ケネディ・ダラス・鉄の爪・・・デューク・ケオムカって凄い | 続プロシタン通信

続プロシタン通信

プロシタンとはプロレス史探訪のことです。

20世紀の末、一部で話題となりました「プロシタン通信」の続編をブログの形でお送りします。

 

1970年1月16日、ロサンゼルスでの新春22人国際バトルロイヤルで、怪我をすることによってこの地区から消えたミル・マスカラスは3日後のフォートワースでの対ジョニー・バレンタイン戦(勝利)からダラス地区に入ります。

 

ダラスでの試合を見ていきますと、20日にゲーリー・ハート、27日にベンジー・ラミレス、2月3日にバレンタインと、なかなか癖のある連中とのシングル戦が続きます。そして10日はタッグマッチ、デューク・ケオムカと組んで、キラー・カール・コックス&グレート・マレンコに勝利しました。

 

シングル続きだったマスカラスの最初のタッグパートナーはケオムカだったんですね。ケオムカは「スポータトリアム」を四十数週間連続でソールドアウトした」っという伝説を持つ、ダラスでは大変な人だったんです。そのケオムカが第一線で活躍するのがちょうどこの頃で、以後は、フロリダ地区のフロントが主な仕事となります。

 

 

デューク・ケオムカ、本名Martin Hisao Tanaka(1921 - 1991)はカリフォルニア州サクラメント生まれの日系アメリカ人です。デビューは44年で、当時のリングネームはデューク・カパラニ(Duke Kapalani)でした。

 

ケオムカがダラスで凄かったって、どれくらい凄かったんだい?調べてみたのですが、たまげました。タイトル獲得歴は、ウィキペディアでも見てください。ここでは、ダラスでいつ誰と試合をしたのか、に絞って述べていきます。

 

 

発見できた最古の記録が50年10月10日のバディ・ノックス戦です。この頃、すでにダラスでは週に一度、火曜日が大会の日です。

 

そして翌週からバーン・ガニアに2連勝しています。ルールは柔道マッチ、及び、柔道ジャケットと裸体の混合試合でしたが。当時のガニアはテキサスヘビー級王者でした。

 

 

以下、箇条書きを混ぜます。

 

 

51年2月13日:ルー・テーズ:反則負け:

 

NWA世界ヘビー級王者テーズに初挑戦でした。当時のテーズはいわゆる「936連勝」の最中です。

 

55年12月13日:ゴージャス・ジョージ:勝ち:

 

ジョージはショーマンの権化のように言われますが、きちんとしたレスリングもできた、正真正銘のレスラーでした。

 

56年1月10日:ルター・レンジ:敗北:

 

レンジは黒人レスラーの中で古今東西実力ナンバーワンと言われております。

 

57年4月16日:ドン・レオ・ジョナサン:敗北:

 

ジョナサン勝率とは裏腹に「最強説」の消えない、恐ろしいくらいの身体能力の持ち主です。

 

7月2日:ジョニー・バレンタイン:勝ち:

 

スタミナの塊バレンタインも、この頃はまだまだ顔じゃなかったようです。

 

61年6月20日:ニック・ボックウィンクル:敗北:

 

後のAWA王者が初めて売り出されたのがこの頃です。

 

ヒロ・マツダがメキシコから上陸し8月21日のフォートワースから、ヒュストン地区のリングに上がります。後年、ケオムカ&マツダはフロリダ地区の共同プロモーターとなります。

 

10月31日:バディ・ロジャース:敗北:

 

NWA世界王座に挑戦しました。

 

63年12月3日:ダニー・ホッジ:引き分け

 

ホッジはNWA世界ジュニアヘビー級王者でした。

 

64年6月16日:フリッツ・フォン・エリック:引き分け:

 

これがダラスでの初対決です。純粋な初対決は、61年1月18日、オハイオ州ウォーレンで行われ、引き分けでした。長い因縁の始まりです。

 

9月15日:コックス&アーノルド・スティール:勝ち:大木金太郎(キム・イル)と初タッグ:

 

テーズ対大木の「ヒューストンの惨劇」は翌月のことで、ケオムカはセコンドについております。

 

65年8月17日:エリック&コックス:両者反則:アントニオ猪木と初タッグ:

 

ケオムカ&猪木はこの地区の世界タッグ王座にもつきました(どの試合で獲得したのかは不明)。王座陥落は、66年の2月8日のことで、相手ティームはザ・デストロイヤー(ディック・ベイヤー)&ゴールデン・テラー(クライド・スティーブス)でした。日本風に言うと、デストロイヤー&アトミック組ですね。

 

ちなみにこの66年は、エリックがダラスマットの実権を握った年であり、エリック対ケオムカも嫌になる位に行われております。

 

68年8月27日:ダスティ・ローデス&ザ・スポイラー:敗北:ルー・テーズと初タッグ:

 

この頃になると、ケオムカは完全にベビーフェイスです。

 

テーズは前々年の66年1月にNWA王座をジン・キニスキーに奪われ、すでに52歳でしたが、まだまだ元気でした。

 

ローデスは後の「アメリカンドリーム」、スポイラーはドン・ジャーディン、ザ・ブッチャー、スーパー・デストロイヤーの名でも有名です。おそらくこの試合、ローデス組にはマネージャーとしてゲーリー・ハートがついていたと思われます。

 

69年5月13日:ローデス&バロン・フォン・ラシク:勝ち:ワフー・マクダニエルと初タッグ:

 

ワフーはダラス地区では鉄板のベビーフェイスですね。しかしながら、ローデス&ラシクというのも見たかったコンビであります。

 

でもって、70年2月のマスカラスとのタッグとなります。この辺りで20年にわたる、ダラスのリング上でのケオムカの役割は終わります。

 

 

さて、ジャイアント馬場の名がないことにお気づきでしょうか。劇画「ジャイアント台風」ではエリックのアイアン・クローに耐えるため、肩まで地面に埋まった馬場の顔面をケオムカがジープ(だったと思いますが)で轢く、という場面がありました。あれは梶原一騎特有のフィクションで、馬場がダラスのリングに上がるのは、ずっと後、80年代に入ってからのことです。