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 西彼杵半島を北上し外海の黒崎へ。日本で3つあるキリシタンを祀った神社の一つ「枯松神社」が最初の目的地です。(「枯松」はこの神社のある場所の地名)

 残りの2つは長崎市内の稲佐山にある桑姫社(その地に移住した大友宗麟の子の義統の娘であるマキゼンシャ桑姫を祀ったもの)と伊豆大島のオタイネ大明神(秀吉の朝鮮出兵の際に日本に連れてこられ、キリシタン大名小西行長のもとで信仰をもち、後に駿府城で家康の侍女となる、おたあ・ジュリアを祀ったもの)。

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 外海は山がちで、かつては陸路での移動が困難だったため陸の孤島となっていました。しかも大村領の中に佐賀藩領が飛び地で存在したために、佐賀藩の領地ではキリシタンの取り締まりが厳重には行なわれていません。それが潜伏キリシタン(旧キリシタン)の信仰伝承が息長く続いた要因の一つです。


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 国道202号線沿いにたたずむカトリック黒崎教会。建設計画にはド・ロ神父も関わり、1899年に着工されますが、資金難で建設を中断せざるをえない時期もあったようです。結局1920(大正9)年に完成します。

 外海とカトリック教会の関わりは1571年にイエズス会日本布教長カブラルがこの地を訪れ、15の教会ができたことにはじまります。
 しかしキリシタン禁令が徹底されていく中、1657年には大村藩でもキリシタンの一斉摘発と処刑「郡崩れ」が起きます。その後は徳川氏の手前、禁教を徹底していることを示す必要があり、大村藩では踏み絵と監視によるキリシタン摘発、仏教徒への改宗が進められました。

 ところが、この特殊な地理的環境にある外海ではキリシタンが表向きは仏教徒に転向したポーズをとりながら、キリスト教信仰を維持されていたのです。(実際には大きく変質して混淆宗教と化しているのですが)


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 黒崎教会から見て、黒崎川の対岸に山中に入っていく道路があり、「枯松神社登り口」の標柱が立てられています。この道をしばらく上っていくと(どんどん細い山道になっていき)枯松神社についての説明看板が立っている場所に出ます。(数台であれば路肩に駐車出来るスペースがあります。カーナビを使うなら隣にある外海総合公園を目指すとなんとかなるかもしれません)

 そこからは徒歩で150mほど歩きます。夏場は虫除け必須です。


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 枯松神社。もともとは潜伏キリシタンが集まってオラショ(祈り)を唱え、それを伝承した場所でした。外海で活動した宣教師ジワン(ジョワン=ヨハネ)の死後に、この場所に墓が建てられ、聖地となっていったとのこと。もともと社殿はなかったのですが、昭和13年に戦地から無事に戻った地元の人が社殿と「サン・ジワン枯松神社」と記された石祠を寄進し、武運長久のご利益がある神社と言われているとか。社殿の中には出征旗や旭日旗などが下がっています。現在の社殿は平成15年に再建されたものです。この社殿の下にジワンの墓があるそうです。(ジワンについてはいくつかの伝承があるようです。それはまた改めて。)

 年に一度、11月3日に枯松神社祭が行なわれて、黒崎教会の司祭さん司式のミサと、外海や出津の旧キリシタン(いわゆる隠れキリシタン)の代表者のオラショ奉納、潜伏時代にキリシタンを見逃していた寺の住職さんの講話などが行なわれます。


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 社殿近くの古木に立てかけられていた十字架を刻んだ石板。ジワンの墓や神社を示すものだったのか、あるいは古い時代の伏墓なのか。

 ここが普通の「神社」ではないことを感じさせるものです。


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 周囲には多くの伏墓があり、キリシタン墓地であることが一目瞭然です。墓石の上には白い小石が置かれています。これは墓参りをする時に小石を十字架の形に並べ、終わると再び形を崩して帰るという習慣によるもので、禁教の時代に墓石に十字架等を刻むことができなかった名残なのかもしれません。


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 「祈りの岩」。禁教の時代にオラショ(祈り)を唱えることができなかったキリシタンたちは、悲しみ節(イースター前の40日)に年に一度だけ夜にこの岩に集まり、オラショを唱えて次世代に伝承しました。当然、人目を忍んでのこと。見張りも立てられていました。

 祈るために、また祈り方を伝えるために、懸命だったキリシタンのことをこの巨大な岩の前で考え、祈りました。


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 黒崎周辺をマッピング。外海を歩くには相当しっかり目的地を調べておくことをお勧めします。道に迷わないために。


(つづく)