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 サン・チャゴ教会跡から市電の軌道沿いに進むと長崎市公会堂に至ります。ここには記念するものは何もありませんが、1606年に初代長崎代官の村山等安が息子でドミニコ会司祭のフランシスコ村山のためにサン・アントニオ教会を建てたそうです。
 等安自身も洗礼名アントニオというイエズス会のキリシタンであり、フロイスの「日本史」にも登場する有力な商人コスメ末次興善との関わりから朱印船貿易で財をなします。同じく「日本史」中には1592年の秀吉の命による長崎の教会破壊の折に、事態収拾のため奉行の寺沢広高に働きかけたことが記されています。
 等安は秀吉、家康により長崎代官となることを認可されますが、1618年に興善の息子であり棄教者の末次平蔵によりキリシタンであることを訴えられて翌年江戸で斬首刑に処せられます。この後、代官職は末次家がしばらく世襲します。

 等安さんの名前はちょくちょく出てきますので、今後もう少し調べておきたいと思います。


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 サン・アントニオ教会跡から北西へ向かうとすぐ長崎市役所別館が見えてきます。この坂道もミゼリコルディア跡の所にあった天満坂から続く岬の岸。岬の東に沿ってながれる地獄川の上から見上げる位置になります。


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 それにしても坂の連続。ようやく市役所別館を国道34号線側に回り込むと、「サン・フランシスコ教会(修道院)跡」の碑を発見しました。1611年にフランシスコ会士アスンシオン神父によって建設が始まりましたが、完成前に発布された禁教令によって1614年に破壊されてしまったとのことです。

 その後、この場所(桜町・あるいはクルス町)には桜町牢の牢獄が建てられます。多くのキリシタンたちも捕縛され、尋問・拷問を受ける場所となってしまいました。


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 市役所という場所を考えると「教会跡」の方が聞こえはいいのでしょうが、出来れば「桜町牢跡」の碑でも併設して、長崎の多くのキリシタンが理由にならない理由で苦しめられ殺された歴史は残してもいいのではないかと思います。

 先般188福者に列福された者たちの中でもこの牢に入っていた者は少なくありません。天正遣欧使節の中浦ジュリアン、彼のコレジオの同級生でもあるニコラオ福永ケイアン、アウグスチノ会神父の金鍔次兵衛、ミゼリコルディアの中心人物ミカエル薬屋などもここで詮議・拷問を受けて、西坂の丘に引き回された上、処刑されます。ミカエル薬屋は火あぶり、その他の神父たちは穴吊り刑でした。


 この写真を撮ろうとしていると嫌がらせのように周りをちょろちょろするオジさんがいたのですが、何だったのでしょう?石碑の周りではなく、私の周りを。

(つづく)