美濃加茂市民ミュージアムの「美濃のキリシタン」展を見てきました。一回りするのに1時間ほどの、好きな人には充実した内容でした。(解説パネルや文書史料が適度にたくさん展示されていて読んでいる時間が長くなります)

美濃尾張でキリシタンが多かった理由は一般論だけで素通りして本題へ。天草島原一揆から強化された禁制の様子と結果としての濃尾崩れ(キリシタンの大量捕縛)を史料中心で見せます。興味深かったのは、塩村のキリシタンが隔離され、後に再度村に受け入れられていく様子、しかしなお残った差別を展示していること。殉教で終わりではなく、処刑されなかった人たちのその後の生活を紹介してくれてイメージが膨らみます。

あとは明治に入ってキリスト教が解禁されるまでに、大隈重信ら外交官らが英国のパークスと徹底的にキリスト教反対でやり合う文書類。当時のキリスト教会に政府がスパイを送り込んで調査していた報告書など。浦上信徒の処遇などが理由で解禁せざるを得なかった、と単純に説明できない状況が興味深かったです。明治政府のその後のキリスト教政策も透けてみえてくるような。。。

あとは可児の郷土史家・奥村智咲が撮影していた昭和前半頃のキリシタン関係の調査資料。今は開発で失われた塚や建築物、保存活動の様子を撮影した写真は貴重です。展示の中でも「こんな写真よく残ってたな」と思うものは奥村氏の撮影したものでした。刻々と変わる風景の記録、今でも大事です。

入場料無料、図録も内容は概略になりますがフルカラーで600円。
尾張や岐阜でこの内容の展示を見れるのはなかなか良いのでは。。。

https://www.forest.minokamo.gifu.jp/tenrankai/2025/2025_03.cfm



 



江戸時代初頭に京都の伏見にあったイエズス会の「伏見教会跡」について、少し覚え書き。

 

秀吉の伴天連追放令によって京都の南蛮寺が破壊された後、都地方の状況は二転三転していきます。秀吉は一気に禁教へ舵をきらず、高山右近の京都入りを許したり、文禄慶長の役に際して彼と名護屋で謁見したりしています。また1591年にはイエズス会巡察師ヴァリニャーノと面談すらしました。サン・フェリペ号事件では石田三成が事件に無関係な右近を守っています。許可なく表立って布教活動をして咎められたフランシスコ会などのスペイン系修道士たち以外は、緊迫した状況の中で表立っての活動は自粛して、つつましくミサや洗礼を行っていました。

 

その後秀吉が死に、徳川の時代に入ってもしばらくは伏見は政治の中心地でした。そのため伏見でのイエズス会の活動はひっそりと進められていきます。1612年に右近の従兄弟のマルコ孫兵衛の名義で土地を手に入れ、伏見の司祭館兼教会が建てられました。周囲を民家に囲まれた奥まった場所に建てられ、建築方法も民家と変わらないスタイルで、一見教会とはわからないように建てられていました。

 

 "伏見の司祭館は…公道に面した修道院は世俗の建物と変わらぬようにしてある。そこには教会があり、その奥に司祭の住居がある。

 伏見の奉行が通り全体の頭である一人の者に、「キリシタンの教会が市にあるか」と尋ねると、「あります」と答えたことがあった。その通りの有力者たちはそれを知ると奉行所に押し寄せ、それは教会ではなく(高山)ジュスト右近殿の義兄弟孫兵衛の屋敷であり、そこには時々司祭が来たり、また長崎からその地に来るポルトガル人を受け入れたりしている(だけだ)と言って、奉行たちを宥めた。"

(イエズス会1612年日本年報/同朋社版より転載)

 

 ”私たちは十一、二年前に伏見の市に教会と修道院を持ったにもかかわらず、建造時に国主から許可を得ないで誰にも知られないうちにことを進めたので、教会が荘厳で聖なる建造物というよりはむしろ普通の家に見えるように故意に建てようと努めた。…それと同時にマルコ孫兵衛という名前の、…土地が買い入れられたのも、修道院が建てられたのも、結局のところ最初から彼の名義であった。”

