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 今回の宿泊場所の裏がオランダ坂。幕末の黒船到来、開国、という流れの中で、各国との修好通商条約により外国人居留者のための宣教師の派遣が公に認められるようになります。長崎にはアメリカ系のプロテスタント宣教師、フランス系のカトリック宣教師が派遣され、大浦の山手地区に居住しました。
 当時、西洋人=オランダ人という日本人の認識から、長崎にやってきた外国人たちが行き来する山手の坂は「オランダ坂」と呼ばれました。

 ところで、このオランダ坂、石畳の坂道というだけで特に特別なものがなく「日本三大がっかり名所」に数える向きもあります。(確かに以前、全く由来を知らずにここに来た時は超がっかりでした。笑)でもこの場所の魅力は見た目で判断されるものではなく、幕末明治にこの場所で起きたこと、志をもってこの地を歩いた人々などを思いながら、それを追体験できることじゃないかなぁ、と思うのです。


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 オランダ坂の途中にある「東山手十二番館」。なにか雰囲気のある建物に近づいてみると、明治元年に建設され、ロシア領事館、アメリカ領事館、アメリカ・メソジスト教会(婦人外国伝道協会)の宣教師舘として使われた、とのこと。(それで1941年に活水学院に譲渡された、ということですね。)

 現在は長崎市に寄贈され、「私学歴史資料館」になっているとのことでしたが、到着したのが閉館時間にわずかに遅く、閉まってました。


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 オランダ坂を上がると赤い屋根が特徴的な校舎が目を惹きます。1879年にアメリカのメソジスト教会から派遣されてきた女性宣教師エリザベス・ラッセルからはじまる活水学院です。

 この後、十数年の間に大浦地区にはプロテスタント系、カトリック系含め5つのミッションスクールが開設され、各々長い歴史を持っています。


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 オランダ坂を登りきった所を右に行くと、階段があり、その右側に「英国聖公会・会堂跡」の碑があります。1862(文久2)年に日本で最初に建てられたプロテスタント教会です。「英国聖公会」となっていますが、創始はアメリカ聖公会によるもので、初代の主教もチャニング・ムーア・ウイリアムズ。彼の帰国後に英国聖公会の教会となります。

 ところで、有名な浦上四番崩れにつながる浦上信徒発見の出来事といえば大浦天主堂、ですが、もしかしたらこの場所がそうなっていた?という陰の歴史があるのです。

 大浦天主堂の建設に先立って建てられた米聖公会の会堂に、浦上のキリシタンが訪れたのですが、彼らは「七代経ったら神父がローマから船でやってくる」「やってくる神父は独身」「サンタ・マリアの御像を持ってやってくる」という3つの伝承があり、プロテスタントの牧師が妻帯者だったことから約束の神父ではない、と判断して二度と近づかなくなったそうです。そしてその後の大浦天主堂のドラマへ続く・・・。

 もしこの宣教師が独身者だったらどうだったでしょう?(といってもプロテスタントの牧師はマリア像を持っていないでしょうから、どのみち歴史は変わらなかったでしょうけどね。)


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 オランダ坂を登りきった突き当たりをさっきとは逆方向(左)に進むと1881年からの歴史を持つ鎮西学院(現・長崎ウェスレアン大学)の跡地があります。門の横のレンガには「C.M.ウィリアムズ宣教師舘跡」の碑が埋め込まれて、ここにもともと先のアメリカ聖公会の牧師館が建てられていたことを示しています。

 このウィリアムズ宣教師は1874年に東京に設立された立教大学の創始者として知られています。

 ということで、少し懐かしくオランダ坂を登ってみたのでした。


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 大浦地区の訪問地マッピング。大浦天主堂の中にも、周辺にももう少し見所があります。それはまたいつか行きたいと思います。


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 さて、暑い中を一日よく歩きました。コンビニでゆずシャーベットを見つけて、この夏高知県で過ごした数日を懐かしみながらクールダウン。



(つづく)