タロットリーダー碧海ユリカのスピリチュアルコラム 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 -4ページ目

「奇跡のコース」とエゴの抵抗7

「奇跡のコース」と エゴの抵抗7 

エゴというのは本当にとんでもない曲者であって、あなたを救いから遠ざける=エゴ自身を破滅から遠ざけるためならどんなことでもするものだ。その巧妙さといったら、全く比類がないとしか言いようがない。あなたが救いや解放に向かって学ぶ以上、エゴに邪魔されるのはおそらく避けられないだろう。誰でも必ずエゴの抵抗に遭うだろう。むしろ、「エゴの抵抗に遭わないようにしよう」なんて考えないほうがよい。そう考えるのが既にエゴだったりするのである!

キリスト教の「主の祈り」の中に「我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ」とあるが、神があなたに試練を与えることはなくてもあなたのエゴはあなたを誘惑するだろう。エゴの誘惑を退けることこそが試練だと言えるのかもしれない。

エゴの抵抗に遭わないようにしよう、なんてみみっちいことを考えたりしないで、「来るなら来い!」くらいの気持ちでいて、エゴの抵抗に遭ったとき自分がそれにちゃんと気づくことができるようにしておこう、と決めておくのだ。エゴの抵抗は、自分にとって苦しい形で来るとは限らない。たとえば「ワタシってすごい!」「オレはもう全部わかったぞ」のような誇大妄想の形でくることもある。自分が間違えたために失敗したくせに「これは聖霊の御わざだ。私は正しいんだ」とか、「私はどうしてもコレがほしい。そう思うのは聖霊の導きに違いない」「これはどう考えたってワタシのせいじゃない、~のせいだ」などと思ってしまったりすることもある。「実はワタシがバカだったんだ」「コレなんか実はどうでもいいのだ」なんてどうしても思いたくない!というのはやっぱりエゴの抵抗なのだ。それを認めるのはなかなか辛いことかもしれない。しかし、こういうときの「あなた」は「エゴである自分」になっている。つまり、実体のない影みたいなものになっているのであって、そんな在りもしない自分なんかにこだわるのはおかしいのだ。

エゴの抵抗とは、一言で表せば「真の自己ではないワタシに対するこだわり」なのである。そんな自分などさっさと捨ててしまえ!なのだが、いわゆる「自分が大切」な人達にとってこれは苦行である。更に、巷間に溢れる「スピリチュアル」な教えによくある「もっと自分を大切にしましょう、自分を愛しましょう、自分を抱きしめましょう」を曲解して、エゴを大切に抱きしめたりしてしまうのである。その対策としては、まず自分のマインドを厳しくチェックするのが第一なのだが、ワークブックの日課もお勧めである。これらの日課には、エゴが抵抗しているうちは文字通り「できない」ものが多数含まれている。ゆえに、ワークブックにきちんと取り組んでいればエゴの抵抗にあっている自分を発見しやすいのである。どこかで逃げを打ったりせず「きちんと」取り組むのがポイントだ。

その他、「こういう勉強は時間ができたらやろう」「余裕が出来たらやろう」などというのも立派なエゴの抵抗だったりする。こういう勉強・・・つまりマインドを徹底的に解体し浄化して世界をまるごと変容させてしまうような学びを後回しにするってどういうことなのだろう?「いまは~で大変だから、忙しいから、余裕がないから」できません、というのは単に「やる気がない」のだ。大変なときだからこそ、少しずつでも「コース」をやってマインドを変容させる必要があるのではないか。そうすれば、今まで「大変」と思っていたことも楽々とできるようになり、更には想像もできなかったような奇跡ももたらされるのではないか?

「現実がいろいろ大変だから」そんな勉強だのワークだの悠長なことをやっている余裕がない、などと言う人もいる。何、その「現実」って?そんなものを現実だと思っているから大変なんじゃないですか?

