感」があるかどうか、です。これは「願掛け」の項で書いたことと同じです。安心感がある、つまり虚勢でなく本当の意味での自信があるかどうか。

わが身に何か重大なトラブルが生じたようなとき、内心はとても不安なのに人に対しては「大丈夫、平気よ」と言ってみせるのは虚勢ではなく相手に対する一種の礼儀であることもあり得ます。この心がけから言う場合は自分の弱さから目を背けているのとは違うので、それらの言葉を繰り返し口にするうちに段々自分でも「大丈夫」な気持になってきて不思議と気持が落ち着いたりするものです。しかし虚勢はどこまで行っても虚勢であり誤魔化しなのです。だったら素直に「全く参った、自信を失った。でもまあこれから頑張るわ」とでも言えばよい。こんなことは当たり前すぎることなのですが、スピリチュアルだとかポジティブ思考などに変にはまってしまうとこの当たり前のことができなくなるのです。この経験には何か意味があるのだ!と強引に妙な意味づけをして無理やり自分を納得させようとするケースもありますが、意味などすぐにわからなくても良いのです。確かにリーディングの中でこのような意味づけが出てくることもありそれが理解の助けになることは大いにありますが、たいていは本人がそれを本当に実感できるのはずっと後になってからです。(この項続く)

スピリチュアルリーディングについて

これは、PC版公式HPに掲載している文章ですが、PCをお持ちでない方のためにここに転載いたしました。


スピリチュアルリーディングといっても何か特別な難しいことと捉える必要はありません。タロットカードを用いたリーディングですが、あなたの日常生活とかけ離れたものではなく、むしろ日常生活における様々な悩みや問題を深く掘り下げて読み取ることにより気づきを促し意識の変革を助けるためのものです。ですからクライアントの質問に対する直接的な答えだけでなく、その質問の背後にある問題点や重要なテーマをも読みこんで的確なアドバイスを致します。ごくありきたりの質問の中に本人も気づかないような人生の大きなテーマが潜んでいることもあるのです。

人生には、ただ楽しくハッピーなことばかりではなく乗り越えるべき試練もあります。これらは、人間として成長しより深い幸せや喜びを味わうために必要なものです。しかし、多くの人がそういうことではない、本来は不要な苦しみや悩みを抱えています。これは全て自分自身が生み出しているものであり、気づきと理解を得ることによって手放せるものなのです。つまり、あなたの幸福を妨げている原因の殆どはあなた自身が生み出している、とも言えます。例えば、ただ「あなたは生まれつき恋愛運がありません」と言われて納得できますか?何故そうなのか、どうしたら変わるのか知りたくありませんか?

リーディングに際してはカードに出たままを直観で読み取りお伝えするので、占術家個人の考え方や世間の常識・道徳的価値判断などは一切持ち込まれません。一般的な意味での良い悪いということにこだわらず、クライアントが自分にとってより良い方向に進めることを一番の目的とし、最終的にはクライアント本人が自分でベストな決断や選択ができるような情報を提供いたします。必要に応じてチャクラの状態や現在あなたを助けてくれるヒーリングストーンのアドバイスも致します。

ポジティブ思考Ⅰ

何でもポジティブに捉えなさい、何があっても良いほうに考えなさいというのは、実行できるかどうか別として、もはや常識に近いほどに浸透しています。いやなことや悪いことがあっても「もうダメだ」などとは思わずに「大丈夫、うまく行っているのだ」と思いなさい、そうすれば本当にそのようになるから、という考え方です。実際にそういう体験をした人もいる一方でそんな都合のいい話があるかと疑う人もいるでしょうが、「その人が信じている通りの経験をする」という意識の作用から言ってもこの考え方は理に適っています。

私のところにいらっしゃる方の殆どは現象をネガティブに捉えて悩んでいます。しかし見てみると大抵は本人の思い込みであり、実際にはそう深刻ではないことが多いのです。ところが、稀に逆のケースがあります。例えば恋愛で明らかに相手が冷めてしまっていて避けられているのに本人が「大丈夫、彼はただ忙しいだけなのよ」とか「私のことがあまりに好きなので臆病になっている」とか言うのです。本当にそう信じていれば私のところに相談には来ないでしょうから、どこかで不安を感じてはいるのでしょう。それを表面的なポジティブさで覆い隠しているだけなのです。これでは、「信じていればうまくいく」どころか(実際には信じてもいないわけですが)そういう彼女の無神経さがますます相手を遠ざけるだけでしょう。事業が明らかに傾いているのに「平気平気」と言っていてますます大変なことになってしまう人もいます。

私は、「心配するべきだ」と言っているわけではありません。しかし上記のような「現状認識のできない勘違い」とポジティブ思考とは完全に似て非なるものです。これを間違えると本当にとんでもないことになってしまいます。この両者の違いは要するに「リラックスと単なる気の緩みとの違い」「自信と虚勢の違い」です。本当にリラックスしている時は冷静で注意力もありますから状況を客観的かつクリアに見ることができます。うまく行っていなければ「うまく行っていない」とはっきりわかる。そしてその事実を認めて受け入れ、そのことで心を乱されたりせずに何か対策を講じた上でーそれがただ待つことであったとしてもー良い結果につながると信じられるのです。

