この連休で、義母の紫さんの三回忌の法要を無事に終えることができました。


義父の三回忌は、夫の親族の皆さんを呼んで、法要の後で行きつけのお寿司屋さんで食事をしていただきました。今回の義母の三回忌には、私達の子供たちや孫のみで執り行い、自宅で簡単な食事会をしました。


前回の経験で、夫の家を夫が「掃除した」とみなした様子があまりにも甘くて、私が掃除しなければならなかったので、始めからパンツスタイルの掃除前提で行きました。

案の定、夫の掃除は掃除機をかけるという行動のみで、拭き掃除などしたことがないのです。私は、どうしても床を拭きたいので、そこから始めました。雑巾が、真っ黒になりましたゲロー


三回忌の法要が無事に終わり、賑やかな食事会が始まりましたが、孫が増えた分ずいぶん賑やかになりました。夫と私、子供たちのうち次女が都合で帰ってこなかっただけで3人、そして孫が現在5人。お腹の中にもう一人です。


子供たちやその配偶者たちは同じような年齢なので、楽しそうに様々な話で盛り上がっていました。また、孫たちは、未婚の長男にまとわりついて、ゲームをしたり走り回って遊んでいました。

時々、私の子供たちが話す昔の思い出は、私があまり覚えていなくて、私はニコニコ笑いながら頷くだけです。


家を出て別居して15年の月日が、今では他人の家のような気持ちになったし、嫌な気持ちも楽しかった出来事さえよく思い出せません。

子供たちの話を聞いているというよりも、なんだか会社とかボランティアの後輩の話を聞いているようで、懐かしさより若者の集まりの話のようでした。

孫たちも、少し見ない間にみんな背が伸びてほっそりしてきて成長したなぁと思います。


私の存在が、ここではとても不思議な気持ちでいました。ボランティアや仕事では、私は今必要で上に立って仕事をしているのに、家族という中では、私の魂がただそこに浮遊して漂って眺めているかのように、迷っているようでした。


決して、無視されてもいないし孤独でもない。誰かに咎められてもいない。けれども、どんなに家族の幸せを願い、孫の笑顔に癒やされたとしても、私の生きがいややりがいがもうここには無いような気がしてならなかったのです。それほど、一人の年月が経ってしまったんです。

残りの人生を、夫との関係修復や成人した子供のためなどという依存の理由はもういらないと思ったんです。


前日、泥だらけになりながら私の家で一人で土が流れ放題なっていた庭を整備していました。いったん花を抜き、砂利や石でスコップも入らなくなった地面を鍬で掘り起こして土を盛り直しました。ブロックを水平に並べるのは思ったよりも大変で骨が折れました。

私の生きがいややりがいは、たった一人で泥まみれになって庭にいる時間だと気がついたんです。

また、ボランティアの仲間と悩み奮闘している時間だと気がついたんです。


子離れ親離れ完了したと感じたけれども、寂しさは全くない。親がいなくなっても、もう子供たちだけで生きていけるのだ、そして私と夫は苦しみ挫折した毎日の連続の中でも子育ては責任を持って終えたのだ。


そういう満足感がありましたし、確信いたしました

卒婚どころか、卒家族を実感してしまったんです。それは、子供たちが自立し不安がないという大きな私たち夫婦の達成感です。達成感があるから、もう家族一人ひとりにこだわることもないし、ともに子供を育て上げた夫を開放し、彼の時間を尊重する私の気持ちです。


一緒にいることだけが愛情ではない。夫は、そんなことを喜んだりはしないし、望んでもいない。二人でなければ生きられない夫婦が一緒にいる努力をすればいいのだから、私も夫も、そんな無駄な努力はしなくても充分にもう幸せなのです照れ



これだけのブロック、土を掘り起こして 
積むのは大変でした。寒空の下、異常爆笑