Okinawa通信619
● 前回のつづきです。 おもにその内容について。
ちょっと長くなるかもしれないし、
関心のない方には、面白くない話かもしれませんので、どうぞパスしてください。
前回お話したように、
浄土宗の学僧・ 袋中 (たいちゅう) 上人が、51歳にして明への留学を決意し、渡明のため琉球に滞在すること 3年。
そのわずか 3年で、時の琉球王・ 尚寧をも帰仰させ、王朝の上流階級とも親交を深めます。
そして 「神の国・琉球の伝記」 を書いてほしいと懇願され、記されたものが琉球神道記です。
尚寧王や琉球王朝から受ける敬愛の深さ、また、琉球だけではなく、
京都など内地にも、袋中についての研究書や多くの足跡が残っていることからも、きっと徳の高い僧だったのでしょう。
さてその内容ですが、袋中が記した琉球神道記は、5巻で構成されています。
前回紹介したように、仏僧が書いたものですので、
神道記とはいえかなり仏教色の濃いものとなっています。
第1巻は、序文と 「三界の事」 という章立てで、世の宗教の基本的なことを説いています。
第2巻は、仏の国天竺・ インドにおける仏教の成り立ちについて。
第3巻は、それが伝わった王の国支那における王朝の歴史について。
第4巻は、琉球国にも伝わっている仏教の寺院に祭られている、数々の本尊について。
そしてようやく第5巻にして、琉球国の神々について説いています。
まず最初に、現在でもその名が残っている 「琉球八社」、
波の上宮を第一位とする、琉球王朝に守護された八つの神社について記されています。
波の上権現については、その由緒が逸話として詳しく書かれているのですが、ほかはごく簡単な説明に終わっています。
その逸話も、まぁ特に興味深いというものではありません。
そして現在でも知られていることですが、
八社のうち、一社のみが八幡代権現を祭っているが、残り七社はすべて熊野権現だとしています。
私としては、どうして、熊野権現なのか。それが知りたかったのですが、それは記されていません。
一昨年、熊野を初めて訪れたとき、実は、和歌山と沖縄は関係が深いようだ、と知ったのですが、
その意味でも、もっとその関係性の由緒を知りたかった。
その琉球八社の説明のあと、なぜかヤマト王朝の歴史、古事記に出てくる神々の説明が入ります。
そしてそれとの関連はないまま、沖縄で現在でもよく知られている
「天妃 (てんぴ) の事」 「火神 (ひぬかん) の事」など、琉球に関連の神の事が書かれています。
がしかし、その由来については説かれているのですが、それがなぜ琉球に土着したのかが、
イマイチよくわからない。
琉球神道記第五巻のはじまり。
波の上権現の事から説明が始まる。
「琉球国には、大社が七カ所ある …」
と書き始められているが、
これは訳者の原田氏の注によって、
八カ所の間違いだ、と指摘されている。
● さて、その琉球神道記第五巻の、最後の4分の1になって初めて
キンマモンの事 《以下は、まさしく琉球王国の神道である》 ……… と章立てられています。
ここでようよう、琉球王国の神道の話が始めるわけです。
キンマモンの事。
琉球神道記全体からみれば
10分の1程度だった。
それがちょっと残念。
私が沖縄に来てから知った、
いわゆる琉球国開びゃくの、私にはお馴染みになった神話のあらすじが語られているのですが、
「キンマモン」 という言葉は初めて知りました。
ちょっと導入部分だけ、注釈者による現代語訳を、さらに注釈を織り込みながら簡単に説明してみますと。
昔、この国のはじめ、まだ人のいない時に、天から男と女の二人が降りてきた。
男を シネリキュ、女を アマミキュという。
この時まだこの島は、波に漂っていたが、二人で木や草を植えてようやく国の形とした。
二人は性交はしなかったが、近くに住み、行き来する風をたよりに、
女が妊娠し、三人出産した。
一人目は所々の主の始まりとなり、二人目はノロの始まりとなり、三人目は土民の始まりとなった。
このときまだ国には火がなかった。龍宮から火をもらい国が完成し、人間が生長して、
守護の神が現れた。それが 「キンマモン」 として称えられ奉られた。
この神は、海底を宮とする。毎月現れて、「聞得大君 (きこえのおおきみ)」 を通じて
託宣がなされ、御嶽(うたき) で遊ばれ、神歌オモロを唄われる。 ………
注釈によると 「キンマモン」 は、君真物 (キミマモノ) 。国王に与えられた神号とされています。
第一尚氏の尚巴志までの王、
察度 (大真物)、武寧 (中之真物)、思紹 (君志真物)、尚巴志 (勢治高真物) …… という具合。
