タロットリーダー碧海ユリカのスピリチュアルコラム 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 -3ページ目

「奇跡のコース」とエゴの抵抗10 判断

「奇跡のコース」とエゴの抵抗10 判断について

前にも書いたのだが、「コース」をやっていて(あるいは「コース」の教えに即して生きようとしていて)「これでいいのか」「これはどういうことなのか」「これはどう捉えたらいいのか」などという判断ができなくて困ることがある。自分で判断できないから聖霊の導きを得ようとして、いくら待ってもそれらしいことは起こらない。どうしてよいかわからなくなり、そのまま何となく挫折してしまうというケースがある。

まず、「判断」とは基本的にエゴの機能だということに留意しておいてほしい。もちろん、聖霊あるいは純粋理性による「正しい判断」というのもあるのだが、これはエゴから見ればとても信じられず受け入れられないくらいにシンプルなものなのだ。エゴには想像もつかないような角度から見るものなのだ。最初からこれができるくらいなら誰も苦労はしないわけで、「聖霊~純粋理性で判断しなさい」と言われてもたいていの人はますます困るだけだろう。

どうしていいかわからない、と思える人はまだ良い。明らかに自分が間違っているのに、そのことに気づけなかったり、明らかに自分の間違いが招いた失敗なのに「聖霊の導きだ」「これには意味がある」と思ってしまったり、要するに自覚のないままエゴに支配されてしまうケースもあるのだ。こちらは自覚がないぶん、あるいは自覚したくないぶんいっそう厄介なのである。とはいえ、こういう人々も実際問題としてはいろいろな壁にぶつかっているはずなのだ。それを正しく捉えられず、どんどん深みにはまってしまうのである。

どんな場合でもリーディングは有効である。マインドの状態がかなりクリアに出るので、方向を正すのには役立つと思う。が、いつもいつもリーディングを受けられるわけではないだろうし、こういう問題を自力で解決するにはどうしたらよいか?

まずは「ワークブック」を手放さないことである。マインドがどんなに迷っていても、毎日定期的にワーク(実習)をやっていればマインドがおかしな方向にどんどん落ちていくのは食い止められるのだ。何故なら、少なくともワークをやっている瞬間のマインドはほぼ正しい状態におかれているはずだからである。たとえそれを保てなかったとしても、数時間後にまた実習をすればそれ以上深みにはまるのは食い止められるのである。言うまでもなく、「ワーク」をしている最中はあらゆる迷いも不安も全て脇にどけておくことが肝要だ。

次に、「テキスト編」にも書いてあるのだが「私たち・・・エゴとしての私たち・・には何もわからないのだ。私たちは何一つわかっていないのだ」という事実を受け入れること。これは全くそのとおりであって疑問の余地もないのだが、おそらくたいていの人にとって「自分は全く何もわかっていない」という状態で日々を過ごすのはなかなかキツイことかもしれない。が、ここはどうしても肝心なところなのだ。エゴは「わからない」という状態に耐えられない。だから、どんなものでもいいから結論めいたことを強く欲するのである。それがたとえ間違った結論であろうが、自分にとって不幸なものだろうが、もう何だっていいのだ。そうして「間違った結論」を信じることによって、つまり「間違った判断」を信じることによってますますおかしな方向に落ちていってしまうわけである。

「自分には何もわかっていない」「まだわからない」というのは普通に考えても十分に救いなのではないかと思うのだが、エゴに支配された人にはそれがわからないようなのだ。「わかっていないのだ」と判断保留にしておいて「ワーク」でもやっていれば、ひょんな時にひょんなところから「答え」がやってきたりするものである。それこそが聖霊の導きであり答えなのだ。

実を言うと、このような聖霊の答えや導きはひっきりなしにあなたの目の前に来ているのだが、マインドがそれを認識できる状態にない限りあなたは全くそれらに気づくことができない。マインドが絶えずオープンになっていれば、何かあってもあなたはすぐに「聖霊の導き」を受け取ってマインドを正常に戻すことができるだろう。そこで初めて「あ、こうだったんだ、そうなんだ」という判断が普通にできるわけなのである。エゴに支配されたアタマでいくら考えたってろくなものは出てこない。下手の考え休むに似たり、どころか、こんなだったらマインドを休めて(=判断をしない、考えない)いたほうがずっとマシなのだ。

