江戸時代初頭に京都の伏見にあったイエズス会の「伏見教会跡」について、少し覚え書き。

 

秀吉の伴天連追放令によって京都の南蛮寺が破壊された後、都地方の状況は二転三転していきます。秀吉は一気に禁教へ舵をきらず、高山右近の京都入りを許したり、文禄慶長の役に際して彼と名護屋で謁見したりしています。また1591年にはイエズス会巡察師ヴァリニャーノと面談すらしました。サン・フェリペ号事件では石田三成が事件に無関係な右近を守っています。許可なく表立って布教活動をして咎められたフランシスコ会などのスペイン系修道士たち以外は、緊迫した状況の中で表立っての活動は自粛して、つつましくミサや洗礼を行っていました。

 

その後秀吉が死に、徳川の時代に入ってもしばらくは伏見は政治の中心地でした。そのため伏見でのイエズス会の活動はひっそりと進められていきます。1612年に右近の従兄弟のマルコ孫兵衛の名義で土地を手に入れ、伏見の司祭館兼教会が建てられました。周囲を民家に囲まれた奥まった場所に建てられ、建築方法も民家と変わらないスタイルで、一見教会とはわからないように建てられていました。

 

 "伏見の司祭館は…公道に面した修道院は世俗の建物と変わらぬようにしてある。そこには教会があり、その奥に司祭の住居がある。

 伏見の奉行が通り全体の頭である一人の者に、「キリシタンの教会が市にあるか」と尋ねると、「あります」と答えたことがあった。その通りの有力者たちはそれを知ると奉行所に押し寄せ、それは教会ではなく(高山)ジュスト右近殿の義兄弟孫兵衛の屋敷であり、そこには時々司祭が来たり、また長崎からその地に来るポルトガル人を受け入れたりしている(だけだ)と言って、奉行たちを宥めた。"

(イエズス会1612年日本年報/同朋社版より転載)

 

 ”私たちは十一、二年前に伏見の市に教会と修道院を持ったにもかかわらず、建造時に国主から許可を得ないで誰にも知られないうちにことを進めたので、教会が荘厳で聖なる建造物というよりはむしろ普通の家に見えるように故意に建てようと努めた。…それと同時にマルコ孫兵衛という名前の、…土地が買い入れられたのも、修道院が建てられたのも、結局のところ最初から彼の名義であった。”

(イエズス会1614年日本年報/同朋社版より転載)

 



 伏見の古地図には、周囲を町家に囲まれた高山右近の屋敷(青囲み)が示されています。しかし右近の屋敷は別の場所(赤囲み)にもう一箇所記載があるため、この人目に隠れている右近の屋敷跡と記された場所こそイエズス会の報告にある伏見教会跡と考えられています。(三俣俊二 2003「伏見キリシタン史蹟研究」『伏見の歴史と文化』などで言及)

 

 そして、1612年の岡本大八事件がきっかけで徳川幕府のキリシタン弾圧が本格化し、1614年には日本に残っていた他の教会と同様に破壊されました。






 古地図の右近屋敷跡(伏見教会跡)の地点は現在は幼稚園や小学校の敷地となっていますが、その土地に入っていく通路が古地図に示されていて、しかも現存しています(!)。すぐ横に室町時代の伏見松林院陵があり、そこへの参道として使われていたため残ったらしいです。

 そのあたりはその正面にある「大倉記念館」で伏見教会についての展示も行っている月桂冠さんが紹介してくれています。

 


 



 また、現存する古地図を元に、京都の地図屋さんが現代風のデザインで当時の地図を作成しておられます。古地図自体の検証が必要ですが、しかしこうして扱いやすい形で地図を出してもらえると直感的に地域を見ることができます。

 

 

 伏見教会とその時代については、イエズス会の報告だけでは不明瞭な部分もありますが、高山右近とその父ダリオ、ジュリアおたあなど著名なキリシタンたちも関わる土地なので、今後も面白い発見があるかもしれませんね。

 

再現された十石舟にも乗って、当時の城普請などを思ってみるのも涼しげでよいかもしれません。

 





おまけ。八尾まで足を運んで満所墓碑も見てきました。