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 外海山中深くの谷に住み、弾圧下にある浦上と外海のキリシタン信徒のために尽くした日本人伝道士バスチャン。伝承によって知ることしか出来ない人物なので、その人となりはほとんど分かりません。佐賀藩鍋島氏の飛地である長崎県の深堀(長崎市からずっと南にいった伊王島に近い場所)の平山郷布巻で生まれ、その地の教会で働いていたようです。
 その後、宣教師ジワンの弟子となって福田村から外海まで伝道し、この後の潜伏キリシタンたちの信仰を守る要因の一つとなった「日繰り(教会暦)」を教わって、それを伝えました。それは今も外海歴史民俗資料館で見る事ができます。


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 1657年に起こった大村藩の「郡崩れ」により、この地域のキリシタン摘発と弾圧は顕著になります。バスチャンは西彼杵半島南部の樫山(そこにもいわゆる聖地が多くあります)から、この谷に移り、潜伏を続けます。

 またこの場所にはバスチャンの指示で掘ると泉が湧いて川の流れとなったというバスチャン川、バスチャンが洗礼に使った泉、バスチャンが生活に使った井戸などがあります。潜伏キリシタンたちにとって、特に水のない山中においては洗礼を授ける水の確保は重要です。身を隠す意味でも、信仰を継承する意味でも、この地は重視されたことが想像できます。


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 バスチャン屋敷の建物はもちろん現存していたわけではなく、まず昭和58年に木造で建造されます。しかし谷の湿気で朽ちてしまったため、平成5年に石造りの建物に再建されました。内部にも囲炉裏やカマド、祭壇などがあり、それらしくなっています。最終的にバスチャンは夕餉の煙を発見され捕縛されたとのこと。囲炉裏やカマドを見る時、そのような伝承を少しリアルに感じられるのではないでしょうか。

 バスチャンは3年3ヶ月長崎の桜町牢に入れられて、78回の拷問を受け殺されたと伝えられます。


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 写真ではよくわからないかもしれませんが、歩道の左脇に小さな水の流れがあります。バスチャン川です。これが流れ流れて出津川と一つになり、そして海に流れ込みます。それはまるでバスチャン自身の遺産を象徴しているように思えます。潜伏していたバスチャンという一人の伝道士が残したもの、それは長崎や外海の信徒たちに伝承され、やがて明治の禁教撤廃まで信仰を守り通す力となりました。それが「バスチャンの預言」と呼ばれる四つの伝承です。

一、お前たちを七代までは、わが子とみなすがそれからあとはアニマの助かりが困難になる。

二、コンヘソーロ(告白を聴く神父)が、大きな黒船にのってやって来る。毎週でもコンヒサン(告白)ができる。

三、どこでも大声でキリシタンの歌をうたって歩ける時代が来る。

四、道でゼンチョ(教外者)に出会うと、先方が道をゆずるようになる。


 出津、深堀、浦上、その他、さまざまな地の潜伏キリシタンたちがこの預言を握りました。奇しくも七代後の時代黒船が到来し、潜伏キリシタン発見を願う外国人神父たちが日本にやってきます。浦上信徒の発見、禁教撤廃、それら大きな歴史的出来事の陰には、この場所で希望を語ったバスチャンが(もしバスチャンが「伝説」の類いであったとしても、その元となった潜伏キリシタンの指導者が)、そして彼の言葉を信じて耐え忍んだ潜伏キリシタンたちがいたことを忘れることはできません。


(つづく)