いま自分が見聞きしていることが聖霊のメッセージなのか、単なるエゴの思いの投影なのかわからない、という時もまずは判断保留である。この「判断しない」という状態に慣れていただきたい。不安なくこの状態をキープできるようになっておくのはとても重要なことなのだ。ただ判断しないだけでいるのは不安だというのなら、その時こそマインドを「理由なく感謝と平和で満たしてみる」のである。これも最初のうちはなかなか骨が折れるかもしれないが、無理してでもやってみること。とにかく「逆さまの世界」の住人である私たちなのだから、多少は無理をしないと「逆さま」から抜け出すことなどできないのである。

自分の間違いによって起こった災難を「これには意味があるんだ」「神あるいは聖霊が与えてくださったものだ」と捉えるのもおかしいのであって、神や聖霊があなたに災難を与えることはないのである。あなたに起こること全てを救いと解放のために有効利用する、というのが聖霊の役割・機能なのであって、現象じたいを与えるなどということはないと思ってよい。起きたことに「どういう意味があるか」も、予め決められているわけではない。どういう意味を持つものにするか、どういう経験にするか、それはあなたの選択しだいなのである。聖霊に委ねれば有効利用される。そして、聖霊に委ねるためには「自分で判断しない」ことが肝心なのだ。あなたの判断は聖霊の邪魔になるだけである。どうしても判断したいのなら「これは自分にとって良いことだから感謝しよう」くらいになろうが、その「良い」というのが「どういう意味で、どういう理由で」よいのか?それは今のあなたにはわからないはずだし、わからなくて良いのである。

今回の要点は「判断しないという状態に慣れること」また「自分が間違っているなら喜んでそれを認めて正そう、という姿勢を保つこと」である。マインドがオープンであるとはそういうことなのだ。

「奇跡のコース」他の方法との併用2

「奇跡のコース」他の方法との併用について2

テキスト編の解説にも書いたのだが、「コース」は一応キリスト教の枠組みを用いて書かれてはいるものの内容自体は極めて普遍性が高い。ゆえに、仏教や神道を信仰している人でもあるいは全くの「無神論者」であっても問題なく学び実践することができる。目に見えるものだけが全て、この世界が全て、という信仰?さえなければ学ぶことができるものなのだ。(無神論者なら大丈夫だが、唯物論者ではダメだと思う。「コース」によって唯物論を捨てることはできるかもしれないが)

神、キリストなどという言葉にとらわれなければよいのである。これは「奇跡のコースと宗教」シリーズに詳しく書いた。

宗教に限らず、どんな思想であってもそこに普遍性がある限り「コース」とは矛盾しない。細部に関しては違いがあるかもしれないが、基本は同じはずだからだ、しかし、いわゆるスピリチュアル系の考え方よりも「コース」のほうがだいたいにおいて普遍性が高い。それどころか、多くのスピリチュアル系書物は「コース」を種本にしていたりするのである。「コース」の普遍性があまりに高く、あまりにも抽象的に見えてしまうため理解されにくい、日常に取り入れにくいと感じた人たちが「より具体的に、よりわかりやすく」悪く言えば「受けを狙ってキャッチーに」書き直したのだろう。こういうものを学んできた人たちにこそ「コース」をお勧めしたい。じっくり学べば「本物の違い」がわかるだろう。

そうなのだ。「コース」は本物であるがゆえに「テクニック」ではない、テクニックになどなり得ないのだ、というより「コース」をやっていればテクニックや道具など不要なのだ。

