$WORSHIP@Blog

 大波止から国道202号線を東に向かって坂を上ると長崎県庁の本庁舎があります。202号、34号、324号と3つの国道が接続する「県庁前」の交差点が現・長崎県庁の正面にあたります。この敷地入口付近(写真左の一番背の高い建物)の脇にこの場所についての碑が建っています。

 写真奥は大波止方面ですが、かなりの高低差があることがわかります。


$WORSHIP@Blog

 こちらは県庁前交差点から東(先ほどの逆)を眺めたところですが、やはりこの場所が小高くなっています。長崎の名前の由来となった「長んか岬」の旧海岸線を想像できます。この辺りがその岬の先端付近です。


$WORSHIP@Blog

 先ほどの庁舎の脇に「イエズス会本部・・・跡」の碑。その他の奉行所西役所、海軍伝習所の文字はその後のこの地の歴史を物語ります。

 1571年、新しい町として建設された長崎の岬の先端、すなわちこの県庁が建っている場所に最初の教会「岬の教会(サン・パウロ教会)」が建設されました。1592年の豊臣秀吉による破壊などを経て1593年にはイエズス会の本部が建てられ、1601年には「被昇天のサンタ・マリア教会」が、またコレジヨなどが建設されました。これらは徳川幕府の禁教令により1614年に破壊・撤去されます。

 その後1633年にこの地に長崎奉行所が移転、1855年には勝海舟が身を置いた江戸幕府の海軍伝習所が設置されます。




「岬の教会」のイメージ図(「旅する長崎学」サイトの画像をリンクして表示)

 長崎6町のさらに先、岬の先端に教会は建てられていました。被昇天のサンタ・マリア教会は崖下から桁を組んで基礎部分を拡張し、大祭壇を持った三階建ての建物として建設されました。海側から見ると非常に美しく見えたといいます。

 ところで1614年、この地にあった教会が破壊された数ヶ月後に先の波止場から高山右近らが追放されています。右近らはこの場所の惨状を見たでしょうからどのような気持ちだったでしょうか。


$WORSHIP@Blog

 県庁から北西に向かいます。国道34号より一本東の路地を行くと検察庁のあたりに「フロイス通り」の看板が!「日本史」を執筆したイエズス会士ルイス・フロイスの名前を冠した路地、長崎ならではです。


$WORSHIP@Blog

 この検察庁の北側、法務局との間の細い路地を行きます。目前に天満坂の長い石段。この場所も長んか岬の東の海岸線にあたります。その天満坂の石段の前に「ミゼリコルディア本部跡」の碑。法務局の部分には1583年にミゼリコルディア(慈悲の組)が置かれ、日本人キリシタンのジュスティーノが建設します。キリシタンたちが協力してハンセン氏病病院、養老院、育児院、墓地などを維持運営した、いわば日本におけるボランティア団体の草分けのような組織です。秀吉による長崎の教会破壊のおりには、宣教師たちはこの場所に退避します。やがて禁教後の1620年に破壊されますが、教会より破壊が遅かったのは、ミゼリコルディアの果たした社会貢献の故でした。

 今なお当時からこの地の変遷を見て来た石段が現存し、蔦に覆われた石垣には、この場所が正面で入り口であることを示す「正面」の文字が刻まれているそうです。今回は長く延びた緑に覆われて見ることもかないませんでしたが。


(つづく)