つまりヤマトの神話・古事記が、日本開びゃくの神々から神武天皇から始める天皇へと繋がる、権威付けのための物語であるのと同じように、
琉球神道の神話も、この 「キンマモン」 の登場により、尚王朝への繋がりを記した物語となったわけです。
これは、今回初めて知りました。
ところで、
この国 (琉球) の風俗に、岳々浦々の大石や大木を、すべて神としてあがめる。
そして、その神を拝み崇敬すると霊験がある。以下の記述は、古今の事を拾い集めて列挙する。
……… として、10余りの短い逸話が記載されています。
それらの逸話は、琉球王との関連はなく、
おそらく袋中が滞在していた琉球時代に話されていた、不思議な事象だったのではないでしょうか。
その中からいくつか紹介してみますと。
● 昔、那覇の若狭町に、若狭殿という人妻がいたが失踪した。夫は悲しんで神々に祈ること数十年。
33年たって海から帰って来た。失踪した時二十歳であったが、むしろ若返ってきた。
人びとは他人だと思ったし、夫も疑った。
妻がいうのは 「野原で2、3日遊んだだけです。どうして歳をとるものですか」
さらに昔の、夫とのしとねの中での睦言を、ひとつひとつ話したので、夫も納得した。
その後夫婦睦まじく暮らし、女の子が二人生まれた。その子孫がつづき、
いま6代の孫がいる。私も、その孫のひとりを見た。いつのことかは忘れたが。
● 変身 (はみ) と呼ばれる人がいる。これは男子が変じて女人となったものだ。
陰茎は小さくしぼみ、顔形がかわり、髭も落ち、声もかわった。
現身の変成もあり、きわめてまれなことである。
昔、香功徳仏 (こうくどくぶつ) が説法された場で、
花目王 (けもくおう) の后妃や采女が多くの解脱を得て、変成男子をした。
解脱は仏力であって、変成は神力でる。
強いてどちらかの力のせい、とせぬがよいのである。
● (琉球国の) 国土を見ると、不寒不熱で、草木は四時にしぼむことはない。
人心もまた柔軟である。伝承に、龍宮世界とある。だとすれば、
琉球の二字は、おそらく龍宮の発音である。
那覇は、阿那婆達多 (あなばだった) 龍王の住居なのだろう。
現在、那婆と略して言っているのである。
那婆から那覇 ……… は、知らなかった。 真否はどうなのでしょう。
龍宮から琉球 ……… は、面白い説だと思う。
ただ以前ブログでも書きましたが、琉球は 「流求」 から来ている、という強い説もあります。
【Okinawa通信148 琉球の名、沖縄の名の源は…】 をご参照ください。
「隋書」 に初めて流求国の記載が出てきて、
そこには、遣隋使がいまの沖縄のことを、小野妹子に尋ねたとあります。
そして小野妹子が、その島は、九州よりも南の島なので、おそらく屋久島のことだろう
と勘違いをし、当時の呼び名 「夷邪久 (いやく) 国」 だと、遣隋使に説明をします。
その 「いやく」 の発音が、中国古音では 「流求」 だった。
それが14世紀になって 「琉球」 の文字に改まった、
とされています。
さて、琉球国・ 那覇の3年間、袋中はこの国にとてもいい印象を持ったようですから、
琉球は 「龍宮」 の説を、記したのかもしれません。
さて、どちらなのでしょう (笑)。
● 本文中の 「南蛮ゆきの船」 の注釈に、当時の琉球国の海外貿易の繁栄ぶりが書かれていて、
とても興味深い。
琉球国は、明代は中継貿易をしていた。明への琉球国からの朝貢品の中にも、
象牙・降香・木香・速香・丁香・檀香・黄熱香・蘇木・烏木・胡椒という
南蛮船の物品が含まれていた。
生産国が直接に明国へ朝貢するよりも、琉球国が朝貢する時のほうが
はるかに高値に評価された。
たとえば胡椒は普通一斤三貫だったが、琉球からの朝貢品は一斤三十貫で、
10倍であった。
なぜ、琉球国からの貿易品が10倍もの高値で評価されたのか、
その理由は書いていないので分かりません、残念。
想像するに、現在、中国が日本製の製品を爆買いするのと、近いものがあるのでしょうかねぇ (笑)。
そんなこんなで、前回の最初にも書きましたが、私の期待する
「琉球神道と、ヤマトの神道に共通するものあるいは違うものを見つけられるかも」
については、それほど応えてくれるものではなかったのです。
それでもこの 『琉球神道記』、 いろんな新しい事を知らせてくれた面白い本でした。
長々とおつき合い、ありがとうございました。
「キンマモンの事」 の後には、ずっと
袋中が書いた 『琉球神道記』 の
自筆の写しが掲載されている。
今日(9月9日・重陽の日) の空模様。
ここ数日、ずっと雨。強い雨もあったし、
雨があがっても暗い曇天。
台風13号の影響だ。
この台風、なんと宮古島沖合いで発生。
つまり沖縄県内で誕生した台風なのだ。