阪神・淡路大震災発生。

 その直後、西宮市の甲東園に住む長男から大阪市の私たちの家に電話が入った。

 友人と共同で借りている家がぐらっと傾いた。外に出ると、

「古い家やアパートが、みんなぺっちゃんこや。子どもが『助けてー』言うて泣いてるけど、どうもでけへんー」 

 プーッ、プーッと電話が切れ、もうつながらなくなった。

 

 無事だと分かりほっとはしたが、どうしていることやら。妻や次男と共にやきもきしていた。夕方になり、道が傾いた街を車で脱出して、長男は旭区の私たちの許にたどり着いた。 取りあえず我々と一緒に暮らすことになった彼は一週間後、荷物の整理のために被災した甲東園の家に車で出かけると言う。私も気がかりなことがあったので同乗することにした。

 

 夫婦と息子二人の四人家族は二年前まで、甲東園の隣の門戸厄神駅近くの借家に住んでいた。

 家の持ち主は主婦で、親の遺産でもらった築三十数年のおそろしく広い家を、無人で荒れるに任せておいたらしい。口をきいてくれる人があり、「最低限度、住める程度には手をいれましょう」ということで話はまとまった。震災の十二年前のことである。

 

 引っ越して直ぐの大雨で庭が池のようになり、床下の水がいつまでも引かない。排水設備を十分にしてなかったのだろう。家主に報告をすると、「見積もってもらったが、六十万円ほどかかるらしい。その家にお金をかける気はないので、そのままお住みください」とのことで、階下の室はいつまでもじめじめとしていた。 

 

 他にも家が古いがために不都合なことがしばしば起こった。その都度、先方のお抱えの大工が来てはくれるのだが、誠意のない対応で不愉快だった。いま思うと、家主の方で適正な手間賃を払わないなど、無理からぬ事情があったのかも知れない。しかし破格の家賃なので、「多少のことは」と私は全てを胸に納めて我慢することにした。

 

 住んで十年近くがたち、平成4年の夏になった。玄関や脱衣場、台所の床板が腐り、外壁が倒れたりもした。家主に連絡をすれば、くだんの大工が来るだろう。それは嫌だったし、名指しで彼のことを告げ口するわけにもいかない。

 

 幸い私の木彫りの生徒さんに同じ職の人がいたので、頼むことにした。修理の総額は二十万円ほどで、私は家主には何も言わずに、全額を負担するつもりだった。しかし、「せめて塀のお金ぐらいは、大家さんに持ってもらったらどうですか」とこの大工さんが勧めるので、請求書の写しに「幾らかでも出してもらえましたら」と丁重に書いたものを同封した。

 

 二か月の間、何の返事もなかったが、いきなり「修理の費用は全額こちらで負担するが、家を明け渡してほしい。結婚する息子をそこに住まわせたいので」と通告してきた。そこで次男と私たち夫婦は縁があった旭区の家に移り住み、長男は独立をして、今回被災にあった家で暮らすことにしたのだ。

 

(あんなに古い家が大丈夫だったのだろうか。若い新婚さんの身に何もなかったのだろうか)

 旧居の被害状況が気になったので、息子の荷物の整理を手伝いがてら同行することにした。

 

 尼崎市と西宮市を隔てている「武庫川」を渡ると、あたりの様相は一変した。屋根にブルーシートがかけられた家が無数に広がり、倒壊してる家が目につきだす。絵に描いたように真ん中でボキッと折れているマンションもある。

 

 阪急電鉄の線路の南沿いを車はゆっくりと甲東園の方へ走った。線路の北沿いにある家が何軒も大きく傾き、線路に倒れないようにつっかい棒で支えられている。そんな中に、木っ端微塵につぶれている家があった。敷地が百坪以上はあるだろう。築山、池、前栽などがある立派な庭が付いた古い邸宅だったと思われる。

 

 このあたりに、「津高和一」という高齢で高名な抽象画家が住んでいることは以前から知っていた。この度の震災で倒壊した家の下敷きになり、ご夫婦ともに亡くなられたと新聞で読んだが、多分このおではなかろうか。

 

 車は門戸厄神駅の手前の狭い道を左に折れた。ここは私のジョッギングコースだったが、古い家が軒並みに45度ぐらいに傾いたり、押しつぶされたりしいる。この様子では、次の角を右に回ってすぐ左手にある私たちが住んでいた家も、どうなっているか分かったものではない。身震いが起こりそうになった。

 車は右に折れた。目を疑った。マンションの建設工事が行われているではないか。地震の影響も受けなかった様子で、7、8割方は出来上がっている。

 

 私が封書を出してから梨のつぶてだった二か月の間に、家主は(この調子では、今後も修理の箇所が次々に出てきて金がかかるだろう。それは困る。170坪もあるのだから、いっそマンションにしようか)と算段をしたのだろう。「マンションにするから出てください」とは言いにくいので、「息子が結婚」という方便を使ったのに違いない。

 

 私が全ての工事費を負担して、何も報告をしなければ、家主は多分マンションの計画を思いつかなかっただろう。私たちはその後二年間ここに住み続けて、間違いなく家族全員、あの画家の家のように木っ端微塵につぶれた建物の下敷きになっていた。

 

 修理をしてくれた大工さんの一言、「外の塀の費用ぐらいは、大家さんに出してもらったら」が、四人の命を救ってくれたのだ。

 その夜、「マンション工事」を肴に家族四人は痛飲した。