ともかく、エゴの抵抗については「あらかじめ防ごうなどと考えない」「これは抵抗だ、と気づいたら、闘わない」「そのまま放置しておいて、マインドを感謝と平和で満たしてみる」あるいは「ダメだ、こんなことじゃ!」と自分を奮い立たせる、というのでもよい。ワークの日課をやってみてもよい。その人その人の体質に合った対処の仕方があると思う。

その前に、いま自分がエゴの抵抗にあっていると気づけるか?これがエゴの抵抗なのか、それとも本当の何かなのか区別できるか?という問題がある。何だかこれが思いのほか難しいみたいなのである。気づかないうちにズルズルどっぷりエゴに流されてしまえばますます気づけなくなるものだ。もう何が何だかわからなくなった、という人もいる。だが、実は「これがエゴの抵抗か否か」などいちいち考えたり判断したりしなくても良いのである。どんなことが起ころうが、どんな気持ちになろうが全くお構いなしに「コース」を、あるいは「ワークブック」をやり続けるという決意さえあれば、そしてそれを実践していれば全然問題ないのだ。何故なら、そうすることによってあなたは絶えず自分のマインドを正し浄化できるので、たとえエゴの抵抗が見えていても自然に通り抜けてしまえるからである。コースもワークもできない、という状態になったら明らかに「これはエゴの抵抗だ」と認めて、ここに書いたような考えによってそれを克服していただきたい。

「奇跡のコース」とエゴの抵抗6

「奇跡のコース」とエゴの抵抗 6

「コース」に限らず、救いや解放を目指して学んでいくうえで問題になるのはひたすら「自分のマインドの状態」だけなのである。言い換えれば、外側ではなく常に内側だけを相手にしていくわけだ。これがなかなか難しかったりわからなかったりするようなのである。考えようによっては、外側のあれこれをいちいち相手にするよりずっとシンプルで楽なことなのだが、これが帰って難しく感じるのがまさにエゴならでは!なのである。

たとえば、いわゆる「この世の現実」の問題に直面したとする。お金がなくなった、誰かに振られた、深刻な病気の宣告を受けた、災害にあった、などなど何でもよいのだが、これらは全て「現象」であって本当の現実ではない。つまり、幻想なのだ。しかし、だからといっていきなり「これは幻想だ」と実感できる人は少ないだろう。「コース」がそう言っているからといって無理やり「幻想だ」と思い込もうとするのはお勧めしない・これには文字通り無理がある。

あなたを困惑させ悩ませるような「現実」にぶちあたった場合にはどういう姿勢をとるのが望ましいのか?

たとえば「お金がない」のに「あるんだ!」というふりをしたり、自分あるいはは身内の誰かが深刻な病気の宣告を受けたのに「そんなのはウソだ!私はガンじゃない」と思い込もうとするのは良くないのである。もっともあなたが本当に本気で「違う」と信じられれば別である。いわゆる「現実」に対する抵抗や逃避としてではなく、自分でもよくわからないような強い確信を持って「違う」と信じられれば、おそらくあなたの確信したとおりになるだろう。

そうではなくて、「現実」に起こっている(と思われている)事柄を信じるのがイヤだからひたすら否定する、という姿勢は良くないのである。イヤだの何だの、というより前に幻想なのだ。あなたが誰かから明らかに拒絶されたとして、それを認めたくないばっかりに「これは幻想だ!この人は本当は私が好きなのよ」と思い込もうとするのは良くない。

かといって、そういう「現実」をただそのまま受け入れるというのにも問題がある。何故ならば、大抵の人は「受け入れる」際に必ずと言っていいほど感情的価値判断を加えてしまうからである。いま手元にお金がない⇒嫌だ、怖い、不安だ、などというように、それを単なる事実として受け入れるだけにはとどまれないのが普通なのだ。

目の前の現実(と思われること)は本質的な問題ではない!これをとにかく頭に叩き込んで頂きたい。あれやこれやが自分にとって重要かつ重大な「問題」に思えてしまうというまさにそのことじたいが問題なのである。はっきり言えば間違いなのである。そういういわゆる「現実」を無視しろ、と言われると「見て見ぬふりをする」という意味に捉えがちであるが、そうではないのだ。むしろ「それはまあ措いといて」にすれば良いのである。つまり、何度も言われていることだが、「判断しない」「判断保留」というのがとりあえずあなたが取るべき姿勢なのだ。

