去年の元日そうそうのことだった。
昼下がり。明るいリビングで妻と二人、いただき物の羊羹でお茶を飲んでいた。横では愛猫の「よもぎ」がごろんとお腹をだし、撫でろ、撫でろと催促する。撫でてやると、ごろごろと喉を鳴らす。ふわふわとした和毛(にこげ)の感触がなんとも心地よい。
よもぎは前年の五月に、生後五か月でわが家にやって来た雌のキジ猫だ。尾が長くなかなかの美形である。よもぎというのは前の飼い主のつけた名前だが、改名して本人が混乱したらかわいそうなので、そのまま呼んでいる。
よもぎは夜は妻のベッドで寝るが、明け方には餌係の私の部屋へおねだりに来る。キャット・フードに好物の削り節と煮干を細かく千切ったのを交ぜてやる。妻はもったいないから、「どちらかだけをやって」と言うが、内緒で両方入れてやる。そのせいか私にもよく懐(なつ)くようになった。
昼寝をしていると、「よもぎいる?」と妻が探しにきた。「ここや」と布団を捲り、私の腕を枕に寝ているよもぎを見せてやる。彼女は「ふーん」といささか不満げだ。二人だけで暮らしている老夫婦にとり、よもぎは子どものようなものだ。お互いがそれこそ「猫かわいがり」しているが、妻には、より自分のほうに懐いてほしいという邪念があるようだ。
川柳に秀句あり。
〈ママが好きパパはおまけのように好き〉
妻もよもぎにそのように思ってほしいのだろう。
「ピィー 、ピィー 」
お茶を飲み終わったとき、私のアイフォーンがけたたましく鳴った。カバーを取ると、メールが届いている。
〈津波観測情報・和歌山県沖で大きな津波の観測がありました。至急高台など緊急避難先へ避難し、今後の情報に注意してください〉
わが家は和歌山市の北部にあり、サーフィンの名所の磯ノ浦へは歩いて十分ほどの距離だ。南海トラフで大地震が起きて、津波が押し寄せたらひとたまりもない。その時は自転車を走らせて十五分ほどの高台にある中学校へ避難することに決めている。またペットボトル入りの水、非常食のカンパン、肌着類、ペーパー類、ポータブルラジオなどの災害グッズを手分けして二人のリュックに詰め、すぐに持ち出せるようにしてある。
「すわっ、きたか!」
老夫婦は大急ぎで着替え始めた。今日はうららかだが安心はできないのでじゅうぶんに着込み、リュックを提げて外へ出た。戸締りをしようとすると、妻が「よもぎ、よもぎ! 連れていかな」と大声を出す。私もそのことは気になったが、「犬やないさかい、じっとしてへんやろう。迷惑かけへんかあ……」とためらった。妻は「ほって行かれへん!」と家に引き返す。
その時、裏庭の塀の向こうを南海電鉄のローカル線が通り、私は冷静さを取り戻した。
(この緊急時に電車が動いているのは変だ。家も揺れなかった。いくら震源地が沖合いであれ、大津波が起こるぐらいのマグニチュードなら、陸地がぜんぜん揺れないことはないだろう)
家に入り、テレビをつけてみた。NHKでは天皇杯のサッカーをやっている。和歌山テレビは気楽に、「♪マツゲーン、マツゲーン。みんなのマツゲーン」と地元のスーパーのコマーシャルを流している。
「地震情報やってへんの?」
よもぎを入れたボストンバッグを提げて部屋へ入ってきた妻も、怪訝な顔をする。
ダウンジャケットの中で、私のアイフォーンが再び鳴った。
〈津波情報は誤報でした。現在和歌山県には地震も津波も発生しておりません。誤報の原因については調査中です〉
「なーんや」と座り込んだ妻が急に怒り出す。
「お父さん、よもぎ、よもぎ言うといて、薄情やね」
バッグのチャックを開け、顔を出したよもぎに言うてきかす。
「あんた、もうちょっとで見殺しにされるとこやったんやで。こんな人ともう寝んとき。ご飯もこれからは、お母さんがあげます」
やれやれ、正月そうそう迷惑な誤報メールだ。
〈大山鳴動してネコ一匹〉