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「私はローマへ行った中浦ジュリアン」

 1633年、小倉で捕らえられた中浦ジュリアンは長崎桜町牢へ、そして西坂へと殉教の道を歩みます。刑場に入るに際してジュリアンが役人に告げたのが、この言葉。

 彼の出生地である西海市の西海町中浦に立つ彼の像は、はるか彼方にあるローマを見据えてかの地を指し示しています。


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 カクレキリシタンとド・ロ神父の史跡を回った後、国道202号線を北上して西海市へ。途中、金鍔次兵衛が潜伏していた次兵衛岩やいくつかのキリシタン墓などに後ろ髪を引かれながらパスして、1時間足らずのドライブです。

 西海市西海町中浦南郷。そこは天正遣欧少年使節の一人、中浦ジュリアンゆかりの地。今回の旅を企画した理由の一つはここに来ることでした。

 中浦の領主である小佐々氏甚五郎純吉の息子として生まれ、中浦のこの地(地名に字御園・舘と残り小佐々氏の舘跡とされている。)に育った小佐々甚吾、後の中浦ジュリアン出生の地を少しだけ歩きます。(地図中、「記念公園」が「記念館」にミスタイプされているのはご愛嬌。)


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 消防団の格納庫を目標に現地を目指していくと、駐車場が完備されています。そこから格納庫の裏手に行くと県指定史跡「中浦ジュリアンの地」解説の案内板が立っています。そこから右手に行くと「顕彰碑」、左手に行くと「記念公園」と展示室があります。

 「中浦ジュリアン顕彰之碑」は、帆船と地球がモチーフ。半円形の地球部分には日本からアジア、アフリカ回りでヨーロッパに達する航路が描かれています。
 やはりジュリアンの業績というと日本で初めてヨーロッパに派遣された使節、ということになるのでしょう。歴史教科書でも天正遣欧使節と四人の少年の顔は採り上げられるので、小学生の頃に中浦ジュリアンと他の使節たちの顔と名前は暗記して遊んでいました。ただ、彼らの生涯ということになると最近まで何も知らないままでした。

 この顕彰碑、路地から入り込んで階段で少し上がったところにあり、周囲を樹木で囲われているので一見分かりずらいですが、案内看板が随所にあります。


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 こちらは「中浦ジュリアン記念公園」。階段の登り口にジュリアンの顔などを描いたタイルがあります。この顔の出所は教科書にもよく出る京都大学博物館蔵のメスキータ神父と四人の少年使節を描いたアレかと思ったら、ミラノのアンブロジアーナ図書館所蔵の「ウルバーノ・モンテ年代記」の挿絵のようです。

 階段の先には展望台兼資料展示室があります。


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 展示室内は長崎純心大学の本田利光教授によるジュリアンの生涯を描いた壁画で彩られ、ジュリアンからローマのヌノ・マスカレニヤス神父に宛てた手紙の複製など、ジュリアン関係の資料が若干展示されています。


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 壁画は「殉教」に至ります。当時、宣教師やキリシタンたちが次々と棄教していった拷問「穴吊り」にかかるジュリアンを描いています。

 私の昔の蔵書は今の職場に移る時にほとんど全て処分してしまいましたが、一部だけ残したものがあります。その内の一冊に、カルディムの「日本の精華」所収の中浦ジュリアンが穴吊り刑を受けている図が掲載されていました。昔は読み飛ばしていたようですが、数年前に穴吊りの絵を探してその本を開いた時に「中浦ジュリアン」という文字に目がとまったのです。それが少年使節たちの晩年に関しての初めての知見でした。今でこそ日本のキリスト教史を学ぼうとしていますが、長い間関心も持たず、ほとんど知らなかったわけです。

 同じ刑を受けながら信仰を捨てなかったペトロ岐部について知ったことが、穴吊りの過酷さと多くの信仰者の信仰のもろさを知るきっかけでした。当時イエズス会日本管区長代理であったフェレイラ神父がこの刑で棄教したことは知られていますが、同じ時に中浦ジュリアンも穴吊りにされながら、彼は信仰を棄てなかったということで、いよいよ司祭中浦ジュリアンに関心を持ったのです。


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 中浦ジュリアンは伊東マンショや千々石ミゲルが大友・大村という大名の名代として選ばれたような特別な身分だったわけではなく、原マルチノのように優れた学才で目立つわけでもない。ローマでの法王謁見の際には伝染病の高熱に倒れており、一説によると日本の少年使節を「東方の三博士」に仕立てるために、熱を理由に謁見の機会を奪われたとも言われます。マニラのコレジオで学んだ後の司祭叙階も延期され、今風にいうなら「ハブられた」体験をしばしばしています。しかし堅実に働き続け、イエズス会で同様の扱いを受けていたペトロ岐部と同じように、生涯をかけて信仰を全うし、そして共に列福されて人生が評価されたのです。

 そして彼の人生はそのような逆境の中で信仰を強く証言していきました。高熱に倒れて謁見の機会を逸しながらも、周囲の反対に屈せず強く訴えて法王グレゴリウス13世との個別謁見の機会を得ます。法王は彼を抱きしめて祝福しました。司祭叙階が延期された後も各地の教会で働き続け、1608年についに司祭叙階。1614年の禁教令の後は口之津を拠点として潜伏し、九州のキリシタンを励まし続けます。マンショは1612年に病死、ミゲルは早々に棄教、マルチノは1614年に国外追放、ですから禁教下では少年使節のうちジュリアンだけが奮闘しています
 そして1633年、西坂で穴吊りにかかります。フェレイラが数時間で棄教したのに対し、ジュリアンは4日間耐え、最期の言葉「この大きな苦しみは神の愛のため」を残して天に帰りました。


 もし彼が今生きていたなら・・・はるか彼方の地を指差して、小さなことや地上のつまらないことに拘泥する私たちに「あの地を見ろ」と語りかけるように思います。


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 おまけ。西海市の歴史民俗資料館に立ち寄って見学させていただきました。そちらのジュリアン像は中世のスケッチに則した顔立ちで作られています。

 西海市の博物館構想についての答申書では「西海市歴史民俗資料館は閉館すべし」との記載が!。「展示内容が更新がされていない」「専任学芸員がいない」など様々な問題が指摘されていますが・・・。夏休みにも関わらず完全消灯、冷房停止、施錠・・・ではリピーターも付かないでしょう。学術的な理由以前の問題だと思います。

 ということで、図書館の方にお願いして鍵を開けていただき、冷房のない展示室で汗をふきふき、一部照明の消えたままの展示室を見学しました。これでは長居もできずモッタイナイ。。。


(つづく)