タロットリーダー碧海ユリカのスピリチュアルコラム 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」

20年間にわたり独自のタロットリーディングを研究、「運」より「意識」を重視し、あらゆる分野において深い洞察と直観に基づく的確なリーディング、ポジティブで元気の出るリーディングを展開して定評の碧海ユリカによる気づきのヒント集

2010年からは、スピリチュアルの古典「A Course in Miracles(「奇跡のコース」原書を読みつつ解説する試みもスタート、スピリチュアルな考え方の本質に触れるチャンスとしてご利用くださいませ。


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2017-08-25 09:48:42

土曜日が原宿(神宮前)になりました

テーマ:ブログ

2017年9月1日から

土曜日の鑑定場所が青葉台から原宿(神宮前)に変更されました。

火曜日 金曜日 土曜日が原宿になりました

完全予約制にさせていただいております。予約希望のかたはHPの「スケジュール」ページをご覧くださいませ

よろしくお願い致します

2017-07-27 23:33:00

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テーマ:ブログ

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2015-12-22 11:11:02

「奇跡のコース」とサイキック能力2

テーマ:奇跡のコース学習についてあれこれ

奇跡のコース」と サイキック能力

前回の続き、というか補足。

サイキック能力とマインドの成長や救いとの間には因果関係はない、と前回述べた。そういう能力の有無によって学習レベルを測ることはできないし、マインドがそれだけ解放されているとも言えないのである。なぜならば、このような力・現象は往々にしてエゴが作り出すものでもあるからだ。

いわゆるサイキックまではいかなくても、たとえば幽体離脱に代表されるような現象(音楽が聞こえた、天使が見えた、光に包まれたなどなど)を体験したかたもいるだろうと思う。コースのテキストにも時々「この世ならぬ光景」の描写が出てくるのだが、学習者の中には「こうならなくてはいけないのか、こういう状態が来なければダメなのか」と思ってしまう人もいるのだ。結論から言えば「それは学びとは全然関係ありません。この情景は、解放されたマインドに映る世界、本来の世界はこんなにも美しいのだ、ということを表しているだけです」。

そういう経験をする人もいるし、しない人もいる。マインドの成長などには全く関係なく、薬物その他の刺激によって同じような経験をする人もいる。だからダメだ、と言っているのではない。たとえどんなきっかけで「不思議な経験」が訪れたとしても、問題はあなたがそれをどう捉え、どう使うのか?ということだけなのである。つまり、それによってあなたのマインドはどう変わったか?それが何かの気づきのきっかけになって今までとは物の見方が変わり、悩んだり苦しんだりすることが激減し、いつも平和なマインドでいられるようになった、というのならあなたはその経験を有効に活用できたのである。言い換えれば、あなたはその経験を聖霊に委ねて有効に活用してもらえたのである。

光に包まれたり音楽が聞こえたりする現象は「聖霊が与えてくれた」ものなのか?そうだとも言えるし、そうでないとも言える。聖霊が与えてくれた、としてもそれは「天上にいる聖霊さまがあなためがけて与えてくれた」ということではないのだ。これは何度も書いているのだが、マインドが感謝や平和で満たされている=マインドが正しい状態にある=マインドが開かれているのなら、そのときあなた(というマインド)は聖霊とひとつになっている。あなた(というマインド)は、聖霊(これもマインドである)になっている。だからこそ、あなたはそれを聖霊として、聖霊のマインドで経験し捉えることができているのだ。

ところが、そのような経験をしたあとで忽然とエゴがしゃしゃり出てきたりするのである。「これはすごいことが起こった!このワタシのマインドのレベルが上がった!私は覚醒したのだ、悟りを開いたのだ」とか、下手すりゃ「私は聖霊とコンタクトしている!私は特別だ。」みたいになってしまうケースが少なくないのだが、言うまでもなくこうなった時点でアウトなのである。あなたには「そういう自分」を守ろうという新たなエゴ的欲求が芽生えてしまう。

天使が見えたり光に包まれたり音楽が聞こえたり、という現象=経験は学習の成果とは無関係に起こりうるものだ。学習の成果でマインドが開かれたからこそ経験する場合もあるが、寝不足とか薬物とか高熱などの「身体的条件」によって偶然に?もたらされる場合もある。どちらの場合であっても、その現象=経験をどう捉えどう用いるかがポイントなのだ。それこそ、エゴで捉えるか聖霊に委ねるか?である。

何か勘違いして、こういう経験をしたいがために「コース」その他を学んだり瞑想に励んだりしてしまう人もいるのだが、まあ単純に楽しんでみたいのなら別にいいのかな?と思う。ただ、それは間違っても解放や覚醒とは別物に過ぎないのだ。

