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 平戸で起こったポルトガル人殺傷騒動「宮の前事件」の後、貿易港として開港され、新しい町が繁栄の兆しを見せ始めた横瀬浦。1563年にはその教会で病床にあったコスメ・デ・トルレス師の盛式誓願のミサが行なわれました。司式者ルイス・フロイスもミサ中に高熱の発作を発症しますが中断なく務めます。(彼はその後7ヶ月以上も高熱と悪寒に苦しめられます。)
 横瀬浦がその喜びで湧く夜に、大村純忠の家臣たちが後藤貴明に通じて謀反を起こし、ミサからの帰路にあった純忠の重臣ドン・ルイス朝長新介を殺害。横瀬浦の港、町は焼討ちにあい、純忠自身も命を狙われます。
 これ以降、南蛮貿易の舞台は福田、そして長崎に移っていき、横瀬浦は歴史の表舞台から消えていきます。


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 横瀬浦の桟橋近くに立つ「史跡 南蛮船来航の地」の碑。Porto de Nossa Senhora da Ajuda(御助けの聖母の港)と呼ばれた港の繁栄は、今はこの碑以外に見ることができません。

 横瀬浦が開港した際に、ポルトガル船で来航する貿易商には十年間の関税免除が決められました。それは純忠の好意が平戸の松浦氏以上であることを示すものとなったことでしょう。


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 その近くにある「上町」と「下町」の碑。階段の左が港の入り江に面した低地で、階段右は小高い山に沿っているのでこう呼ばれているのでしょう。かつて貿易と宣教で栄えた横瀬浦の町も、今は見るかげもありませんから、これらの碑でその存在を知るだけです。

 この新しい横瀬浦の町にはイエズス会宣教師たちの許可なく異教徒の居住が認められないことになっていましたので、実質的にキリシタンと商人の町でした。


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 史跡公園の展望塔から見た上町と下町の跡。今も上と下に町が分かれているのが分かります。

 上町の後方の山の高くなっている場所にはかつて十字架が建てられていて「町ノ辻十字架塔跡」と呼ばれています。


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 横瀬浦のさらに町の中に入っていくと、横瀬コミュニティーセンターの脇に「長崎甚左衛門純景居宅跡」の碑があります。

 大村純忠の娘を妻とした長崎甚左衛門はおそらく純忠の家臣として純忠の受洗の際に横瀬浦で一緒に洗礼を受けたのでしょう。彼は長崎市内にあった居館に住まう長崎の領主でしたが、豊臣秀吉の伴天連追放令と長崎の天領接収によって所領を失い、筑後柳川の田中吉政の元で仕えるようになります。その後、純忠の子である大村善前の代には横瀬浦に戻り、1621年に時津で70歳でその人生を終えます。


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 横瀬浦の史跡を一通り眺めた後は、少し北に移動します。「海の駅・船番所」という土産物とレストランのお店が目印。そこから「八ノ子島」がすぐ近くに見えます。アルメイダの書簡によると横瀬浦開港時には三晩続けて空中に十字架の幻が現れ、ナウ船の船長ベーロ・バレットによってこの島の頂上に十字架を建てることが命じられました。この十字架は遠くからも見えたために貿易船入港の目印となっていました。Ilha de São Pedro(聖ペトロの島)と呼ばれたこの島には1962年に白い十字架が再建されて、大航海時代の日本を少し感じられる場所になっています。


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 確かにこの白い十字架は空の青や山の緑に映えて目立ちますね。
 
 この段階で午後4時30分。猛暑日なので熱中症にならないようお茶を買って移動を開始・・・。でもさすがに体が参っていて途中のコンビニで1時間休みました。


(つづく)