しかしながら、道具やテクニックがないと不安だったり「やった気がしない」と感じたりする人もいると思う。そういう方々は無理せず、道具を使いテクニックを続けてみてよいと思う。但し、それらを「偶像の神」にしないよう意識していていただきたい。これが自分を救ってくれる!これがなければ生きていけない!みたいになってしまっては本末転倒というか、あなたは解放されるどころか縛られてしまうだろう。それらはみな「コース」の(あるいは本質的で普遍的な)見方・考え方を理解し身につけるための「助け」であり手段のひとつに過ぎないのである。いつかは不要になるはずだし、また不要にならなければいけないものなのだ。心身の健康のためにヨガをするのはよいことだが、「ヨガをしないと生きていけない」になってしまったらどうなるか?怪我や病気によって思うようにヨガができなくなったらもうダメなのか?石やエッセンシャルオイルもマインドの解放に役立てることができるが、それに依存するようになったらおしまいなのだ。そういうものが全く手に入らない環境であっても大丈夫!と安心できるのが「コース」的な教えなのである。

どんなテクニック・方法論を用いるにしても「コース」はそれらの根底をなすような教えとなる。何故なら「コース」は「在り方」を変えるものだからだ。在り方が変われば何もかも変わる、変わらざるを得ない。この深さがわかれば、テクニックや道具などはその上に乗っかっているようなものなのだということもわかるだろう。

「コース」の目的は真の解放であり救いである。しかし、それらを直接教えることはできない。言い換えれば愛を直接教えることはできない。ゆえに「コース」の学習目的は「愛(=解放や救い)を妨げているものを取り除く」ということになっている。こういうコンセプトのものであればだいたいは併用しても問題ないと思う。

「コース」はテクニックでも道具でもないので依存性はない。というより、「コース」に依存などできない(もちろん、あまりに素晴らしいので毎日やらずにはいられない、ということは多々ある)。「コース」は理解するかしないか、それだけなのである。理解できればイヤでもそのように生きることができてしまう。そのように生きられていないのならそれはただ理解が足りないのだ。実にシンプルではないか。

「奇跡のコース」とエゴの抵抗 9

「奇跡のコース」とエゴの抵抗 9

前回の続き。テキストに何度も出ていたとおり、エゴは決してあなたを幸せにはしない。幸せにしてくれるように見えてはいても、それこそがエゴの罠なのだ。それを求めれば求めるほどますます不幸の泥沼に落ち込んでいくような罠なのである。

エゴにとって楽だったり快適だったりすることは、あなたを救いから遠ざけるだけである。これは少し考えれば誰もが日常生活で経験しているはずのものだ。ただ、気をつけてほしいのは、ここで「楽だ」というのが必ずしも「嬉しい、楽しい、快適」とは限らないことである。辛い・苦しいことに流れてしまうほうが楽になってしまっている人もいるだろう。落ち込んで泣くことに慣れてしまっている人もいるだろう。この場合は、エゴにとって楽=文字通りの不幸、なので却ってわかりやすいかもしれない。

私たちはエゴに流されることに慣れている。あるいは、わざわざ自分を不幸にするような判断~知覚認識を選んでおいて、それに派生する感情に思いっきり身をゆだねてしまうことに慣れている。それを変えていくのが学びでありワークなのだが、これは確かに容易ではないかもしれない。しかし、無理にでも切り替えてしまうほうがはるかに楽なのに決まっているではないか?どうして「できない」と思ったりしてしまうのだろうか?こんなことがあったら怒るのは、落ち込むのは当然よ!で済ませてしまいたくなるのは何故なのか?言うまでもなく、これこそがエゴの抵抗そのものなのである。真の意味で楽になったりしてはいけない、そんなことは間違っている、あなたには怒る権利がある、あなたが落ち込むのは当然だ、とエゴはあなたを励まし?挑発するのだ。誰だって自分のことを「正しい」と思いたい。もちろん、「自分を正しいと思いたい」というのもまたエゴの抵抗にほかならないのだが、とにかく誰だって自分が間違っているとは思いたくない。そんなことを認めたらますます落ち込んでしまうだろう、と思うと怖くてたまらないのだ。

しかし!これは断言できるが、自分の間違いを認められればものすごくスッキリするのだ。これだけで問題の大半は解決したも同然である。あなたはこのことを必ず実感するだろう。なあんだ、自分が間違っていたんじゃないの。多少はガックリくるかもしれないが、まあトホホ程度で済むと思う。この時あなたは正気になっている。即ち、エゴの手に落ちていない状態である。