だから、「私には光も見えないし、天国にいるようなすごい経験をしたこともない。私の学び方が間違っているからだろうか」と不安にならないでいただきたい。

とはいえ、マインドが解放されてくれば知覚にも変化が生じることが多いのも確かなのだ。だが、それはたとえばクラシック音楽を聴いたときに以前とは聴こえ方がまるで違ったりする、とか「時間が止まった」「すごいスピードで動いているはずのボールが止まって見えた」みたいな形であらわれたりするのであって、わざわざ何かが見えたり聞こえたりするというわけではない。

また、大きな気づきはだいたい衝撃的なものに決まっているのだが、それとて必ずしも「不思議な光景」を伴うものではない。というより、特に伴わないことのほうが多いと思う。そういう気づきを経験したことがあるかたなら、このあたりの感覚がよくわかるはずだ。

 

2015-11-24 23:03:21

「奇跡のコース」とサイキック能力

テーマ:奇跡のコース学習についてあれこれ

「奇跡のコース」と サイキック能力

コースの「教師用マニュアル」にも書いてあることなのだが、もう一度おさらいしておこうと思う。

「コース」を学び実践していくうちに図らずもサイキック能力のようなものが開発されてしまうというケースは確かにある。それはそれで問題ないのだが、サイキック能力の開発を目的として「コース」を学ぶとか、あるいはサイキック能力がどれだけ開発されたかを「コース」学習の達成の目安にする、などというのは完全に的はずれであり間違いなのである。

まず、救いや解放とサイキック能力とは基本的に無関係である。サイキック能力そのものは良くも悪くもないのだが、これがエゴと結びつくか聖霊に委ねられるか、要するにどう用いられるかが問題なのだ。サイキック能力があって誰かの病を癒すことが出来る人でも自分はエゴまみれでゆるしも何もない、というケースは多々あるし、ましてやサイキック能力の有無とマインドの成長との間には何の関係もない。当人の幸不幸とも関係がない。サイキック能力とエゴが結びついてしまっている人はエゴが肥大化したりウツになったり、むしろハッピーでないことも多いのだ。

そもそも、なぜサイキック能力がほしいと思うのか?その有無をマインドの成長や開発の度合いと混同してしまっているから、というのもある。また、単純に「そんなものがあったらさぞ便利だろう」というのもある。が、何のために便利なのか?と考えた場合、救いや解放やゆるしのためだと純粋に言える人がどれだけいるだろうか?たいていは我欲のためなのではないだろうか?それによってたくさんの人々を救うため、と言っている場合でさえどこかに「自分は特別でありたい」「尊敬されたい」という思いが隠れているかもしれない。サイキック能力じたいはエゴとも聖霊とも関係ないのだが、サイキック能力を強く求める気持ちはたいていエゴと結びついているものなのだ。

となれば、サイキック能力を開発したいと求めれば求めるほどエゴがのさばり、エゴがのさばれば救いや解放から遠のくということになってしまう。これでは本末転倒ではないか。

奇跡というものは、マインドの条件が揃えば(あるいは、マインドがそういう状態になれば)イヤでも自然にもたらされるものであって、サイキック能力によって引き起こされるようなものではないのだ。奇跡は、特別な人が特別な力によって為すようなものではないのだ。奇跡は、マインドが自然な状態にありさえすれば日常的に普通に起きるようなものなのである。

「コース」学習によってマインドが正され、またオープンになればその結果としていわゆる「不思議なこと」もいろいろ起きるだろう。サイキックに思えることも当然起きるだろう。しかし、それらはいずれも「このワタシ」がやっているのではないのだ。このワタシ、の能力によって起きているものではないのだ。むしろ、このワタシが消えてなくなったことによって自然にもたらされているのであり、言い換えれば「聖霊のわざ」なのである。聖霊のわざ、にも本当にいろいろあって、それはその都度必要に応じて与えられるものなので、場合によってはサイキック的になることもある。ただそれだけの話なのだ。いつもいつもそうなるとは限らない。ゆるし、癒し、救いなどをもたらすことだけが目的なのであって、「どのようにして為されるか」は私たちのマインドではわからないのである。エゴには全くわからない、むしろわかろうとしてはいけないようなことなのである。

サイキック能力は、マインドの解放に伴って現れることもある副産物みたいなものだ。そんなものがなくても完全に救われ解放されて真の幸せを味わうことは完全に可能なのだし、奇跡だって普通にもたらされるのである。

この能力がある人の中には、サイキックをうまく使えているときの自分とそれ以外のときの自分とが全く分離してしまっていて非常に苦しんでいる人もいる。あるいは、エゴのフィルターを通してしかこの能力を用いることができずにどんどんおかしくなっていく人もいる。ともかく、まずはエゴをひっこめるのが先決なのだ。ゆるしによってマインドを正浄化することのほうが先決なのだ。それなくしてサイキック能力を開発しようとするのは本当に危険なことだし、サイキック能力の有無によって「コース」学習の達成度を測るのもまた危険なことである。