ここで多くの人が「そんな!すぐに手を打たないと手遅れになってとんでもないことになる!」と思ってジタバタするのである。これこそがまさにエゴの抵抗なのだ。焦ってあれこれやったために却って事態が悪化することのほうが多い。何か手を打つにしても、とにかくいったん全ての判断を捨ててマインドを鎮めたり空っぽにしたりしてからでないと有効な処置も期待できない。言い換えれば、聖霊の導きを受け取れなくなるのである。いま何か「嫌なこと」が起きているのは今までのあなたのマインドの間違いの結果かもしれないのだが、落ち着いてみなければそれさえわからないだろう。

目の前の「嫌なこと」については判断しないで、ただマインドが乱されないようそれだけに気をつけていれば良いのである。そんなことでいいのか!と思うかもしれないが、奇跡はここから始まるのだ。

スピリチュアル系の方法論の中には「何が起こっても、これは自分にとって良いことなのだと考えろ」というのもある。これは正しい。しかし、「具体的にどういうわけでどういうふうに良いことなのか」を見出そうとするのはエゴである。エゴは、エゴに理解できるやりかたで一刻も早く安心したいのだ。しかし、これでは「現実」は変わらない。これがどういうふうにつながるのかいまの自分には全くわからないが、これは自分にとって良いことに違いない!と信じられればあなたには苦しむ必要がなくなる。ここで再びエゴが「そんなんでいいの?!」と囁いてくるかもしれないが。そんなものには耳を貸さずひたすらマインドを整えるのだ。言ってみれば「奇跡がもたらされやすい状態」を作るのだ。

起こったことを受け入れる、とは「それを現実だと信じて是認する」という意味ではない。それについては否定も肯定もせず、自分のマインドに起こったことだけを認めるのである。自分は不安になった、怒りを感じたなどなど、それをまず認める。そのうえで正して浄化するのだ。

繰り返すが、対処すべきものは外側にはない。それは常に内側なのである。

「奇跡のコース」とエゴの抵抗5

「奇跡のコース」とエゴの抵抗 5

誰だって不安や怒りや恐怖などに囚われるのは辛く苦しい。だからこそ、その囚われる辛さや苦しみから解放されたくて「コース」はじめいろいろな方法を試してみるわけである。こういうものから解放される、あるいは癒されるためのやり方としてもっとも一般的なのは「恐怖や不安の原因を探リ出し、それを癒す」というものだろう。それはたいていの場合「過去の経験」である。数年前か十数年前か、幼少期か、はたまた過去生かわからないが、とにかく過去の経験にあることは間違いないのだ。あるいは、過去(から続いている)人間関係の問題を癒す、誰か特定の人に抱いている感情をゆるして手放すというやり方もある。これらはしばしば「ワークブック」でも扱われている。

この「しばしば扱われている」というのがポイントなのだ。こういう「過去の原因」などというものは、あまり見つめすぎてはダメなのである。それを何とか解決しよう、手放そうと思うのあまり、そこばかり見つめて分析しようとすると、却ってその「過去の経験」がより確固たる現実に、しかも「ますます乗り越えがたい難物」になってしまうのである。それは、あなたがエゴによって見つめ分析しているからだ。エゴがあなたの解放を助けてくれるわけがない。だから、解放されようとして却ってますます囚われてしまうのである。「これを手放そう!」と力めば力むほど「これ」は却って力を増していく・・というふうな感じなのである。エゴの抵抗と下手に闘ったために、却ってエゴに力を与えてしまったというわけである。

もちろん、過去の何かを見つめ分析しているうちに「!!」という大きな気づきがもたらされて一気に解放できてしまうこともある。たとえば「過去なんて“ない”じゃないか!」「自分が影響を受ける必然性なんか“ない”」と気づいてしまったりして、まるで本当にパッと光が持ち込まれたように「わかる」瞬間が訪れるのだ。「コース」の「ワークブック」はこの状態がもたらされやすいように作られているようだ。

しかし、大多数の人は堂々巡りになってしまう。やればやるほど「単なる思い込み・勘違い」であったはずのものが「ちょっとやそっとでは動かしがたい確固たる現実」になってしまう。「ワーク」をやってもなかなか変わらない・・・と思う方は是非テキスト編を丁寧に読み返していただきたい。私の「ワークブックガイド」ブログは、なるべくこういう事態に陥らないための解説をたくさんつけてあるのだが、それでもやっぱりテキスト編の方が詳しく丁寧なのだ。

