六、七年前になりましょうか。テレビで面白い番組を見ました。
人間の遺体を液体窒素で冷凍保存しておく会社がアメリカにあるのです。プールにぷかぷか浮かんでいる遺体を、竿で押したり引っくり返したりして、管理しています。
「冷凍人間」になりたい人は、生前に日本円で二千万ばかりを払って登録しておきます。将来もっと医学が発達すれば、生き返ることができるかも、というわけです。笑ってしまったのは、五百万円で頭部だけを保存しておく「エコノミー・コース」もございますというやつです。首から下は他人のものをくっ付けても、頭さえ自前なら、本人が蘇ったことになるという寸法でしょう。
この会社の主催による親睦パーティーの様子が、テレビに映し出されています。名札を首から吊り下げた会員たちは、「これで思い残すことはない」とばかりに大いにはしゃいでいます。私はこれは現在における〞新興宗教〟ではないか、と思いました。
二十年ほど前にクリスチャンの隣人が亡くなり、お別れ会に出席しました。神父は遺体が安置された棺を指さし言いました。
「姉妹(クリスチャンは仲間をこう呼びます)の魂はすでに神の御許にあり、これは単なる物体です」
物識りの友人が教えてくれましたが、「キリスト教では霊魂は不滅だ。ただ魂だけが生き続けるのか、肉体も復活するのかが宗派で異なる」のだそうです。
私の家は祖父の代までは浄土真宗の僧侶でした。そのためか私も若い頃から仏教には関心があり、「親鸞聖人のお教えを学びましょう」という会に顔を出していたこともありました。だがある日、講師の人に「藤本さんがお魚だったとき」と言われて、行くのをやめにしました。私は仏教を哲学として勉強したかったのですが、その集いは布教活動の一環だったようです。
講師の言葉からもわかりますように、仏教では輪廻転生を説きます。われわれ衆生は六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天)に迷いの生死を重ねて、留まるところがないそうです。そこから解き放たれて絶対静寂の世界へ行くのが「解脱」ですが、その方法がこれまた宗派で異なるのです。
キリスト教、仏教と並び、世界三大宗教の一つのイスラム教では、死後、墓場の中で審判の下るのを待ちます。そして生前の行いにより、魂はパラダイスか地獄に送られます。
全ての宗教に当たったわけではありませんが、「現世での営みを終えても、何らの形でわれわれは生き続ける」。それが宗教に共通する理念のようです。なぜなのかと、考えてみました。
最初の猿人の出現がおよそ七百年前。現代のわれわれに直接つながるホモ・サピエンスの誕生からでも二十万年といいます。
五万年から七万年前には、インドネシアの海底火山でものすごい噴火があり、世界中で人口が二千人に激減したそうです。氷河時代もありました。想像を絶する過酷な環境を幾度も乗り越えて、われわれの命は受け継がれてきたのです。
その間にすさまじいまでの生への執着心、裏返しである死への恐怖心がわれわれの遺伝子にインプットされたことでしょう。これこそが、死後も命の存続を保証する宗教というものを生み出した源ではないか、と私は思うのです。
だが科学、医学が発達すればするほど、宗教が与えるこの保証に疑問を持つ人が増えてくるのは当然のことでしょう。ならば、「いっそう日進月歩の医学に賭けてみようか」。これが冷凍人間の出現ではないでしょうか。このことを指して私は新興宗教だと言ったのです。
昔も今も人類の究極の願いはこの世で〞不老不死〟を得られることでしょう。だが、万が一つにそんなことが実現したらどうなるのでしょう。それこそ千年も万年も生き続けなければならないのです。みんなおそろしく怠け者になり、何をする意欲も湧いてこないと思いませんか。限りある命だからこそ、「何かをしなければ」と必死になるのではないでしょうか。
とっくの昔にホメーロスが『オデッセウス物語』でこんなことを言っています。
〈私たちは死ぬからこそ生きている〉