一方「気の緩み」の場合は散漫になっているので、状況を正確に把握することもできず、ただの怠慢から自分にとって楽な捉え方を選んでいるに過ぎません。こういう人に限って本当にうまく行っている時はそれに気づかずチャンスを逃したりするのです!いずれにしても現状認識ができない上に怠慢。或いは怠慢だから現状認識ができないと言ったほうが正しいかもしれません。

今うまく行っていないとしても落ち込んだりしないで「大丈夫、今に何とかなる」と信じて日々努力をする、信じているから努力も楽しくなる、それによって自分の波動も上がるというのが真のポジティブ思考です。(この項続く)

運と意識Ⅲ

(承前)非常によくある例ですが、さまざまな理由やきっかけによって自己評価がとても低くなってしまった人々がいます。簡単に言えば意識下に「自分は幸せになる価値がない、自分にそんな素晴らしいことが訪れるわけがない」という設定があるのです。更に、私はダメな人間だと深いところで決めている場合、こんなにダメな人間なのだから罰を受けるべきである、という設定まで加わっていることもあります。こういう人は無自覚なままに自分にダメージを与えるような、つまり自分を罰するかのような経験を選んでいきます。幼い時にちょっとしたことでひどく叱られた経験が元で「私はダメな人間、罪深い人間」という自己評価ができてしまった人もいます。これは、ただ自分にダメージを与えるだけでなく、自分の罪深さを贖おうという気持ちが意識下にあるためにいつも自己犠牲のような損な役回りばかりを引き受ける羽目になったり、ついつい悪いことに加担して良心の呵責にさいなまれ、ますます自責の念を強化していくというパターンも呼び込むことがあります。

これらは全て本人が「勝手に決めてしまった」ものなので、他人から見れば「まさかあの人が」と思われるような人でも案外自己評価が低かったりするのです。

このような「設定」をクリアにするのに前世療法が使われることもありますが、私の経験では大抵の場合幼児体験まで遡れば十分な効果があるようです。多くの人が幼少時に心に何らかの傷を負っています。特別過酷な環境で育ったり虐待を受けたりしたわけでもなく、ごく普通の恵まれていると言ってもいいような環境で育った人々でも、本当にちょっとした出来事が深く刻印されてしまうケースがあるのです。大人が軽い気持ちで「そんなことをしたら他人に嫌われるよ」と言ったとか、ひどい場合には他の子が怒られて「あの子は本当にダメな子だ」と言われているのに自分のことだと思い込んでしまったりして、ネガティブな観念がドーンと深く入り込んでしまうケースもあります。大事件に遭った、とも限らず非常に小さなことがきっかけになることも多いゆえ本人も普段は忘れてしまっているのですが、それでも本人にとっては非常に重要な出来事なので「すごくささいなことなのに何故か憶えて」いて、完全には忘れていない場合が多いのです。感情を伴わないただの「情景(scene)」としてのみ憶えていることもあります。もしもそういう記憶がある人がいたらちょっと見つめてみるといいかもしれません。

そこで「なあんだ、あんなことを私はずっと気にしていたのか」と心底から腑に落ちればその瞬間に変容が起きることだってあるのです。そういう意識状態になると、過去のその経験において自分にダメージを与えた相手のことを責める気持ちは全く生じません。また、「こんなことをひきずっていたのか」と言って自分を責める気持も生じません。これが、よく言われる「理解と許し」です。

本のご紹介「弓と禅」オイゲン・ヘリゲル

Eugen Herrigel, 柴田 治三郎, オイゲン ヘリゲル
日本の弓術
オイゲン・ヘリゲル, 稲富 栄次郎, 上田 武
弓と禅 改版

この本は、20代の頃親しかった人に薦められて読み非常に感銘を受けた一冊です。その頃まで私は占いというものに全く興味がないばかりかむしろバカにしていたのですが、この人に突然「それが貴方の天職である」と予言?されたのです。その場では抵抗し無視黙殺しましたが、結局2年後に全く予想もしない流れが起こり、この道に入ってしまいました。


オイゲン・ヘリゲルはドイツ人の哲学研究者(観念論・カント)で、1924年に東北帝国大学の哲学教授として来日しました。彼は日本の「禅」を学びたかったのですが、「外国人がいきなり禅を学ぶのは難しい。日本の武道や芸道は全て禅に通じているので、そこから入ったほうがよい」とアドバイスを受けて弓道を始めました。

ところが、師匠は何も教えてくれない。歩き方や座り方、お辞儀の仕方などばかりで、「こうすれば的に当たる」訓練などまるでなし。それどころか「的に当てようとしてはいけません」「狙ってはいけません」などと言われ、ヘリゲルは完全に混乱してしまいます。そして努力というより、何をどう努力してよいかわからない大変な苦悩を乗り越え、彼はついにある境地に至るのです。

これは、身体を含めた「ある意識の状態」とも言えるもので、通常の「こちらからあちらに向かっていく」のとは違う、「こちらがいきなりあちらになる」あるいは「こちらもあちらも何もなくなる」ようなもの。すると矢は自然に的に当たるのです。


これは私がリーディングの現場で体験している意識の状態に似ています。このカードはこういう意味だからこうなる、というわけでもなく「これこれこうです」と読めてしまうのは、霊感と呼ぶ人もいるかもしれませんが、私の中では「あちらもこちらもなくなった状態」なのです。

仕事でもスポーツでもあらゆることに応用できるものだと思います。非常に読みやすい本なので是非お勧めいたします。