半世紀ほども前、父が五十歳を二つ三つ過ぎていた時の話である。
その日も朝から親子は膝つき合わせて木彫りの仕事をしていた。午前十一時ごろ隣室で電話が鳴る。母は所用で早くから出かけていた。
「フジモトです」
と受話器を取った私の耳に、
「よーちゃん、よーちゃんでしょう」
三十代ぐらいかと思われる女性のなれなれしい声が飛び込んできた。当時、私の声は父に酷似していたらしく、母でさえ電話ではよく間違えていた。
「……よーちゃんて、陽二ですか? それやったら、親父ですが」
「そう。そう。よーちゃんは陽二さんです。ちょっと呼んでちょうだい」
「どなたですか?」
「ひ・ろ・こ。そう言うてもろたら、わかります」
私はわけが分からぬままに受話器を置き、仕事場に首を突き出した。
「デンワや。なんや、ひろこ、とやら言うてるで」
「ひろこ……」
父も首をひねりながら電話口に出たが、「へえ?……はあ?……」とこれまた一向に要領をえず、「あんた、誰やいなあ」なんて言っている。だが先方は父をよく知っている様子で一方的にしゃべりまくり、今からとにかく梅田まで出てきてくれと、待ち合わせの喫茶店まで指定して、電話を切ったという。
「田園いう喫茶店知ってるか」
と聞くので、当時、曽根崎警察署の近くにあった大きな喫茶店への道筋を丁寧に教えてやった。
「とにかく行ってみるわ」
父は首をかしげながらも出かけた。 それから小一時間ほどがたち、ひろこと名乗る女性からまた電話があった。
「よーちゃん、まだですねんけど、もう家、出はりました?」
わが家から最寄の駅へは五分、電車に乗れば梅田までは十分足らず。待ち合わせ場所の喫茶店までは、父の足でも十分そこそこ。電車待ちの時間を入れても、三十分ちょっとあれば着くはずだ。あれだけ丁寧に教えてやったのだし、近くに警察署という大きな目標もある。行き着かないとはどうも腑に落ちない。腑に落ちないといえば、そもそもこの女性がそうだ。
「親父とは、どんなお知り合いですか?」
彼女はある酒場に勤めていて、父がそこへちょくちょく顔を出すという。父も少しは酒を飲むが、およそそんな所へ出入りするような人ではない。
「なんか、人違いちゃいますか」
「そんなことあれしません。ちゃんとお名刺も貰うてます。よーちゃんて、彫刻家で、お年は四十二の厄年ですやろ」
「いや、親父はもう五十過ぎてますで」
「いやあー。ほんなら、ウソついてはるわ。そやけど、若こう見えはるわあ」
と取り合わず、もう少し待ってみる、と電話を切った。
後で父にきくと、その時間に間違いなくその喫茶店にいたらしいから、彼女に「すぐ親父を呼び出してもらえ」と言えば、簡単にことの真相が分かったろうにと、今になって思う。
二十分ほどがたち、「やはり来ない」とまたまた電話があった。彼女も不審に思いだしたのか、「丸顔か、背が高いか、メガネをかけてるか」などと父の容貌、体格を問い質した。私の答えに、「ちょっと、ちゃうなあ……」
と首をひねっている様子だったが、最後にこう尋ねてきた。
「おたくの車、白のブルーバードですか」
「いや、茶色のコルトですよ」
いずれも当時の国産車の名前だが、彼女もここにいたり、やっと自分の思っていたよーちゃんは父ではないとわかったらしい。
「えらいどーも、すいませんでした」
恐縮して電話を切った。
「お父ちゃんに、そんな浮いた話あるわけないがな」
母も交えた三人の夕食は、その話で持ちきりだった。思うに、父の名刺を手に入れた誰かが〞彫刻家、よーちゃん〟になりすまし、ひろこさんが勤める酒場にしばしば現れた。彼と彼女がどんな関係か、何回デートしたか、それは知らない。しかし、白いブルーバードでドライブしたことは確かだ。
もちろん、ひろこさんと父の仲は疑うようなものではない。ただあの日、呼び出されて首をひねりながらも出かけたのは、以前に多少は身に覚えのことがあったからなのか。まさかとは思うが、あの仕事一筋だった父にも艶事のかけらぐらいのことはあったのだろうか。母には悪いが、父の生涯にも一度ぐらいはそんなことがあった方が嬉しい気もする。