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 長崎ツアー2日目。朝一番で大浦から長崎駅に向かいレンタカー調達。手始めに国道499号線を南下してふくろう谷、別名「金鍔谷」を目指します。


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 ポイントとしては「ながさき女神大橋道路」に合流する少し手前、長崎市戸町4丁目30-13にある(有)高田木工所の東側にある階段を登っていった先。周辺で目安になる場所といえば、道路向かい側にはオートバイの「レッドバロン」が目立ちますし、長崎バスの「金鍔」停からなら40メートルほど西に向かった所です。


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洞穴「金鍔谷(きんつばだに)」。江戸時代の日本人神父、金鍔次兵衛トマス・デ・サン・アウグスティノが潜伏していたことから、この名がつけられています。「金鍔」は彼の帯びていた脇差しの鍔が金色だったことによります。

 金鍔次兵衛は大村の出身。豊後のペトロ岐部などと有馬セミナリヨで学んだ後イエズス会の同宿となりますがマカオに追放され、秘かに日本とマニラを行き来しながら28歳頃にセブ島でアウグステチノ会司祭になります。彼がイエズス会士としてマニラで叙階される道をとれなかったのは、ペトロ岐部同様、日本人に対する偏見が原因でした。
 1631年から日本に潜伏し、キリシタン弾圧のお膝元である長崎奉行所で馬丁として働きながら信徒を教え導き、桜町牢でも捕縛された宣教師や信徒と接触を図りました。奉行所の詮索が厳しくなると次兵衛は陸の孤島・外海の山中に潜伏。長崎奉行は佐賀、平戸、島原、大村の四藩による西西彼杵半島の大規模な山狩りを行なって次兵衛を追跡しますが発見されません。それどころか、その間に彼は江戸へ移動、徳川家光の小姓たちをキリシタンにします。このような神出鬼没の立ち回りから、次兵衛は魔術を使うとの評判がたったほどでした。

 しかし、ついに片淵(春徳寺の西方)で捕縛され、桜町牢に収容、その後西坂での二度の穴吊り刑により37歳で帰天し、遺体は石を付けられ海に沈められたそうです。彼は遺体だけでなく、その伝承すらも消滅されたように思われていましたが、近年の研究はその具体的な事蹟を明らかにし、ついには188名の福者の一人として顕彰されるに至りました。

 江戸幕府の禁教政策が激しさを増し、多数の宣教師や日本人神父たちが殺害されたため、日本のキリシタンたちは指導者を欠いていました。その状況を見て、あえて神父として日本に戻った金鍔次兵衛の志の高さには敬服します。彼はこのような不自由な生活をしながらもわずか5年ほどで637人が信仰に導かれ、そしてその師のごとく信仰に殉じていったそうです。 

 
 金鍔次兵衛の潜伏地としては、長崎市外海の山中にある「次兵衛岩」が有名で、カトリックの巡礼地にもなっています。そこはマムシも出る沢沿いを往復2時間ほどの場所。容易に行くこともできないので、次兵衛ゆかりの地を訪ねたい時は金鍔谷の方がお勧めです。


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 金鍔谷は現在、長崎四国八十八カ所第二十四番霊場となっていて、内部は石仏で溢れています。

 ケンペルの『日本誌』所収の長崎図(参考・それをもとにしたベラン「長崎の港と市街図」1763年 )を見ると、金鍔谷辺りまで入り江が入り込んでいるのが分かります。そのため陸路では人が近づきがたい場所だったのか。金鍔次兵衛もこの場所に出入りするには今のように下の道路からではなく、道なき切り立った岩山を登り降りしなければならなかったのでしょう。(後にこの付近に戸町番所ができることから分かるように)海上ルートの要衝でありながら逆に潜伏に適した陸の孤島。それが今では想像できないかつての金鍔谷のイメージです。


(つづく)