エゴの抵抗にあっても「それに囚われるな、闘うな、ほうっておけ」と前回書いたが、この「ほうっておく」というのが案外難しいらしいのでここで補足しておこう。

ほうっておく、とは「見て見ぬふりをする」という意味ではない。目をそらし耳をふさぐという意味ではない。それは単なる逃げである。むしろ、恐怖や不安や怒っている自分のマインドを、あるいはそれらをもたらしたと思われる原因を、しっかり見るのだ。そういう自分を否定せず非難せずに受け入れるのだ。是認しろという意味ではない。にんげんだもの仕方ないわよ、ではダメなのだ。ただ「自分はこうなのだ」という現在の事実を認めればよいのである。

そして、そこに感情を交えないのがもっとも大切である。たいていの人はそこから落ち込みや自責まで一直線なのだ。「私は不安だ云々」⇒「私はダメな人間だ、あ~あ」とか。ここで落ち込んだり悲しんだり、もっと悪いのは「でもこうなったのは○○のせいだ!私は悪くない」と責任転嫁して他者に怒りを向けたり、こうしてどんどん流され囚われてしまうのである。

感情を交えず、ただ受け入れる。受け入れるだけだ。批判もせず否定もせず、流されず「自分はいま~のことでこういうマインドになってしまった」と自覚したら、そこで止めるのだ。そこでいったん止めておいて、マインドを切り替えるのである。そのとき「ま、いいや」と思おうが「こんなものには流されないぞ!」と思おうが、そこは各人の好みである。とにかく、エゴの抵抗と闘って泥沼にならなければよいのだ。泥沼であがくあなたは一見「自分の解放や癒しのために一生懸命自分を見つめている」ようであり、真面目に取り組んでいるように見える。が、実際にはエゴの思うツボになっていないか?

ところで、恐怖だの不安だの、あるいはそれらの原因だのそういうものを「しっかり見つめて深追いして」も大丈夫な場合がある。これは、感情をいっさい交えず自己正当化をせずただ理性のみによって突き詰めていくという方法なのだが、普通はなかなか難しいと思う。

不安も恐怖も痛みも苦しみも、それを忘れているときには「ない」のである。忘れているときには不安も恐怖も痛みもなくなっているのである。そんなの当たり前だ!と思うだろうか?実はこれこそが大変な事実なのであって、ここに全ての鍵がある。

「奇跡のコース」とエゴの抵抗4

「奇跡のコース」とエゴの抵抗 4

前回の補足と続き。「コース」を読み学んでいくと「この世界も、この世界のあらゆるものもみな幻想なんだ、実在はしないんだ」という事実(⇒これは「教え」ではなくて事実なのである!どうしようもない事実なのである)を知らされる。しかし、それはただ情報や知識としてあなたのマインドに入ってくるだけであって、理解はできていない。実感もできていない。もし本当に理解できたら、その瞬間に世界の見え方が完全に変わってしまうはずなのだ。この驚きといったらとても言葉で表すことはできない。文字通り大きな気づきであり天啓である。一瞬だけであってもあなたは覚醒するだろう。そのあまりの衝撃・驚きに耐え切れず、エゴが大暴れしてしまうこともある。これが一番もったいないのだ。求めていたものがせっかく目の前に現れたのにもかかわらず、あなたはビビって逃げてしまう。ドアの前まできて大慌てで逆戻りするようなものだ。

「コース」の(特にワークブックの)ありがたいのは、上記のような危険がかなり少なくて済むことである。どんなに驚こうがビビろうが、その驚きすらも脇に置いてとにかくひたすら日々のワークを続けていれば、新しいステージにふさわしいマインドのあり方が自然に整ってしまうようになっている。

そこまでは行かない場合、即ち「世界も身体も全て幻想なのだ」という観念だけを得てしまってジタバタする人に対しては、「慌てるのはまだ早い。本当にわかってから考えなさい」と言いたい。あらゆるものが幻想であって意味も価値もない、これが「本当にそうだという実感は持てないが、そうだったら何と素晴らしいんだろう」と思える人なら問題ない。しかし、殆どの人がこれを「世界の破滅」と同義に捉えてしまうだろう。甚だしい慌て者に至っては、「だったらもう生きていたって仕方ない、死のう」みたいになってしまうことさえあるのだが、残念なことに死(身体の死、身体の生命の死)もまた無意味なのである!身体がないんだから、身体の死もない。身体が幻想なら身体の死もまた幻想である。だったら死んだところで何にもならない、つまり死に逃げ込むのも無意味かつ不可能だということが今や明らかにされてしまったのである。生きる価値も見いだせず、かといって死ぬ価値もない。まさに八方塞がりである。さあ、そこでどうするか!