あるいは、どういうプロセスであれ自分のマインドを制御してマインドを正しい状態にもっていければ、絶対に「良い気持ち」になる。これを何度か味わってしまえばあなたは確実に変化するだろう。つまり、エゴの罠に落ちる方がはるかに辛く苦しいのだ、と心底から理解できるようになるから、どんな状況になっても自然にマインドを正しい方向に導く作業ができてしまうのである。誰だって早く楽になりたいに決まっている。ただ、その「楽」を取り違えるとどんどん幸せから遠のいてしまうのだ。この点が麻薬と同じなのである。

理解が深まるにつれ、「こんなものに手を出すなんてとんでもない」と、特別大きな努力をしなくてもごく自然にマインドを正しい状態に戻そうと思えるし、また実際にそれができるようになる。

同じような道理なのだが、たとえば「こうなりたい」という目標のために必要なあれこsれが「面倒で、辛くて、苦しくてイヤ」ということがある。これも、最初のうちは「嫌だけど仕方なく頑張る」のがせいぜいだったりするのだが、マインドが学びに慣れてくると次第に「それすらも楽しくできる」ようになるのである。自分にとってこれが本当に「よいこと、幸せや救いや解放をもたらすのに役立つこと」ならば、喜んでできるようになるのである。これまた、エゴは「あ~面倒、やりたくない」という思いを正当化する理由付けをいくらでもあなたに提供してくれる。「こんなことをしたって結局無駄じゃないか」「ワクワクしないから本物じゃないんだ」「他にもっと良い方法があるはずだ」などなど、いくらでもそれらしい言い訳は見つかるものだ。しかし、エゴはあなたの感覚をも簡単に操作してしまう。あなたがワクワクするのは単にエゴが喜んでいるだけという可能性だってあるのだ。直感と言われるものだってかなり怪しい。エゴの自己防衛、自己保存の本能にはすさまじいものがある。どんな方法を使ってもあなたを真の幸せや解放から遠ざけておこうとするかもしれない。が、ありがたいことに私たちには「コース」がある。これを、テキスト編であれワークであれとにかく真摯にやっていれば、日々エゴの誘惑から自分を遠ざける時間を持つことができる。それを続けているうちに、エゴの誘惑に落ちることじたい明らかに「不快」と感じられるようになる。こうなればあなたはイヤでもマインドを正しい状態に戻さずにはいられなくなるのだ。

「奇跡のコース」とエゴの抵抗8

「奇跡のコース」とエゴの抵抗 8

エゴの抵抗の現れかたとして「楽な方に流される」というのがある。これはあくまで「その場において、一見楽なほう」あるいは「エゴにとって楽なほう」であり、要するに救いや解放とは全くの逆方向なのである。

嫌なこと、苦しいことがあったとき、他人のせいにしたり落ち込んだり愚痴を言ったり諦めたりするほうが「とりあえずは」楽かもしれない。こうしておけば少なくともあなたは「悪くない。間違っていない」「ひどい目にあった被害者、同情されるべきだ」ということにできるからだ。それはあなたの「エゴ」の自己正当化であり、エゴの自己満足である。エゴに支配されたマインドは、エゴにとって「よい」ことや「楽」なことを喜び心地よく感じるのである。

しかし、そこで他人のせいにしたり落ち込んだり愚痴を言ったり諦めたり、甚だしい場合は鬱その他の病に逃げ込んだり果ては自殺したり、そんなことをして本当に楽しいだろうか?本当に嬉しいだろうか?もはや救いや解放などは望むべくもないものになっている。そんなことはとても望めないが、それでもこういうことをすればとりあえずは幸せになれるのだろうか?

