私らしく生きる真顔


そんな言葉があるのだけれども、いったい私らしくとは何なのだろう?

確かに私はたいして嫌いでもない夫がいながら、園芸という趣味を極めて愉しみたい優さんという既婚者の恋人がいるという不実な女。
世間一般でいう不倫の関係ですから、その経緯や過去についてどんな理由があろうと正当化するつもりもありません。

しかし、それが私の全てかといったら、私は幾つもの私が存在していて、会社ではバリバリ働き夫には必要な相棒である私。
子供たちにとっては、助けて欲しいといえば、できる限りの労働力や金銭では惜しみなくしてやれることはする私。
地域にとっては、まだまだ男性優位な地域性でありながら、女性ながらも努力と仲間たちの支えで地位を築いて確かな実績を作ってきました。

人間は、必ずどの自分も善良でなくてはならないんでしょうか?


それなら、私は「不倫をしない」「他所の旦那は盗らない」などと言いながら、赤の他人を攻撃して傷つける言葉を平気で吐き出す方々は、どの自分らしさを出して言っておられるのでしょうか?

その時のその人の私らしくとは、自分の正しさを誰かに無理やり押し付け、それ以外の人を排除する自分を善良な自分として認識しているという事でしょうか。

私らしく生きるのは、勝手に総合点を誰かに付けられて善し悪しを決められるのは、それは自分の立場でも嫌じゃないですか?

自分は自分の中に存在する多くの自分から、善い自分を選抜させてビーアールするくせに、他人を見る目は、その人の中の悪い人だけを選んで、その人の価値を決める人が多いですよね。

悪い私、善い私、何の取り柄もない私、ボーッとした私、植物が好きで好きで仕方ない私、どの私も全部私。

一部の私しか知らない誰かに、勝手に私を判断されて評価されても、それを評価する私の知らない誰かも、その人の一部でしかない。

それなのに、他人を勝手な評価で決めつけて、「私は正しい」「私は良い人だから」なんて、私からしたら何人いるあなたの中の私が正しく善い人ですか?

そう問いたい。

だって、自分の中にいる、大勢の悪い自分は無かった自分にしていますよね。

私は、私の中にある何人もの私は、どの私も自分が愛せているし理解しているし、これからも変わらない。
どの私も無かった自分にしない分だけ、また嫌な私に向き合う分だけ、私には勇気も経験も知識も全部生きて、また新たな私が増えていくんだと思いますけどね爆笑


切り花として使える、スカビオサ