ここはあまり大仰なことを考えないほうがよいと思う。このまま頑張って学んでいれば少なくとも今よりは、これまでよりは楽で幸せになれるはずだ、くらいの確信を持っていただければそれで十分だ。救いや解放や覚醒というような状態が今ひとつピンとこない、それよりはお金が入ったり素敵なパートナーに出会ったりするほうがよっぽど幸せのようなきがする、そんな人もたくさんいるだろうが、そういう思いも当面は否定する必要もない。わからないことはわからないままにしておいて良いのである。わからないからといって放り出したり否定したりしない。「いまの私(のマインド)にはわからない、でもいつかわかるだろう」で十分なのだ。そして、その「いつかわかる」を目指して頑張れれば十分以上なのだ。

エゴは「わからない」という状態が非常に不愉快なのである。本気でわかろうとするのなら純粋理性が働かなければならず、純粋理性が働くためにはエゴが引っ込まなくてはならない。それでは困るから、エゴは「てっとり早く結論を出そうとする」のである。しかも、いま現在の「このワタシ」が理解できる範囲でしかわかろうとしない。もっと簡単に言えば「わかりたいようにしかわかろうとしない」のである。これは非常に危険なことだ。「わかりたいようにしかわかろうとしない」ままで「コース」を続けたとしたら(それは却って困難だろうとも思うが)もう本当にとんでもないことになるだろう。だったらまだ「全然わからない!」と自覚したままで続けるほうがよいのだが、そういう自覚を抱いたままでいるというのはエゴにとっては非常に不愉快なのである。だからこそ、「コース」は「わからなくても、理解できなくても、同意できなくても、気に入らなくても続けろ」としつこく言うのだ。要するに「エゴの抵抗を相手にするな」と言っているのであり、エゴの抵抗と闘うなと言っているのでもある。

闘うのではなく、相手にしない。「コース」に限らず、真理に到達しようという学びの道において、これは大きなポイントなのである。いまだ本来の自己ではない私たちのマインドはどうせ分裂しているのだから、それを逆用してみるのだ。悩んだり怒ったり怖がったりして学習が手につかない自分がいるとする。その「自分」は放っておきなさい!闘ってねじ伏せようとするのではなく、説得してやめさせようとするのでもなく、「好きなだけやってれば」とばかりに放置するような感じ。そうすればそんな「自分」は、あるいはマインドのその部分はあなたの学びを邪魔しない。ここで気をつけてほしいのは、放置した「そういう自分」の様子をいちいち見に行ったりしないことだ。そんなものは放っておけば消えてしまう。何故なら、もともとそんな「自分」など実在などしていないからだ!いちいち様子を見に行けば、見に行くたびに「不安定な自分」を作り出すことになる。

今回のポイントは、「エゴはわかりたくないことはわかろうとしない、そのくせすぐにわかろうとする」という部分である。そうしてあなたが真に理解することを阻むのだ。

ところで、ほうっておく・放置するというのは「見て見ぬふりをする、見ないふりをする」とは少々違う。このあたりは次回に。

「奇跡のコース」とエゴの抵抗3

「奇跡のコース」とエゴの抵抗3

この世界はあなたのマインドが作り出した幻であって、実在はしない。従って、この世界のあれこれもまた実体を持たず実在しない。「ない」ものには価値がないのだし、「ない」ものを求めることもできないはずだ。そういうものがあなたを本当に幸せにしたり不幸にしたりすることもできないはずだ。

と、「コース」はこのことをしつこく繰り返し教えてくれている。何も「コース」に限らない。さまざまな宗教や哲学でも結局これと同じことを言っているのである。この「事実」が理解できればあなたは解放されるだろう。しかし、その理解が中途半端だったりエゴが忍び込んだりすれば解放どころか絶望に襲われるかもしれない。何もかも無意味だなんて!だったらどうやって生きていけば良いのか、生きていたって仕方ないじゃない!人によっては欝状態に落ち込んでしまうだろう。そのような状態こそが紛れもなくエゴの抵抗なのであって、こうなれば少なくともあなたは救われることも解放されることもなくなりエゴは安泰なのである。

そもそも、あなたは幸せになろうとして「コース」を始めたのだった。あなたにとって幸せとはよい仕事や家庭やパートナーに恵まれたり豊かな生活をしたりすることを意味していた。それが今やことごとく「そんなものはない。無意味である、求めても無駄だ」と宣告されてしまったら!