 

2015-11-10 10:17:21

「奇跡のコース」 我慢について2

テーマ:奇跡のコース学習についてあれこれ

「奇跡のコース」 我慢について2

我慢するのは「マインドを切り替えるためだけ」である、と前回述べた。要するに、エゴのほうに流されるのをぐっと堪えるということだ。それ以外の我慢は、少なくとも「コース」学習には不要だし、私たちが目指しているのは「我慢すべきことが何もない状態」なのであって、しかもそれはあなたが求めればいつでも「いまここで」即座に得られるものなのである。これを別の言い方で表すと「聖霊に委ねる」になるのだが、別にいちいち「さあ、聖霊に委ねよう」と思う必要もない。下手すると「聖霊に委ねたいのに、聖霊がちっとも現れてくれないんです」などというおかしなことになってしまう。聖霊はいつでも「いまここ」にちゃんといるのだから、構わず委ねてしまえばよいのだ。委ねてしまった後であなたは「聖霊はいたのだ」と気づくだろう。何故なら、あなたはちゃんと委ねられたからである。そして、マインドが平和で満たされたからである。これは聖霊の祝福なのだ。それが欲しければまず自分が祝福を捧げること、たとえば「マインドをとにかく感謝で満たしてみる」ことである。求める、というのが「物乞い根性」ではダメなのだ。

このあたりはワークブックでもたくさん出てくることなので、慣れてくれば簡単にできるようになる。そしてあなたは「何もかもいまここにあったんだ」と気づくようになるだろう。

さて、恐れや怒りその他の「ネガティブな感情」を我慢=抑圧しておくのは良くない、というのでそれらを「解放しましょう」という方法があるが、「コース」のワークブックにはこの手のものは一切出てこない。「コース」が言っている解放はもっとずっと深く本質的なものである。ただ「抑えているものを表に出す=表現する」なんてことではないのだ。「コース」のいう解放とは、解放という作業~動作ではなく、あくまでもひとつの全き状態なのである。ひとつの気づきなのである。思いや感情を表に出す=表現するという意味の「解放表現」を通して、この解放された状態に至ることもある。が、この方法は下手すると「もっとひどくなる」危険をはらんでいる。スッキリするどころか、次々に怒りだの恐れだのが噴出してきてしまって止まらなくなる。こんなにたくさんあったのか!と驚きつつ、それらを全部吐き出してしまいましょう、というやり方もあるわけだが、本当に「止まらなくなってしまう」ことがあるのだ。つまり、怒りやら恐れやらいろいろなネガティブな感情が何週間も何ヶ月も噴出し続けるのである。それも浄化よ、と言う人もあるだろうが、わざわざそんな大変な思いをする必要もないのではないか?

うわー!!と吐き出してああスッキリ、なら問題はないのだが、得にこれを日常の人間関係の場でやると目も当てられないことになりかねない。

ところが、ごく稀なことだが、愛が怒りや悲しみなどという表現を通して現れることもあるのだ。もちろん、見かけでは区別がつかない。それどころかやっている本人にさえも区別がつかない。愛が怒りや悲しみなど一見はネガティブな形をとって現れる、これは

やろうと思ってできることではないからだ。今から私は怒りという形で愛を表現します、なんてことは絶対に無理である。

ネガティブなものを通して愛が表現される、こんなことがどうしてありうるのかといえば、表現というものが単なる「形」に過ぎないからだ。この世のもの、つまり幻に過ぎないからだ。そして、そういうものは全て聖霊によって有効利用されうるからだ。

怒りが爆発したり泣き喚いたりして、ハッと我に返って「しまった、とんでもないことをした」と思ったにもかかわらず、それがきっかけになって相手が心を開いた、みたいな経験をした人もあるだろう。だからといって「じゃあ次もそうやってみよう。怒りや悲しみをバーンと表現するのは有効なんだわ」などと考えて同じことをやってみても、次はうまくいかないのである。何故なら、先程も書いたようにこういうことは「やろうと思ってできる」わけではないからである。

おかしな言い方だが、純粋や怒りとか純粋な悲しみなどというものは限りなく愛に近いというか愛のひとつの形なのかもしれない。そこに恐怖や罪悪感が混じっていない、相手に罪悪感を抱かせようなどという気持ちも混じっていない、純粋な怒りや悲しみというものもあるのだ。そして、私たちはそういう怒りや悲しみを抱くことを恐れ、それこそ「抑圧」

してしまうのだ。何故なら、それが愛だからであり、エゴは愛を恐れるからである。

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