あなたは旅から来ましたですか | Okinawa通信 ⇒ 伊都国つうしん

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2010年1月。30年以上住んだ東京から引越し、沖縄生活をスタート。
その沖縄に10年暮らし、『Okinawa通信』を書きました。
が、さらに、2019年10月末に、ここ、福岡市西区・糸島近くの
「伊都国(いとこく)」の地に。

Okinawa通信776


● 「生」 という旅、 と題された道浦母都子さん (以下は敬称略します) のエッセイ。

   もう二月ほど前の日経新聞に載っていたのですが、とても印象に残りました。
 
 
「道浦母都子」 という名は見知ってましたが、歌人としか知らず、
どんな年代の人でどんな歌を書いているのかは知りませんでした。 




 

                                      日経新聞8月12日付け。



年齢は私より4つほど上ですが、大学時代は重なっていると知りました。
そしてバリバリの反政府学生運動家で、収監された経歴もあります。
 

彼女の歌集に、

「私だったかもしれない永田洋子 鬱血のこころは夜半に遂に溢れぬ」 という歌があるほど、
身も心も、まさに運動に捧げていた人だ、と分かりました。


私が大学に入ったのは1969年ですが、その年の1月に、東大安田講堂事件がありました。
東大安田講堂などを占拠していた全共闘、新左翼の学生活動家たち排除のため、大学側から依頼された警視庁が催涙弾や放水など実力で封鎖解除をした事件です。

1969年は、その影響でおそらく史上初めてでしょう、東京大学の入試が無くなりました。
東大のほか、東京教育大学 (現・筑波大学)と、たしかもう一つ大学の入学試験が中止になった、という年です。

その東大安田講堂に警察隊が突入し、学生たちを蹴散らしていたとき、
まさに蹴散らされていた側に、当時大学2年生だった道浦母都子はいたのでした。


その道浦母都子が、歌人として名をなした後も、
なかなか、沖縄に足を向けることができなかった、と書いています。

    かつては 「沖縄奪還」 を叫び、「沖縄を返せ」 をうたっていた一人なのだが、……
    島民の四人に一人が先の戦争で亡くなった沖縄。
    そうした人々の魂や骨の埋まっている地を踏んではいけない。
    その思いが強かったからだ。
   
それが、やはり短歌の関連がきっかけで沖縄に行くことになり、最初に訪れた宮古島、石垣島の
先島諸島を巡る海の美しさに魅了され、その後はたびたび沖縄を訪れることになった、といいます。
基地と人々の暮らしを知り、触れるにしたがい、沖縄との関係が深くなったようです。


このエッセイに載っていた短歌には、

    おずおずと来たる辺野古のゲート前小さき椅子に畏れつつ座す

    那覇に来てヤマトンチューと呼ばるると体のどこか軋(きし)みはじめる
  
   
19年前に亡くなった彼女の母親は、最後の旅に沖縄を選んだそうです。
「天国にいちばん近い気がする」 という理由だったとのこと。

    時間待ちの那覇空港のウィングにしずかに涙していし母よ
 

そして、このエッセイの最後は、こんなふうに結ばれています。


    忘れがたき島びと言葉 「あなたは旅から来ましたですか」

    「生という旅」 を生きる私は、沖縄の島々をいとしみ続け、
    沖縄の今の自然が壊れないことを願ってやまない。
   
   
   
  
ウチナンチューの言葉で、
方言ではなく、同じ日本語なんだけれど、使い方がちがっていて、それが沖縄独特の
不思議さ、柔らかさや、面白さを感じることがあります。

この 「あなたは旅から来ましたですか」 も、
いわばただ、「旅の方ですか」 ということなのだろうけど、
沖縄の表現で 「旅から来ましたか」 と問われて、きっともっと深い意味合いを感じたのでしょうね。



● もう少し、道浦母都子の話を。


 このエッセイ、そして彼女の経歴に強い印象を受けたので、
 もしあれば、と道浦母都子のデビュー歌集 『無援の抒情』 を沖縄市立図書館で探してみました。
 
 

 

             無援の抒情 道浦母都子
             岩波文庫 

             借りてきた後、
             これは持っていたい、と思い
             買い求めてしまった。
             たぶんもう絶版なのでは。
             購入したのも古本。




東大安田講堂事件をはじめ、1968年~69年の、全共闘はじめ大学紛争がもっとも激しかった時代。
まさにその時代に、反政府活動に身も心も尽くしていた緊迫した日々、その赤裸々な思いが、歌に込められていて、
胸に、ずしんと響いてきます。


   「今日生きねば明日生きられぬ」 という言葉想いて激しきジグザグにいる

   催涙ガス避けんと秘かに持ち来たるレモンが胸で不意に匂えり

   リーダーの飲み代に消えることもある知りつつカンパの声はり上ぐる

   夜を徹しわが縫いあげし赤旗も故なき内ゲバの血に染まりゆく

   ガス弾の匂い残れる黒髪を洗い梳かして君に逢いにゆく


『無援の抒情』 の導入部分からだけでも、ヒリヒリしてきます。


1969年、京都の大学に入った私。
その年、京都でもやはり多くの大学は、入学式後まもなく学生活動家たちにバリケード封鎖されました。
道浦母都子のような活動家でなく、いわゆるノンポリであった私ですが、それでも何度かデモにも参加しました。

そして何度か、警察隊が放つ催涙ガスの中、まさに涙が止まらず顔も痛い状態で、京都の露地を歩き、

そんな学生たちを気の毒に思ったのか、町の人々がホースや洗面器に張った水などを用意してくれて、

私ら学生たちが催涙ガスを洗い落とすべく顔を洗った、などのことを思い出しました。


1969年、70年は、そんな政治の時代だったのです。

道浦母都子の短歌をよみ、そんな時代を思い出したのですが、
ただそれは、懐かしさとか郷愁とかでは、決してありません。

なんというか、
いま、のんびり沖縄にいる自分の姿を、客観的に見つめる目を持つ大切さを
思い出させてくれた、そんな感じです。


● ちなみに、『無援の抒情』 の最後に掲載された

     わが世代を歌う 道浦母都子小論 (後藤正治)  によると、

 

道浦母都子の歌は、伝統歌人の立場の人たちには、言葉遣いや技法は未熟だそうだけれど、

「70年代を代表する歌人は道浦母都子であり、80年は俵万智であったことも動かしがたい」

とされているそうです。

 

それほど、短歌の世界にインパクトを与えたデビュー歌集だったのですね。

 

俵万智といえば、

 

    「嫁さんになれよ」 だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの

 

のベストセラー 『サラダ記念日』 の、やはりこちらもデビュー作で有名ですが、

東日本大震災のあと、仙台から、沖縄の石垣島に移住していました。

(2016年に宮崎に移ったよう)