ここで「まさか~そんなの嘘に決まってるじゃない」と思うのは構わない。そう思いながらもとにかく学びを続けている限り、どこかで何か気づきを得る可能性が高いからである。あるいは「そんなこと言ったって、現に月末までにお金が要るのよ!」と思うのも構わない。そうであってもやはり構わずにとにかく学び続けていれば、月末までには無理でもやっぱりいつか何かの気づきを得られる可能性が高いからである。

そんなわけはない、そういうものが無意味ってことはないだろう!と思いたくて、その証拠をかき集めようとするのはエゴのあがきである。こうだから、ああだからやっぱりお金は必要なんだ、結婚を望むのは正しいんだ、などと考えて何とか安心しようとする。これも典型的なエゴの抵抗なのである。「コースはそう言っているけど、やっぱり違うんじゃないかしら」と思っても構わないから、そこで立ち止まらないで進み続けることが大切なのだ。幻想と言われてしまったあれこれを求めるための正当な理由を探し出そうとするのは自由だが、それこそ無駄な努力に過ぎないのだし、そんなことをしたところで束の間の安心感しか得られないだろう。それ以降は「あんまりコースの言うことを聞かないようにしよう。でないと、私の求めているものが手に入らなくなるかもしれない」などと考えて、マインドをどこか閉ざしたままワークに取り組もうとしたりすることもある。それでも全くやめてしまうよりはマシである。中途半端な姿勢でやっていても、何かの拍子にハタと気づいてしまうこともありうるからだ。

いずれにせよ、先に幸せがあると思うからこそ頑張れる!のに、先には何もないんだ・・となったらモチベーションが下がってしまうという人もいるだろう。そう感じてしまったら「いまの私には想像することもできないような幸せがあるんだ、奇跡があるんだ」と思うようにしてほしい。じじつ、そのとおりなのだから!

「コース」は、この世のあれこれを「求めるな、求めてはいけない」などとは言っていない。ただ、意味ないですよと言っているだけなのである。論理的に言えば「ないものは求めることができない」ということなのでもある。しかし、いまのあなたにはそれらが「実在しない」とは信じられない。欲しいし、必要だとさえ感じてしまう。その思いや感覚を無理に否定しなくてもよいのである。いまの自分には信じられないけど、もし本当にそうなら学び続けていればいつかわかるんだろうな、くらいで十分なのだ。エゴの抵抗と闘うのではなく、くぐり抜ける・・・スルーしてしまうのだ。

「コース」なんかに限らず、何かの拍子に「世界は全て幻なんだ、無意味なんだ、世界は実在しないんだ」という事実に気づいてしまって発狂する人もいるくらいなのだから、これは確かに衝撃的な気づきなのである。発狂はしなくても中途半端なニヒリストになってしまう人もいる。が、このニヒリズムも徹底すれはある意味立派な解放なのだ。何も求める必要がない、求めることはできない、しかもそのことで落ち込むのさえ意味がない、希望がないんだから絶望もない。この地点に踏み止まって理性を保てるのなら世界は一変するだろう。それでもあなたはこの世界の何かを求めることがあるだろう。しかし、それは言ってみれば「求めているふり」みたいなものであって、深刻になることもそれで苦しむこともなくなるのだ。何の意味も価値もないところで生きるのは手持ち無沙汰だから、その都度何らかの価値をとりあえず信じるふりをして生きていくこともできる。そして、そういう人は案外いるのである。わざわざ言わないから周囲にはバレないだけなのだ。どうせ言ったって理解されないし。

「コース」の教えから神を取り除けばこういう感じになる。しかし、「コース」は常に希望を用意してくれている教えなのだ。それをとりあえずであっても信じていれば欝にもならずニヒリズムに陥ることもなくて済むだろう。