殆どのかたにとって既に経験済みだと思うが、こういうことをしているまさにその時!あなたは苦しんでいるはずだ。イライラして自暴自棄になり周囲を攻撃し、ますます嫌われたり呆れられたりする。前向きに頑張ろうという気持ちを失った挙句に「ワタシはこんなに苦しんでいるんだ。それは正当なことなんだ、見てくれ!」と言わんばかりに苦しい自分をアピールする。それは周囲にしてみれば「攻撃」に他ならない。つまり、あなたは苦しい自分を見せつけることによって周囲を攻撃してしまっているのである。攻撃された相手は当然のことながら良い気持ちがしない。よほどできた人でなければ、あなたのことを「何この人?感じ悪い」と思うだろう。

こうして、一見「楽」に流れたことは坂道を転げ落ちるようにあなたを窮地に陥れるだろう。そして、あなたはますます自他に対して毒づくだろう。かくてエゴは元気に生き延びる!というわけなのである。

この「一見、楽な」というのが本当に危ないのである。楽、というのは単に「努力しないで済む、自分が悪いと思わないで済む」という怠惰に過ぎず、しかも多くの人にとってそれは「馴染んだやりかた」なのである。救われたい、解放されたいと思っている人でさえ「未知の幸福より馴染んだ不幸」を選んでしまう。そうしてきたから今までダメだったのだ、となぜわからないのか?なぜ、ここで頑張れないのか?他人を責めたり自分を責めたり落ち込んだりして、いったい何の益があるのか?はっきり言って、エゴはあなたに利益をもたらすことは何一つしてくれないのである。エゴがあなたに与えてくれるのはせいぜい麻薬のようなもの、まやかしの陶酔感くらいが関の山なのだ。そこから覚めればあなたはより一層不幸になっているだろう。

ところが、「コース」のいう目覚めはこれと全く違うものなのだ。エゴの与えたまやかしの陶酔感から覚めた後の不幸という「現実」もまた幻想なのであって、その幻想から目覚めたところにこそ本当の幸福があるのだ。

エゴは本当に巧妙なので、嫌なこと(に思えるだけなんだが)に見舞われたあなたにはまず「落ち込みなさい、あの人を責めなさい、愚痴を言いなさい、あなたにはその権利があるんだよ」と勧めておいて一瞬だけの満足を与える。そして今度は「結局何も変わってないじゃないか」という“現実”を見せてあなたを更に苦しませるのである。まさに薬物摂取とその禁断症状みたいなもので、これに馴染んだ人は禁断症状に耐えられずついついエゴが与える麻薬に手を出してしまうのだ。ここから抜けるのは確かに容易ではない。

容易ではないが、だからといって「仕方ない、それでいいですよ」というわけにはいかない。誰だって薬物依存性になった人にそんなことは言わないだろう。

そして、薬物に依存した生活より薬物なしで過ごせる方がずっと「楽」で快適なのは言うまでもない。エゴに依存して過ごすよりエゴなしで過ごすほうがずっと「楽」で快適なのもこれと同じことなのだ。

「奇跡のコース」他の方法との併用について 1

「奇跡のコース」他の方法との併用について

「コース」を初めて読んでみて、「わからない」「いまひとつピンと来ない」と感じる人が多いのはおそらく「そのまま現実に適用できるような具体例がほとんど全く出てこない」せいもあるだろうと思う。ちゃんと読めば、あるいは慣れてくればこれほど懇切丁寧な実践書もない、とわかるのだが、口当たりがよく優しげなスピリチュアル系書籍に慣れた人々にはどうにもつかみどころがわからないのかもしれない。その点は理解できるので、私の解説ブログではできるだけ具体例を挙げてわかりやすくしたつもりなのである。

「コース」は、もっとも根幹の部分つまり原理そのものを解き明かしている書物なので、本当はこれ一冊やれば他には何も要らない。これは断言できる。しかし、多くの人びとにとっては「目の前の“現実”」「変えたい“現実”」と「原理原則」をつなぐ何か、もっとわかりやすい手応えがある何かがとりあえず必要だったりするらしいのだ。

ピンと来ないなりにひたすら「コース」だけをやり続ける、という方法ももちろんアリだし、これは遠回りでも何でもない。しつこく取り組んでいれば想像もできないような変容がもたらされるだろう。ある人は「コース」(というか、私のブログ)があまりにも難しいので、これを理解できるようになるための「予備学習」として仏教や禅の入門書を読んだのだそうだ。

