今年の三月初め。大阪市南の日本橋三丁目にある「高島屋別館」での木彫りの講習を終えた私は、歩いてすぐの「黒門市場」で昼食を摂ろうと思った。
以前に訪れてから七年がたつが、人の多いのに驚いた。斜めにならないとすれ違えないほどだ。顔は私たちとそっくりだが、行き交う言葉がまったく分からない。関西空港への便がある難波駅に近いので、観光客でにぎわっているとは聞いていたが、これほどとは思わなかった。
その黒門市場の真ん中あたりに、「魚、日本一安い」「肉、日本一安い」「青果、日本一安い」と銘打ったスーパーができている。間口8メートルほどの〝スーパー中川〟は、本通から堺筋がある西側へ20メートルほどのスペースだった。私はその前を行きつ戻りつ、あたりを見回した。間違いない。
昔ここには、住居付きの店舗が十五ほど入っている連棟式の建物があった。その狭い一軒に昭和二十四年から十年間、私と父母は住んだ。
父は木彫家だった。戦後の不安定な世の中で、母は父の世過ぎを心もとなく思っていたのだろう。何か小商いでもできないかと、なけなしの金をはたき、新しくできたそこに移り住んだ。
しかし、市場になるはずだった建物は売り主の確約に反し、中の通路がメインストリートの堺筋へ抜けられるようにはならなかった。表通りに面した所だけが店舗を構え、中は空き家の数軒を除いては、穴子を裂いて焼く職人たちの仕事場に占拠されて、あたかも「穴子横丁」という風情になってしまった。
屠(ほふ)った穴子の臓物をドラム缶に入れ、各戸の前に出しておくのだが、業者が回収にくるまでに傷んでしまうことが多く、絶えず辺りに腐敗臭が漂っていた。一度、年末に来てくれなかったことがあり、正月そうそう鼻をつく臭いにお節どころではなかった。
穴子屋の朝は早く、四時には仕事にかかる。隣家では若い衆を一人、仕事場の二階に寝起きさせていた。おかみさんが三時にやって来て起こしにかかるのだが、これがなかなか起きない。壁ひとつへだてて寝ている私のほうがその声で目が覚めてしまうので弱った。あるとき寝ぼけた若い衆が「うるさい!」と突き飛ばしたらしく、おかみさんがすさまじい音をたてて階段を転げ落ちるのを聞いたこともある。
迷惑料のつもりか隣家はときどき穴子の肝をくれた。私たちはこれですき焼きをして、「キモスキー・コルサコフ」などと喜んでいたが、貧しいわが家の貴重な蛋白源になっていただろう。だが、よく釣り針がささったままだったのに閉口したのを覚えている。
父は「好きなものだけを彫っていては、飯が食えない」と、商売人からの注文を受け、わずかばかりの手間賃を必死で稼ぎ、私を大学にまで入れてくれた。
大学生になって間もなく、私にもガールフレンドができた。彼女は自分の家に私を招き、両親にも紹介してくれた。それは郊外の一戸建てで、いま思うと別に普通の大きさの何でもない家だが、垣根に蔓(つる)バラが咲き乱れていて、私には別世界のように思えた。
彼女は「私も、あなたのお家へ一度呼んでちょうだい」と言ったが、私はあいまいに微笑ってごまかした。そのころわが家の水洗トイレは水が出なくなってしまっていた。水を張ったバケツを持って入り、用を足した後はその水で流すという始末だ。そんな家に若い女の子を招待などできるわけがない。私はうつうつとした気分になり、間もなく彼女とも別れてしまった。
門構え、庭付きで、垣根に蔓バラが咲き乱れる郊外の一戸建て住宅。それは片時も私の頭から離れぬ妄執となった。もちろんわが家にはそんなものを買う金はない。どう考えても、私の夢が実現する可能性はゼロだった。
だが、奇跡が起きた。
私たちの家を含む全体の建物を買い取り、何かまとまったことをしようと、各戸に百三十万円の立退き料を提示する人物が現れた。昭和三十四年当時のその額は、中古であれば郊外で何とか庭付き一戸建てを得られるほどのものだった。
「好きな家を探しておいで」
父は私に任せてくれた。
五月の快晴の日。阪急電車のさる駅前の周旋屋は、当方の予算に見合う物件があると、徒歩五、六分の所へ案内してくれた。
「あった。あった」
門構え、庭付き、一戸建て。垣根にはみごとに蔓バラが咲き乱れている。敷地四十三坪、建坪二十坪、築三年の平家は私にはまさしく天国に見えた。
やっと、穴子横丁から脱出できた。