汲み取り式の便器にまたがっている。溜まっている糞尿がみるみるもり上がってくる……落ちそうになる。
年に一度はこんな怖い夢をみる。これは、トイレが汲み取り式が普通だった半世紀も前に体験したことのせいだ。
私は大学を卒業するのを待たずに父に仕えた。父は木彫家だったが、好きな作品を彫るだけでは飯が食えないと、工芸品を手がけたり、素人に教えたりしていた。そのための雑用をする人が二人ほど家にいた。ほかに気の合った私の学友が一人、アルバイトで手伝ってくれてもいた。
だから、仕事場を兼ねた我が家のトイレの壷は、使用人数の割には小さすぎたのだ。もり上がってきて、限界に近いと思われたある日、家の横道を牛に曳かせた肥車が通りかかった。当時の料金としては破格であろう千円札を二枚ひらひらさせながら、私は必死でおじさんを呼び止める。だが薄情にもおじさんは、「満杯でんねん」と勝ち誇った笑みを浮かべて行き過ぎてしまった。
あと一週間もつかどうか。いよいよとなれば、「自分で汲むよりしゃーないな」。私が呟くと、隣にいた学友が「ぼくも汲むよ」と言ってくれた。持つべきものは友である。〞まさかの友は真の友〟と言うではないか。私たちは手を取り合い、「きみが一杯なら、ぼく二杯。共に汲み交わさん」と永遠(とわ)の友情を誓い合った。もっともこの時は、あのおじさんが翌日に汲みにきてくれてことなきをえた。
その数年後のことだ。雨台風のために床下浸水になった。肥壷にも水が入り、トイレの床まで十センチぐらいに迫った。私は気が気でなく、三十分おきに確かめにいったものだ。
幸いに大事には至らなかったが、これに懲りて、直ぐに壷を大きくする工事をしてもらった。
また、昭和五十年ごろには下水道が通り、尼崎市の我が家も待望の水洗になった。だが、今も夢にみるのだから汲み取り式トイレは私のトラウマになっているに違いない。
平成四年にわれわれ家族は大阪市の旭区に移った。妻の父に認知症の兆候が出てきたので、心置きなく介護できるようにと、彼女の実家の近くに引っ越したのだ。トイレは水洗だった。
数年がたつと、昼夜を問わず実家から妻に「SOS」の電話がかかってくるようになった。大をもらしたお父さんの後始末だ。妻は生まれつき鼻が全くきかない。私は「この親孝行は、まさに君の天職ではないか」などと面白がっていた。だがこのことが、後に大変な悲劇を私にもたらすことになる。
平成十年、義父は亡くなった。これで夫婦の親四人は全ていなくなる。私も還暦になり半分隠居の身。息子二人も独立して別居したのを機に、夫婦ふたりどこか静かなところで暮らそう、ということになった。
翌年、阪南市の海の見える高台に引っ越した。大手の建設会社が森を崩して造成する時に下水道を通しているので、もちろん水洗トイレだ。私の意識のなかでは、もはや「トイレと言えば水洗」になっていた。
阪南市の家に十年ほど住んだころ、「まともに働けないわれわれ老夫婦には、もう僅かの蓄えしかない」」と妻が言い出す。「今の家を売り、借家に住もう」と二人は一晩で決めた。物件探しは、「私の好みの家に住みたい」と言う妻に任せた。
彼女が見つけてきた家は和歌山だった。難波から電車を乗り継いで一時間半かかる。だが最寄の駅からは歩いて一分だし、外出は月に二回ほどだからそれでいいだろう。近くにスーパーが三軒あり、労災病院へは自転車で十分。敷地七十坪、建坪二十五坪で家賃五万円は安い。私は妻に全てを任せて賃貸契約を結んだ。
翌日、はたと気がつき、妻に念を押す。
「まさか、今の時代に汲み取りやないやろうな」
それが汲み取りだったのだ。
「水洗みたいになってるさかい、下はぜんぜん見えへんよ」
彼女はあっけらかんとしている。
住んでみると、下は見えなくても臭気は上がってくる。汲み取り業者がこぼしていくこともあり、庭に出るとかなり臭う。雨の日は特に酷い。大事な家選びを鼻のきかない妻に任せたことが、かえすがえすも悔やまれる。
嗚呼(ああ)、私は人生の最晩年を再び汲み取り式の家に住まなければならない運命(さだめ)だったのだ。