「コース」は、わかりやすい即効性を求めている人にとっても食い足りない感じを与えるだろう。これは実のところ「エゴにとってのわかりやすさ」に他ならないのだが、それもしかたない。エゴに苦しめられている人こそ「コース」を必要とする、しかしエゴがあっては「コース」が理解できない、というまあ一種のジレンマみたいな構造もあるにはあるからだ。これを打開する方法は非常にシンプルであって、とにかく「判断しない」という姿勢と「正しく理解したい」という情熱を保ちつつ真摯に取り組んでいれば自然にエゴが引っ込んでしまうのだ。それはほんの短い時間かもしれないが、エゴが引っ込んだ瞬間に理解が訪れる。どうせエゴは戻ってくるのだが、上記の姿勢で頑張っていればエゴが引っ込む瞬間もまた訪れる。その繰り返しによって次第に理解が深まり身についていくのである。

また、「コース」にはいわゆる「テクニック」が出てこないからどうしていいかわからない、という声も聞く。テクニックが出てこない、どころか私に言わせれば特にワークブックなど即効性のあるテクニックが満載なのだが、最初はそのことが見えないのである。そうなると、どうしても「エゴにわかりやすいテクニック、エゴにアピールするテクニック」を用いたやり方を求めたくなるのだ。

結論からいうと、「コース」を読みながら(あるいは実践しながら)他の方法を併用しても全く構わない。「コース」もそのことは禁じていない。それどころか「真の解放と救いのために役立つのなら何でも使え」とさえ言っている。たとえ間違った方法であろうとも、当人のマインドが正しく保たれていればそれを聖霊が有効利用してくれるからである。何が気づきのきっかけになるかわからないのだ。

「コース」を学んでいるが、それ以外の方法も試そうとする場合の注意点は「いいとこどりをしようとしないこと」である。「コース」は「コース」として学び続ける、その一方で他のワークやセラピーをしている時にはそれに集中する。「コース」はこういうところが足りないからこちらのワークで補おうとか、この考え方は気に入らないからここだけはあちらの教えを取り入れよう、みたいなことをしていると必ずといっていいほど失敗する。何故なら、このような取捨選択をおこなうのはエゴ以外にないからだ。あれを選びこれを捨てる、という判断や選択をしているのはエゴなのである。エゴのガイドに従ってうまくいくわけがないではないか!エゴの導く通りにやっていたら、あなたは確実に救いや解放から遠ざかる。あなたが救われず解放もされないようにしておくことがエゴの目的だからである。

それぞれを自分の判断で混ぜ合わせたり組み合わせたりしないで普通にやっていれば、どこかで必ず「あ、これか!」という瞬間が訪れるかもしれないのである。それは単なるきっかけであって「ゴール」ではない。「ゴール」ではないのだが、ゴールに至る大きな第一歩である。

もうひとつの注意点。他のワークやセラピーと併用しても大丈夫、ではあるが「神頼み系」それも「現世利益を求めるための神頼み系」は避けたほうがよいと思う。純粋や信仰なら構わない。「コース」を学びつつお寺で修行するとか座禅を組むとか神社で祭礼をするとか、そういうのは全く問題ない。問題になるのはそこに「神頼み」「願掛け」が入ってくる場合だけだ。「コース」の神様とあなたのカミサマが喧嘩するから、などという理由ではない。

もともと「コース」は、現世のあれこれを現実だと思うから救われないのだということを繰り返し説いているのだ。これは「コース」に限らず禅なども同じである。現世利益が得られることが救いになるのではなく、そういうものに縛られないことこそが救いなのだ、という考え方である。これは、現世利益の神頼み系とは全く矛盾する考え方である。これではたとえ併用したいと思ったとしても不可能に決まっているのだが、「救われたい!」との思い余って何でもいっぺんに手を出す人や、「コース」さえも聖霊による神頼み系にしてしまう人がいるので一応書いておいた。