(イエズス会1614年日本年報/同朋社版より転載)

 



 伏見の古地図には、周囲を町家に囲まれた高山右近の屋敷(青囲み)が示されています。しかし右近の屋敷は別の場所(赤囲み)にもう一箇所記載があるため、この人目に隠れている右近の屋敷跡と記された場所こそイエズス会の報告にある伏見教会跡と考えられています。(三俣俊二 2003「伏見キリシタン史蹟研究」『伏見の歴史と文化』などで言及)

 

 そして、1612年の岡本大八事件がきっかけで徳川幕府のキリシタン弾圧が本格化し、1614年には日本に残っていた他の教会と同様に破壊されました。






 古地図の右近屋敷跡(伏見教会跡)の地点は現在は幼稚園や小学校の敷地となっていますが、その土地に入っていく通路が古地図に示されていて、しかも現存しています(!)。すぐ横に室町時代の伏見松林院陵があり、そこへの参道として使われていたため残ったらしいです。

 そのあたりはその正面にある「大倉記念館」で伏見教会についての展示も行っている月桂冠さんが紹介してくれています。

 


 



 また、現存する古地図を元に、京都の地図屋さんが現代風のデザインで当時の地図を作成しておられます。古地図自体の検証が必要ですが、しかしこうして扱いやすい形で地図を出してもらえると直感的に地域を見ることができます。

 

 

 伏見教会とその時代については、イエズス会の報告だけでは不明瞭な部分もありますが、高山右近とその父ダリオ、ジュリアおたあなど著名なキリシタンたちも関わる土地なので、今後も面白い発見があるかもしれませんね。

 

再現された十石舟にも乗って、当時の城普請などを思ってみるのも涼しげでよいかもしれません。

 





おまけ。八尾まで足を運んで満所墓碑も見てきました。

 

 今年もよろしくお願いします。


 一昨年に父が召され、昨年も叔母の葬儀や母の手術と、何が何だかわからないうちに時間が流れて行きました。今年はもう少し落ち着いて腰をすえて色々取り組めるでしょうか。正月は1tの圧力でプレスするたこせんべい食べながら、無理なく過ごしております。




 年末から気になっていたキリシタン時代の教育や倫理、ビザンツ帝国、中世の異端審問など簡単な書物で頭脳のリハビリ中です。ブログで未完の長崎旅から先の日本各地のこともちゃんと記録しておきたいです、、、できるのか?長崎の後も東北〜沖縄の間をあちこち回っているので、宿題を溜め込んだ小学生のような心境です。


 年始のひとりごと。去年の山口旅の写真でも載っけて締めくくります。








https://www.afpbb.com/articles/-/3374672?act=all

ローマ時代の建造物といえば華やかなモザイク、フレスコ画などで飾られたものを思い浮かべるけど、ポンペイで見つかったなんの飾りもない小さな窓一つの小部屋、家族っぽい3人(うち1人は子ども)が住む奴隷部屋は全く違うイメージを見せてくれる。
ローマでは捨子から奴隷として売買されることも多く、そのような奴隷のアイデンティティはどうだったのだろうか、と気になっています。
B.F.P. が主催するオープンハイナイトの収録に行って来ました。スタッフの皆さんが父の召されたことを知ってメッセージカードを用意して下さったことが心に染み入ります。





また終了後は15年ぶり(らしい)再会のGENUINE GRACEのJMcと江古田のシャマイム。





帰りの時間の制約があったので短い時間でしたが、ご家族の近況やイスラエルのお話などしながら、イスラエル料理を。





いつからシャマイムは爆盛りの店になったのでしょう?w

写真のシュニッツェル(チキンカツ)は3枚あります。相対的に小さく見えますが普通サイズ。加えてフムス(ひよこマメのペースト)とピタパン3…。他にも単品オーダーしてしまい、反省することに。



帰りは池袋を歩きながら、立教までヘブライ語とギリシャ語を学びに通ってた頃を懐かしく感じました。



良いリフレッシュになった。